3602話
レイは目の前の男が何を言ってるのか分からなかった。
だが、少し考えると何となく事情を理解する。
目の前の男は、レイが使う家を辞退しろと言った。
その家というのは、つまり冒険者育成校側が用意した、レイがガンダルシアにいる間、住む場所ということだろう。
それに気が付くと、なるほどと納得する。
冒険者育成校側の用意した家が、具体的にどのような家なのかは、まだ見ていないので何とも言えない。
だが、セトがいることを考えると、それなりに広い家なのだろうというのは予想出来る。
また、だからこそ目の前の男はその家を使う権利を辞退しろと言ってるのだろうというのも、同様に予想出来た。
「断る」
レイの口から出たのは、即時の拒絶。
レイに家を辞退しろと言ってきた男は、唖然とする。
まさかレイが断るとは……ましてや、一切の躊躇なく断るとは思いもしなかったのだろう。
「わ……私の聞き間違えかな? 今、君は何と言ったのだ? 断ると、そう聞こえたのだが」
「正解だ。間違っていない。お前の耳は正常だよ。断ると言ったんだ」
「き……君は正気かね!? 私の要望をそう簡単に断るなど……一体何を考えているのだ!」
男にしてみれば、まさか自分の要望をレイがあっさりと断るとは思っていなかったのだろう。
あるいは自分の要望……もしくは命令を聞かなかったのが、気にくわなかったのか。
その辺はレイにも分からなかったが、相手がどのような存在でもここで退く訳にいかないのは事実。
何しろ、もし家を借りられるということが事実なら、セトに窮屈な思いをさせなくてもすむのだから。
「お前が誰かは分からない。だが、俺がお前に忖度をする必要はないと思うが?」
「き……君は、私を知らないと?」
「当然だろう。俺は今日ここに来たばかりだぞ? それとも……ミレアーナ王国にまで届くような有名人なのか?」
「ぐっ……それは……」
レイの言葉に、男は言葉に詰まる。
その様子からすると、ガンダルシアでは……あるいはグワッシュ国ではなのかもしれないが、恐らくは相応に有名な人物なのだろう。
だが、それは結局のところミレアーナ王国に複数ある保護国の一つの中で有名という程度でしかない。
そんな男と比べると、レイはそれこそ二大大国であるミレアーナ王国、ベスティア帝国の双方で名を馳せている。
……寧ろ、直接レイと戦い、内乱においてもその力を間近で見た者が多数いるベスティア帝国の方が、ミレアーナ王国よりもレイの名前は知られてすらいた。
もっとも、戦争や内乱でレイに家族や恋人、友人といった者達を殺された者も多いので、有名は有名でも、必ずしも良い意味で有名という訳ではないのだが。
ともあれ、悪名も含めて深紅のレイという存在については広く知られている。
そんなレイと比べれば、目の前の男はどれだけ有名人であっても、限られた場所だけでの話だ。
「だ……だが、君が広く知られているからといって、このガンダルシアで……いや、グワッシュ国で好きに振る舞っていい訳ではない!」
「いや、そもそもお前は誰なんだよ? お前は俺のことを知ってるようだが、俺はお前のことを全く知らないんだぞ? せめて自己紹介くらいはしてから不満を口にしてくれないか?」
「ぐぎっ……」
レイの言葉に、男は悔しそうに……心の底から悔しそうに声を漏らし、レイを睨み付ける。
そのまま数秒、ここでようやくもう片方の集団から一人がレイ達の方に近付いてくる。
「アルカイデさん、いい加減にして下さい! 幾らアルカイデさんが気にくわなくても、もうレイさんがあの家を使うのは領主様からの指示で決まっているんです! ここで貴方が何をどう言ったところで、どうにもなりません!」
その言葉に、アルカイデは何かを言おうとしたものの、それでもこれ以上ここで言っても意味はないと判断したのか、最後に憎々しげにレイを睨み付けると、その場を立ち去る。
アルカイデの取り巻きと思しき者達も、そんなアルカイデの姿を追うのだった。
「結局何だったんだ?」
レイとしては、そう呟くしかない。
話の流れから、先程の男……アルカイデという男が、レイが使う予定の家を辞退させようとしたのは理解出来る。
出来るが、だからといって何故そのようなことをしようとしたのかは分からない。
単純に、有名なレイが気に入らないだけなのか。
あるいは、その家に何かあるのか。
ともあれ、レイがまずやるべきことは……
「ほら、落ち着け」
いきなりレイに命令してきたアルカイデの存在が気にくわないセトを落ち着かせることだった。
「その……申し訳ありません。こちらの都合でレイさんにご迷惑をおかけして」
アルカイデと呼び掛けた男は、そんなレイに対して申し訳なさそうに言ってくる。
相応に鍛えられていることから、それなりの強さを持っているのだろうとレイにも予想出来る男。
その男の言葉に、レイは気にするなと首を横に振る。
「それで、事情については大体理解出来たけど……お前は?」
「ああ、失礼しました。自己紹介がまだでしたね。私はマティソンといいます。レイさんと同じく、冒険者育成校の戦闘の教官をやっています」
「ああ」
その言葉に、レイはここに来る途中に警備兵から聞いた話を思い出す。
教官が二十人程もいるが、その多くは冒険者がついでといった感じで教官をやってるだけで、それが気に入らない教官達と対立していると。
そしてレイの目の前にいるマティソンは、明らかに現役の冒険者だ。
また、マティソンの取り巻き……というのとは少し違うかもしれないが、一緒にいた者達もその多くが現役の冒険者なのは、見れば大体理解出来た。
(あ、これ……いきなり教官同士の権力争いに巻き込まれたか?)
そんな風に思うも、どのみち教官をやる以上はその手の騒動に巻き込まれるのは確実だ。
レイとしては、その手の騒動に自分から関わる気はないが、ダンジョンに潜る以上はマティソンと同じような派閥と見られるのは間違いない。
「一応言っておくが、俺をいいように使うとか、そんなことは考えるなよ」
「いえいえ、そのようなことは最初から考えていません。レイさんのような腕の立つ人をそのように使うなど……」
「あ、ではここが冒険者育成校ですので、私は失礼しますね」
レイとマティソンの会話を聞いていた警備兵が、このままここに残ったら自分も面倒に巻き込まれると判断したらしく、役目は終了したということで、さっさとこの場を立ち去る。
素早い危機判断能力だった。
「あー……それで? ここにいるということは、俺の出迎えにきたということでいいのか?」
警備兵がいなくなったのを確認すると、レイは若干の呆れと共にマティソンに尋ねる。
マティソンはそんなレイの言葉に頷く。
「はい。レイさんが来たという情報が伝わってきたので、出迎えにと。……丁度向こうもその情報を入手したのか、ここに来ましたが」
この場合の向こうというのが、誰を示しているのかは考えるまでもない。
レイもそれが分かっているので、その辺については突っ込まない。
「そうか。出迎えに感謝する。それで、これからどうすればいい?」
「まずは校長に到着の挨拶をして貰います」
「セトはどうする? さすがにセトを校舎の中に連れていく訳にもいかないだろう?」
「そうですね。なので、申し訳ありませんがそちらのグリフォンは、厩舎の方で待っていて貰いたいのですが、構いませんか?」
「ああ、問題ない。……ただ、セトに妙なちょっかいを出すような奴がいたら、そいつがどういう風になるのかは……うん。何も言えないぞ」
「あ、あははは。分かりました。厩舎の側に念の為に見張りを立てておきます」
少し乾いた笑いを発するマティソン。
そのようなことをする者はいないと思っているのか、それともそのようなことをする者に心当たりでもあるのか。
その辺はレイにも分からなかったが、マティソンがそうして請け負った以上、もし何かあってもその責任は自分ではなくマティソンにあるのだろうと、そう判断する。
「分かった。じゃあ、その辺については任せる。……それで、誰がセトを案内するんだ?」
「あ、じゃあ俺が行くよ」
レイの言葉に、マティソンが何かを言うよりも前に、一人が前に出る。
気安い感じのその性格は、レイにとってはそれなりに良い印象を与えた。
馴れ馴れしすぎるのも駄目だが、同時に堅苦しいのもレイは好まない。
そういう意味では、こうして自分からセトを案内すると言ってきた相手は、レイにとって接しやすい相手だった。
「グルルゥ?」
この人と一緒に行けばいいの?
そう喉を鳴らすセトに、レイは頷く。
「そうだ。取りあえず俺の話が終わるまでは厩舎で待っていてくれ。特に何も問題はないと思うが、もし何かあったらその時は自分の判断で対処してもいい」
その言葉に、マティソンを含めた者達の表情が微かに引き攣る。
それはつまり、何かをしたらセトに……ランクAモンスターのグリフォンに襲われる可能性があるかもしれないということなのだから。
とてもではないが、そのような騒動に巻き込まれたくはない。
そう思うのは当然だろう。
マティソンと共にここにいる者達は、教官の仕事をしているが、それよりも冒険者としての行動を重視している者達だ。
それだけに、ダンジョンで多くのモンスターと戦うことになるのだが……そのような経験豊富な者達であっても、セトを前にすればそれだけで勝ち目はないと思うのに十分だったらしい。
「問題はないんだろう?」
「え、ええ。はい。問題はありません」
確認するように尋ねるレイに、マティソンは何とかそう返す。
そう返しながら、セトを案内すると言った男に向かってくれぐれも気を付けるようにと視線で念押しする。
男も実力派の冒険者として知られているので、マティソンに向かって頷くとレイに向かって疑問を口にする。
「今の様子を見ている限りだと、グリフォン……セトは人の言葉を理解しているのか?」
「その辺については何の問題もない。話すことは出来ないが、こっちの言葉は理解しているから。なぁ、セト?」
「グルゥ!」
レイの問いに、セトはその通りだと喉を鳴らす。
そんなセトの様子を見た男は、言葉が理解出来るのなら取りあえず問題はないだろうと判断し、少し緊張した様子でセトに声を掛ける。
「じゃあ、これから厩舎に案内するから、俺についてきてくれ。いいか?」
「グルゥ」
男の言葉に、分かったと喉を鳴らすセト。
そんなセトの様子に安堵した様子で、男はセトを連れてこの場から立ち去る。
一足先に、冒険者育成校の敷地内に入っていった。
「さて、では私達も行きましょう。……レイさんの案内は私がしますので、貴方達はもう解散しても構いませんよ」
マティソンのその言葉に、話を聞いていた者達はそれぞれ嬉しそうにしながら散っていく。
中には、これから歓楽街に出向くといったような話をしている者すらいた。
「全く……あれでも腕利きが揃っているんですけどね。どうしても腕利きとなると、性格的にその……特徴的な人達が多いので」
誤魔化すようなマティソンの言葉だったが、レイはその言葉の意味を十分に理解していた。
そもそも、ギルムには多数の冒険者が……それも腕利きと呼ばれる者達が集まってくるのだ。
レイの知り合いにも多数の腕利きの冒険者がいるが、性格的に問題のある者はそれなりに多い。
……もっとも、そのような者達がもしレイにそう思われていると知れば、それこそお前が言うなと全力で主張するだろうが。
「ここからどうぞ」
マティソンが案内したのは、校舎の中でも小さな扉。
かなり離れた場所には、もっと大きな出入り口がある。
「向こうは?」
「ああ、向こうは生徒用です。こちらが職員用になります」
「分けてるのか。まぁ、そっちの方が楽なのは事実だけど」
今は日中ということもあってか、出入り口付近に人の姿はない。
だが、これが生徒達が帰る時になれば、どうしても人の数は多くなるだろう。
日本では高校に通っていたレイは、それが分かるだけに教官……というよりも教師全般なのだろうが、出入り口が別になってるのは助かることだった。
校舎の中に入ると、マティソンの案内に従って進む。
校長室までの途中で、食堂だとか、図書室だとか、水飲み場だとか……そんな案内を受けながら。
レイにとって意外だったのは、図書室があるということか。
食堂があるのも少し驚いたが、学生達が食事をする場所というのは必要だろう。
だが、図書室は……この世界の本の値段を考えると、今度寄ってみようと思うのだった。