3593話
降り注ぐ日差しは、いつの間にか冷たいものから暖かいものになっていた。
雪もその多くが消え、建物の陰になっている場所にまだ少し残っているくらいだ。
レイがゆっくりすると宣言してから数ヶ月。
年末には年越し蕎麦ではなく、年越しうどんを食べたりもした。
……レイにとって年越しとなるとやっぱり蕎麦なのだから、生憎とこのエルジィンにおいて蕎麦はない。
もしかしたらあるのかもしれないが、レイは見たことがなかった。
そんな訳で、蕎麦ではなくレイが広めたうどんを食べたのだ。
ちなみに年越し蕎麦を食べる時間帯としては、大晦日の昼、夜、夜中という感じに幾つかあるが、レイの場合は基本的に年越し蕎麦の名前通り夜中……日付が変わる頃に食べるのが実家でのやり方だった。
そんな訳で年越しうどんもそれに習い、日付が変わるのに合わせて食べることになる。
また、新年の祝いとしてクリスタルドラゴンの肉を使った料理も食べたりと、年末年始は楽しい時間をすごす。
もっとも、新年になったらなったで、エレーナがいるマリーナの家には貴族派の貴族の多くが挨拶に来たりもして、それがレイにとっては煩わしかったが。
それ以外にも妖精郷に泊まりに行ったり、生誕の塔の様子を見に行ったり、トレントの森の近くに転移してきた湖の表面が凍ったのでそこで遊んだり……冬の前半は忙しかったことを思えば、後半は本当にゆっくりとすることが出来た。
幾つかトラブルに巻き込まれたこともあったが、それについてはレイはトラブル誘引体質を持つのだからと、諦めたが。
そのトラブルもそこまで大きくはならなかったので、問題はない。
そして今はもう、春になったということもあり、ギルムの増築工事も数日後からは大々的に再開すると連絡があった。
そんな中、レイはマリーナの家でセトと共にエレーナ、マリーナ、ヴィヘラ、アーラ、ビューネ……そして珍しいことに、ニールセンとも別れの挨拶をしている。
「レイなら大丈夫だとは思うが、ダンジョンというのは何があるのか分からない。気を付けて欲しい」
エレーナの言葉にレイは頷く。
純粋にダンジョンを攻略した数では、レイはエレーナを上回る。
それでもエレーナが心配しているのを無視する訳にもいかない。
「迷宮都市に行くけど、基本的には冒険者育成校の教官としてだしな。そこまで心配はいらないだろ。それにいつまでも向こうにいる訳じゃないし」
冒険者育成校の教官として採用された……より正確にはダスカーに推薦されたレイだが、具体的にいつまで迷宮都市にいるのかは決まっていない。
数日や数週間といったことはないだろうが、一年、二年、三年といったように長い時間いる訳でもないのだから。
それこそレイの認識では数ヶ月程したら戻ってくるつもりではいる。
もっともその場合はギルムで少しゆっくりしてからまた迷宮都市に向かうつもりだったが。
(何しろ、面倒が多くなってきたしな)
冬の間は、ダスカーの布告によってクリスタルドラゴンの件でレイに交渉を持ちかけてくる者は……完全にいなくなった訳ではないが、極端に減った。
尚、それでもレイにクリスタルドラゴンの件で交渉を持ちかけてきた一件が、レイがこの冬に幾つか経験したトラブルの一つだったりするが。
ともあれ、ダスカーの布告は元からギルムにいる者達にとっては大きな意味を持つが、春になってギルムにやって来た者達……増築工事の仕事を求めて来た者達や、商人、貴族、もしくはそれ以外の者達にとっては、そこまで大きな意味を持たない。
実際、当初レイが迷宮都市のあるグワッシュ国というミレアーナ王国の保護国に向かうのは、もう少し暖かくなってからにするつもりだった。
だが、そのような者達によってちょっとした騒動が数日前に起きたので、急遽出発することにしたのだ。
セトの飛行速度を考えれば、グワッシュ国にある迷宮都市までの移動時間は大幅に短縮出来る。
それこそ徒歩は勿論、馬車や……もしくは馬に直接乗って移動するのとも比べものにならない程に。
なので、冒険者育成校の授業が始まるまでにはもっと後で出発しても間に合う筈だったのだが、このままギルムに残っていると面倒がより増えると判断して、今日出発することにしたのだ。
「レイがいない間、ギルムの方は任せておいて。何かあっても、私がどうにかしてみせるから」
精霊魔法使いとして高い技量を持ち、それこそ何でも出来るのではないかと思えるマリーナの言葉だけに、そこには強い説得力がある。
「マリーナがいるなら安心だな。……それと俺が言うまでもないと思うけど、ダークエルフ達の面倒も忘れないようにしてくれ」
トラペラ対策に連れてきたダークエルフ達は既に冒険者として登録しており、冬の間に街中の依頼を多数片付けた功績によって、ランクGを通り越してFまで上がっている。
既にギルムの外に出て討伐依頼も受けられるようになっており、やる気満々で行動しているらしい。
元々が、故郷を出て冒険者としてやっていきたいと思っていた者達だ。
現在はその夢を叶え、思う存分活動していた。
とはいえ、今までずっと小さい場所にいたダークエルフ達だ。
突然ギルムのような大きな街……半都市とも呼べる場所に来れば、その人の多さに戸惑う。
もしくはダークエルフでは当然のことでも、多くの者が集まっているギルムでは通用しないことも多い。
そういう意味で、マリーナの助けはいざという時に必要な筈だった。
「ええ、あの子達も頑張ってるから、何かあったら……それで本当にどうしようもなかったら、私も助けの手を伸ばすつもりよ」
すぐにではなく、本当にどうしようもなくなってから手を伸ばすのは、迂闊に助けて、それによって何かあったらすぐにマリーナに助けを求めるようになったら困ると思ったからなのだろう。
「迷宮都市……それも結構広いダンジョンなんでしょう? 間違いなく強敵がいるでしょうし、羨ましいわね」
しみじみといった様子でヴィヘラが呟く。
レイもヴィヘラの戦闘狂ぶりについてはこれ以上ない程によく知っているので、ヴィヘラの気持ちは十分に分かる。
とはいえ、だからといってヴィヘラを連れていく訳にもいかない。
あるいは、単純にダンジョンに行くだけならヴィヘラを連れていってもいいかもしれない。
だが、レイはあくまでも冒険者育成校の教官として行くのだ。
そうなると、ヴィヘラが野放しになってしまう。
極上の美女で娼婦や踊り子が着るような薄衣を身に纏っていて、そして戦闘狂。
そんなヴィヘラを連れていけば、間違いなく騒動になるだろう。
また、それ以外にも今頃は穢れの本拠地の辺りに腕利きの者達が集まっており、残党を待ち構えている筈だ。
その件で何かあった時、元ベスティア帝国の皇女という立場のヴィヘラは、大きな意味を持つ。
その辺の事情を考えると、迂闊に連れていく訳にいかないのも間違いなかった。
「うー……ダンジョンとか迷宮都市とか、羨ましいわね。ボブと一緒に出て行った妖精もいるんだし、私も一緒に行ってもいいと思うんだけど」
ニールセンが心の底から残念そうに言う。
ニールセンが言うように、穢れの一件で妖精郷に避難していたボブはもういない。
元々春になったら旅立つとは言っていたのだが、春になったと判断するとレイよりも早く旅立ったのだ。
一応レイもそんなボブを見送ったのだが、そのボブと一緒に妖精の一人が一緒に行くことになった。
その話を聞いた時、長がよく認めたなと驚いたレイだったが、その妖精は長を納得させるだけの何かを用意したのだろう。
そうであれば、レイが特に何かを言うつもりはなかった。
そんな訳で、ボブと一緒に妖精が旅立ったのだから、自分も……と、そうニールセンが思うのはおかしな話ではない。
とはいえ、ニールセンは普通の妖精ではなく長の後継者という立場だ。
……長にしてみれば、ニールセンは有能な妖精だが同時に問題児でもある。
そのようなニールセンを長期間妖精郷の外に出すようなことを出来る筈もない。
「長が許可を出すのなら、それもいいとは思うんだけどな。けど、無理なんだろう?」
「う……それは……」
ニールセンはレイの言葉に何も言えない。
実際、長が許可を出すとは思えなかったからだろう。
あるいはこれで、ニールセンが問題児ではなく良い子だと長に思われていれば、もしかしたら見聞を広めるという意味で許可も出たかもしれないが。
(その辺りは日頃の行いが返ってきた形なんだろうな)
ニールセンを見てそう思っていると、次にアーラが口を開く。
「レイ殿であれば、問題はないと思います。ですが、ダンジョンは何があるか分からない場所である以上、気を付けて下さい」
レイの強さを十分に知っており、エレーナ達のように想い人であるという訳でもないアーラにしてみれば、客観的にレイの実力ならダンジョンでも余程のことがなければ問題はないと思えた。
……もっとも、場所はダンジョンだ。
その余程のことというのが起こってもおかしくない場所なのは間違いなかったが。
ただ、レイならそれでもどうとでも対処出来るのではないかと思えるのだが。
「ああ、ダンジョンに潜る時は気を付ける」
俺は冒険者育成校の教官として行くんだが。
そう思いつつも、レイはアーラの言葉に素直に頷く。
実際、レイが教官をやるのは間違いないし、それをサボるつもりもない。
だが、それはつまり教官の仕事をしていない時は自由時間であるということであるのも事実。
その時間を使ってダンジョンに潜るのが、レイの狙いでもある。
……実際にどのような感じになるのかは、やってみなければ分からなかったが。
「ん」
最後にビューネがレイに向かって短くそれだけ言う。
いつものような一言だったが、ビューネと付き合いの長いレイは何を言いたいのかを理解していた。
気を付けて、と。
表情を僅かに……本当に僅かにだが変えたビューネの言葉を理解するレイ。
「ああ、分かった。頑張ってくるよ。……セト、そっちもいいか?」
「グルゥ? グルゥ!」
多くの者と話していたレイとは違い、セトはエレーナの使い魔のイエロとだけ話をしていた。
イエロにとって、セトは一番の友達だ。
そんなセトが暫くギルムを離れるというのは、イエロにとっても非常に残念なことだったのだろう。
セトは行かないでと言うイエロを慰めていたのだ。
セトも、イエロを大事な友達だと思っている。
しかし、それでもやはりレイが行くと言っている以上、セトはレイについていかないという選択肢はない。
……そもそも、ギルムからグワッシュ国にある迷宮都市まで、歩きで行った場合はどれだけ掛かるのかも不明だ。
冒険者育成校の教官として春から働くのは、まず無理なのは間違いなかったが。
そんな訳で、レイが迷宮都市に行くのにセトの協力は必須だった。
「イエロ、お前の気持ちも分かるけど、俺やセトにはやらないといけないこともある。それを分かってくれ」
そう言うレイだったが、一瞬……本当に一瞬だけ、イエロを連れていくのはどうか? と思わないでもなかった。
ただ、すぐに戻ってくるのならともかく、最低でも数ヶ月くらいはギルムに戻ってくることは出来ない筈だ。
そうである以上、エレーナの使い魔のイエロを迷宮都市に連れていける筈もない。
イエロにとってセトが一番の友達であるのは間違いないが、同時にエレーナに対して主人……いや、母親のような気持ちすら抱いているのだから。
そのようなイエロだけに、もしレイやセトと一緒に迷宮都市まで行って数ヶ月ギルムに戻ってこられない……つまりエレーナと会えないと知れば、迷宮都市でイエロが泣き叫んでもおかしくはない。
まだ、イエロは子供……いや、ドラゴンの生きる年月を考えれば、赤ん坊でしかないのだから。
「キュウ……」
レイの言葉に、残念そうに鳴き声を上げるイエロ。
レイとセトからの説得……それだけではなく、エレーナからも色々と言われていたのを思い出したのだろう。
「悪いな」
残念そうな様子のイエロをそっと撫でると、レイは周囲を見る。
この家に住む面々が集まっているのを改めて見たレイは、口を開く。
「さて、じゃあ行くとする。春の終わりか夏くらいには一度戻ってくるから、その時にギルムの増築工事がどこまで進んでるか楽しみにしてるよ」
レイの言葉を聞いたセトが近付いてくる。
そんなセトを一撫ですると、レイはその背に跨がる。
「じゃあ……グワッシュ国にある迷宮都市、ガンダルシアに行ってくる!」
そうレイが言うと、セトはその言葉を合図に数歩の助走の後、翼を羽ばたかせて上空に駆け上がっていくのだった。