3563話
レイがギルムに戻ってきた日の翌日……
「じゃあ、俺とセトは妖精郷に行ってくる。今日はもしかしたら向こうに泊まるかもしれないから、戻ってこなくても心配しないでくれ」
朝、レイはそう言ってセトの背に乗る。
そんなレイを見送るべく、エレーナ達が集まっているものの、マリーナは微妙に不機嫌そうだ。
これはレイに対して不機嫌になっている訳ではなく、昨夜の一件……宿に置いてきた筈のダークエルフ五人のうち、三人が夜の街に繰り出していたのを知っての不機嫌だ。
勿論、マリーナも街に繰り出した三人のダークエルフの気持ちは分かる。
そもそもマリーナ自身も好奇心により里を出て、冒険者として活動していたのだから。
だからこそ、マリーナもその三人のダークエルフの気持ちは分かる。
分かるが、それでも今日はトラペラが街中にまだいないかどうかを確認すると言っておいたにも関わらず、夜の街に繰り出すといったことをしたのが面白くなかったのだろう。
(触らぬ神に何とやら)
そんな風に思いつつ、レイはセトの首を軽く叩いて合図を送る。
レイの合図に、セトは数歩の助走で翼を羽ばたかせて上空に駆け上がっていく。
(さて、風の精霊を使った結界……俺とセトは通っても問題ないらしいけど、どうだ? 風の精霊を使った結界は、あくまでも通った者について知らせるだけで、弾くとかそういうのはないだろうから、もし失敗していても問題はないんだが)
マリーナだけならレイも完全に信頼出来たが、ダークエルフの五人も風の精霊の結界には協力している。
マリーナとは付き合いも長く、精霊魔法の実力については十分以上にレイも理解していた。
しかし、その五人は会ってからまだそれ程時間が経っておらず、結果として能力についてはまだあまり把握していなかった。
……ヴィヘラとの模擬戦でいいように倒されたのはその目で見ていたが。
だからこそ、余計に心配になったという一面もそこにはあった。
そんな訳で、風の精霊の結界については少し心配していたレイだったが……
「おお」
空を飛ぶセトは、何の問題もなくギルムの上空に到着した。
具体的にどの辺に風の精霊の結界があるのかは、レイには分からない。
分からないが、それでも現在こうして上空にいる以上はその結界は通りすぎたと思ってもいいだろう。
「グルゥ?」
感嘆の声を上げるレイに、セトはどうしたの? と空を飛びながら首を後ろに向ける。
そんなセトの様子に、レイは何でもないと首を横に振る。
「取りあえず妖精郷に行くとしようか。今はここにいても意味はないしな」
レイの言葉にセトは喉を鳴らし、妖精郷の存在するトレントの森に進むのだった。
「ちょっと、何だか随分と遅かったじゃない! 一体何をしてたのよ!」
レイとセトが妖精郷に入った瞬間、ニールセンがレイに向かって突っ込んでくる。
ニールセンにしてみれば、レイとは随分久しぶりに会うような気がしたのだろう。
……実際にレイが妖精郷を空けていた日数はそこまで長くはなかったのだが。
ただ、ニールセンはここ最近ずっとレイと一緒にいた。
そんなニールセンにしてみれば、ここ暫くレイがギルムに行っていて妖精郷に戻ってくることがなかったというのは、不満だったのだろう。
それこそ、本来なら数日が数十日に感じられるくらいには。
レイもそんなニールセンの気持ちが分かる……訳ではないが、何だかんだと結構な時間ギルムにいたのを思えば、そんな風に思われても仕方がないだろうと思う。
「悪いな、ニールセン。ギルムの方で色々とあったんだよ」
それは事実。
トラペラの一件や、スノウオークによるスタンピード、トラペラ対策にダークエルフの里に行く……といったように、この短時間で本当に忙しかったのだ。
レイにしてみれば、最悪の場合は世界の終わりが来るという穢れの一件を片付けたのだから、この冬はゆっくり出来ると思っていたのだが。
だが、そんなレイの予想とは裏腹に、トラブル誘引体質の本領発揮とばかりにレイは妖精郷からギルムに行った短い時間で複数の騒動に巻き込まれた。
……もっとも、トラペラやスノウオークのスタンピードについてはレイがトラブルに巻き込まれたというより、自分からトラブルに関わったのだが。
しかし、レイやその仲間達が積極的にトラブルに関わらなかった場合、ギルムが大きな被害を受けたのは間違いないだろう。
そういう意味では、レイはトラブルに自分から関わったことについては迂闊だったと思ってはいない。
「むぅ……しょうがないわね」
ニールセンはレイからある程度の事情を聞くと、仕方がなかったとある程度は納得した様子を見せる。
「けど……レイがギルムに行ったこの短時間でそんなに面倒が起こるなんて。ギルムは本当に大丈夫なの?」
少しだけ心配そうに尋ねたのは、この妖精郷はギルムからあまり離れていない場所にあるからだろう。
実際には相応に離れてはいるのだが、辺境全体として見た場合、妖精郷のあるトレントの森はギルムのすぐ隣にあると認識してもおかしくはない。
ニールセンもその辺については理解している為か、やはりレイの言葉で心配に思ったのだろう。
「大丈夫だとは思うぞ。それにこの妖精郷は霧の結界で守られている。もしトラペラが侵入しようとしても、そう簡単にはいかないだろうし」
「本当に?」
「多分。何しろトラペラについては、まだ分かっていることが少ない。俺が戦った感じ、恐らく大丈夫だろうとは思うが、それはあくまでも俺の経験からの話で絶対じゃない」
「うーん……じゃあ、取りあえず長にでも話してみる?」
「そうだな。……ああ、これはお土産だ。他の妖精達と食べてくれ」
そう言い、レイはミスティリングから大量のサンドイッチを取り出す。
出発する前にマリーナに取り寄せて貰ったサンドイッチだ。
さすがに大量のサンドイッチを作るのはマリーナにとっても面倒だったのか、あるいはダークエルフが昨夜夜の街に遊びに出たのを不満に思ってか、とにかくマリーナはレイから妖精郷にお土産で持っていくサンドイッチを用意して欲しいと言われ、それで用意されたのがこれだった。
「わぁ!」
大量のサンドイッチが入っている籠を見て、嬉しそうに声を上げるニールセン。
いや、それに喜んだのはニールセンだけではない。
レイとニールセンが話しているということで、迂闊にちょっかいを出せなかった……もしちょっかいを出したら、場合によっては長のお仕置きがあるかもしれないと恐れていた他の妖精達も、レイの出した複数の籠に入ったサンドイッチを見ると歓声を上げて飛んでくる。
(早まったか?)
雲霞の如く……という表現は少し大袈裟かもしれないが、とにかく多くの妖精がサンドイッチに群がったのを見たレイは、もしかしてサンドイッチを出したのは失敗だったか? とも思う。
もっとも、既にサンドイッチを出した後である以上、今ここでそのように思っても既に意味はなかったが。
ただ、問題なのは……
「ニールセン、おい、ニールセン」
ニールセンまでもがサンドイッチの詰まった籠に突っ込んでいたことだろう。
レイが呼び掛けても、サンドイッチに……より正確には他の妖精達から自分のサンドイッチを奪ったり、あるいは自分のサンドイッチを奪われないようにしているニールセンはレイの声が耳に届かない。
「ニールセンを相手に一人では無理よ! 全員で行くわよ!」
『おお!』
「あ、ちょっと。それは卑怯よ! ずーるーいー!」
長の後継者のニールセンは、純粋な能力という点では他の妖精達よりも上だ。
だが、長のように圧倒的に他の妖精よりも上なのかと言われれば、それは否だ。
一人の、あるいは二人、三人、四人、五人といった妖精を相手にすれば、勝利することも出来る。
もう少し妖精の数が増えても、負けない戦いは出来るだろう。
だが、それ以上に妖精の数は多い。
楽しければそれでいいという妖精が多いだけに、それが面白いと思えば一致団結するのも珍しくはない。
それこそ、今のように。
そうして多くの妖精達と戦うことになったニールセンは、既に他の妖精からサンドイッチを奪うような余裕はなく、自分のサンドイッチを守るので精一杯だった。
「お肉いただき!」
「野菜は私よ!」
「あー! ちょっと、何をするのよ!」
ニールセンが持っているサンドイッチは、山鳥の肉を柔らかくなるまで煮込み、野菜と一緒に挟んだものだ。
そのサンドイッチの具を、全てではないにしろ結構な量を奪われたニールセンの口からはそんな悲鳴が上がる。
「ほら、ニールセン。サンドイッチはその辺にして、長に会いに行くぞ。セトは……まぁ、いいか」
先程までレイの側にいたセトだったが、今はいつの間にかやってきたピクシーウルフの子供達と一緒に遊んでいた。
長との話でセトがいる必要は特にないので、レイはその件については特に何も言わない。
「ちょっと待ってよ! まだサンドイッチが……あれ?」
レイに対してまだここでやるべきことがあるといった様子で叫ぼうとしたニールセンだったが、その言葉の途中で不意にその動きが止まる。
正確には手足や顔、羽根は動かせるのだが、胴体だけが何者かに掴まれたかのように動けなくなっているというのが正しい。
それを見た瞬間、ニールセンの身に何が起きたのかを理解したのだろう。
数秒前までは一斉にニールセンに攻撃をしていた妖精達が危険を察知し、即座にその場から離れる。
そんな周囲の様子を見たニールセンは、その顔色を急速に青くしていく。
身動きが出来ないのが、一体誰の仕業なのかを理解した為だ。
それでも手にしたサンドイッチを放さないのは、さすがと言うべきか。
「お、長……?」
そう口にするニールセンだったが、声が返ってくることはない。
ただ、次の瞬間ニールセンは猛スピードでその場から移動していく。
明らかに自分の意思で飛んでいるのではなく、見えない手か何かに鷲掴みにされ、強引に移動させられているような、そんな様子で。
「あー……うん。ご愁傷様。セト、俺は長のところに行ってくるから、お前は遊んでいてくれ」
「グルゥ!」
レイの言葉にセトは嬉しそうに喉を鳴らすと、ピクシーウルフとの遊びを再開する。
次にレイの視線が向けられたのは、サンドイッチの入った籠。
先程までは対ニールセンで一致団結していた妖精達だったが、そのニールセンがいなくなったことによって、現在は再びサンドイッチの奪い合いを行っていた。
レイが持ってきたサンドイッチは結構な量があるので、全員が満足出来るだけの量はある筈なのだが……
(自分の好きな具とかで譲れないものがあるんだろうな)
籠に入っているサンドイッチは、全て具が違うといった程にバリエーション豊かではないが、それでも数種類のサンドイッチはある。
それだけに、妖精達の好みによってそれを少しでも多く自分で確保したいと考え、奪い合いになっているのだろう。
ニールセンもいなくなった……より正確にはレイよりも先に長のいる場所まで行ったのは間違いないので、レイはこれ以上ここにいる意味はないと判断する。
(というか、あそこに残ったままだったら、もっとサンドイッチが欲しいとか、そんな風に言われるだろうし)
渡そうと思えばまだお土産となる物はある。
それでも今はサンドイッチだけで十分だろうと判断し……そしてレイは、その場を立ち去るのだった。
「あ、レイさん」
長のいる場所に向かっているレイに、そう声が掛けられる。
声のした方に視線を向けると、そこにいるのはボブ。
春になったら妖精郷を出て再び旅を続けるという話だったが、今はまだ冬だ。
その為、ボブがここにいるのは特におかしくはない。
「ボブか。今日は猟じゃないのか?」
腕利きの猟師のボブは、猟に出れば冬だというのに結構な獲物を獲ってくる。
しかし、今のボブは特に獲物を持ってはいない。
また、珍しくボブの側に妖精の姿がない。
ボブは妖精郷にいる妖精の中でも親しい妖精が一緒にいることが多い。
レイがボブと遭遇した時、基本的に妖精と一緒にいたのを覚えていた。
だが、今のボブの周囲には妖精の姿はない。
それを不思議に思って聞いたのだが、そんなレイの言葉にボブは少し困った様子で口を開く。
「実は、妖精が集まって何かをするとかで……」
「そういうこともあるのか」
そう言いつつ、もしかして先程のサンドイッチに集まってきた妖精達の中にはボブと親しい妖精もいたのでは? と思ってしまう。
「向こうの方に行けば妖精が多く集まっていたから、もしかしたらそこにボブと一緒にいる妖精がいるかもしれないな」
その言葉に、ボブはじゃあそっちに行ってみると口にするのだった。