3562話
マリーナとヴィヘラが帰ってきたのは、夜も十時すぎくらい……普通なら寝ている者がいてもおかしくはない時間だった。
ただ、マリーナの家にいる面々の中で眠っていたのはビューネだけだったが。
ちなみにこのビューネ、レイとエレーナとアーラが串焼きを食べている時、イエロや後からやってきたセトと遊んでいたのだが、食欲を刺激する香辛料の香りに惹かれてやって来て、しっかりとレイから串焼きを貰っていた。
そんなビューネも、今はもう眠っている。
ビューネが懐いているヴィヘラは、面白くなさそうな表情を浮かべており、そんなヴィヘラにレイは不思議そうに尋ねた。
「ヴィヘラ、何かあったのか?」
「面白そうな相手が出て来たのに、騎士が戦いを止めたのよ」
「あー……なるほど」
ヴィヘラの戦闘狂ぶりを思えば、騎士の行動は余計なことだと思っても仕方がない。
とはいえ、騎士にしてみればマリーナや五人のダークエルフによる風の精霊を使った結界を張るのが最優先事項だ。
そういう意味では、レイも騎士達の行動については理解出来た。
ヴィヘラも、そんな騎士の様子については理解していたのだろう。
だがそれでも、やはり面白くないと思う点はあるのだ。
とはいえ、それも仕方がないと思ってはいるのだが。
そんなヴィヘラの様子から、これ以上その件については触れない方がいいだろうとレイは判断し、ある意味で今回の本題をマリーナに尋ねる。
「ヴィヘラの件はともかくとして、マリーナがこうして戻ってきたことを考えると、トラペラ対策の結界は無事に張れたのか?」
「ええ、何とかね。とはいえ、あくまでも風の精霊を使った結界だから、トラペラ……いえ、トラペラに限らず空を飛ぶモンスターの侵入を防ぐのではなく、入って来たら察知出来るといった程度でしかないけど」
「それでも十分役に立つだろ。トラペラのように、透明なモンスターがギルムに入ってきたら、それで分かるんだし。それに敵の侵入を防ぐような本格的な結界については、それこそギルムの増築工事が終わってから本格的にやった方がいい」
「でしょうね。私もそれしかないと思うわ。……ああ、それとダスカーが言っていたように風の精霊を使った結界については、レイやセトが接触しても問題ないようにしておいたから」
「……俺やセトが何かをしなくてもいいのか?」
自分やセトが結界に触れても問題がないようにするというのは、ダスカーから聞いていた。
だが、そのようなことをする以上、自分とセトが何らかの作業……例えば血を一滴使うとか、あるいは魔力の波長を合わせるとか、もしくはすぐにはレイも思いつかないが、とにかくそういうことをするのだとばかり思っていたのだが、マリーナは既にもう終わったと言う。
不思議そうに尋ねるレイの様子が面白かったのか、マリーナは笑みを浮かべながら頷く。
「ええ、特に何かをする必要はないわ。もっとも、これはあくまでも精霊魔法だからこそよ。私の精霊はレイとセトを知っているから、それをあの五人の精霊達にも情報を共有して、それで問題ないようにしたの」
「……そういうものか」
レイとしては、マリーナの言ってることを完全に理解出来た訳ではない。
ただ、それでもこうして話を聞く限りでは色々と特殊な行動をしているようには思えたので、取りあえず問題はないのだろうと納得しておく。
(多分だけど、あの五人のダークエルフが難しいとか何とか言っていたのは、その辺が理由なんだろうな)
マリーナの言ってることが、具体的にどのくらいの難易度なのかはレイには分からない。
ただ、ダスカーとマリーナがその件について話していた時のダークエルフ五人の様子を見ていた限り、決してそう簡単なようには思えなかった。
「言っておくけど、あくまでもレイとセトの件が問題なくなったのは、私達の風の精霊の結界だけよ。ギルムの増築工事が終わって、そこで改めて結界を張る時は……今回のように簡単にどうこう出来るとは思わないでね。それこそ、レイやセトにも色々と手を打って貰う必要があるから」
「だろうな。分かった。その時はしっかりとやるよ。具体的に何がどうなるのかは分からないが」
レイにしてみれば、その辺についての知識はない。
勿論簡単な魔法の結界については、多少の知識はあるのだが、ギルムを……それも増築工事をして大きくなったギルムを覆うような結界ともなれば、具体的にどのようにするのかは分からない。
ダスカーにとっても、ギルムを守る結界は非常に重要である以上、その辺りの情報については最重要機密となっている。
「それは私もあまり分からないわ。……ただ、新しい結界は上空だけではなく、地下にも張るらしいわね。今までのギルムだと、地下を掘って抜け出したりもされていたみたいだし」
「それは……いいのか? ギルムのことを思えば、そうした方がいいのは分かる。けど、スラム街のことを考えると、反発するんじゃないか?」
「それもあって、レイの特例なんでしょうね」
マリーナの言葉に、レイは納得する。
レイはこれまで何度かスラム街の住人……より正確にはスラム街に拠点を持つ裏の組織と揉めている。
その結果として、レイと揉めた裏の組織は大きな損害を受け、場合によってはその損害の為に他の組織に潰されたり、吸収されたりといった結末を迎えたりもしており、その為に現在スラム街にある裏の組織においては、レイには可能な限りちょっかいを出さないということが暗黙の了解となっていた。
あくまでも暗黙の了解である以上、新しい組織はそれを知らずにレイにちょっかいを出す可能性もあったが、それについては自業自得というのがスラム街にある裏の組織の考えだった。
そんなレイを懐刀としているのがダスカーだ。
ギルムの増築工事によって新たに張られる結界が地下にまで広がっていても、それに不満は抱くだろうが、もしその不満を行動に移した場合、ダスカーというギルムの領主を敵に回すだけではなく、その懐刀であるレイが出てくる可能性もあった。
レイと敵対することを考えれば、地下深くまで広がるだろう結界についても受け入れるしかないという結論に達する筈だ。
それがマリーナの予想であり、話を聞いていた者達……レイを含めた他の面々も、その言葉には納得出来てしまう。
「なるほど、レイが結界を素通り出来るようにするというのは、そのような考えもあってのことか。そこまでダスカー殿がレイを信頼しているとなれば、ダスカー殿と敵対をするといつレイが出て来てもおかしくはないと、そのように思う者がいてもおかしくはないだろう」
「エレーナの言う通りよ。だからこそ、結界についてはあまり心配しなくてもいいと思うわ。まぁ、その辺は領主のダスカーが考えることでしょうから、私達はそこまで気にしなくてもいいと思うけど」
マリーナのその言葉で、ギルムの増築工事が完了した後で張られる結界についての話は終わり……トラペラについて話題は移っていく。
「風の精霊の結界でトラペラの侵入に対処するというのは分かった。けど、まだギルムの中にいるかもしれないトラペラについてはどうするんだ?」
トラペラ対策の為に、マリーナとセトが二日程いなくなっていた。
幸いにも、その間にトラペラによる騒動はなかったものの、正門での多数のトラペラとの戦いが終わった後でも、まだトラペラがギルムの内部にいる可能性は十分にある。
だが、今日はギルムに戻ってきて風の精霊の結界を張っただけだ。
……実際には、風の結界を張った後でもマリーナにはそれなりに余裕があったのだが、五人のダークエルフ達は結界の補助だけでもかなりの魔力を消費した上に、そこにレイとセトは結界に察知されないように追加の設定を行ったので、限界以上に魔力を消費してしまっており、ギルムにトラペラがいるかどうか見て回るといったことは出来なかったというのが正しい。
「明日にでも回ってくるわ。あの子達も明日には魔力が回復してるでしょうし」
「ああ、その件だけど……結局あの五人はどこで寝泊まりをすることになったんだ?」
マリーナの言うあの子達というのが、ダークエルフのことを示しているのは明らかだ。
レイから見れば、立派に成人しているように見えた五人だったが、ダークエルフとしての年齢を考えると、マリーナから見ればまだまだ未熟なのだろう。
実際にどのくらい未熟なのかは、レイにもちょっと分からなかったが。
「私の知ってる宿を紹介しておいたわ。そこまで高額な宿ではないし、宿の従業員も人当たりの良い人達だから問題ないでしょう」
「マリーナの紹介した宿か。それならあまり心配はいらないだろうな」
元ギルドマスターだっただけに、マリーナの顔は広い。
そんなマリーナの紹介した宿である以上、五人のダークエルフも快適な生活が出来る筈だった。
「マリーナさん、その五人のダークエルフですけど……レイ殿から聞いた話では、あまりお金を持ってきてないということでしたが、大丈夫なのですか?」
「アーラの心配も分かるけど、その辺は問題ないわ。それなりに持ってきている筈だし、それがなくても風の精霊の結界の件でダスカーからそれなりに報酬を貰っていたし」
マリーナがメインで、五人のダークエルフはその補助やサポートといった感じではあったが、それでもその五人がいなければ風の精霊の結界を張ることは出来なかった。
そうなると、またどこからトラペラが……あるいはトラペラではなくも、空を飛ぶモンスターが入ってこないとも限らない。
今まで結界がなくても特にモンスターが上空から侵入してこなかったのは、偶然によるものだ。
そうである以上、侵入を防ぐことが出来ずとも、侵入を察知出来るようになるというのは大きな意味を持つ。
その補助をした五人のダークエルフに相応の報酬を支払ったのはそうおかしな話ではなかった。
「あの五人が大人しく宿にいればいいけどね。……もしかしたら酒場辺りに行っているかもしれないわよ?」
ヴィヘラの指摘は、マリーナも否定は出来ない。
それどころか、十分にその可能性はあるだろうと思えてしまう。
何しろ、あの五人は里の外の世界に憧れを持っていた。
そんな五人がこうしてギルムという大都市――規模としては一応まだ街なのだが――にやって来た以上、好奇心に負けて夜の街に遊びに出る可能性は決して否定出来ない。
寧ろ、好奇心に突き動かされるように夜の街に出るのは自然な流れだろう。
「ヴィヘラの言う通りなら、ちょっと不味いんじゃないか? あの五人もダークエルフだ。妙な騒動に巻き込まれたり、もしくは自分からトラブルに関わる可能性があるし」
ダークエルフはエルフと同じく顔立ちが整っており、全員が美形と評しても決して間違いではない。
それだけに、その美男、美女とお近づきになろうとする者が相応にいるだろう。
……いや、それだけであれば、まだちょっとした冒険ですむかもしれない。
しかし、もし違法の奴隷商人に目を付けられるようなことになった場合、最悪の結果が待っている可能性があった。
「ちょっと様子を見てくるわね」
レイとヴィヘラの話から、少し心配になったのだろう。
マリーナはレイ達から離れる。
様子を見てくると言ったものの、実際に宿に自分が直接行く訳ではない。
マリーナが精霊魔法によって、宿にいる五人の様子を見るのだ。
もっとも、そのような行為は誰に対しても出来る訳ではない。
あくまでもマリーナの精霊魔法の技量があり、様子を見るべき相手が精霊魔法を使うダークエルフであるという点、そしてマリーナのホームグラウンドと呼ぶべき場所で地形について熟知している……他にも色々な要素によって、初めて出来ることだった。
「どう思う?」
マリーナの背中……背中が大きく開いたパーティドレスに包まれたその優雅な褐色の曲線を見ながら、そうレイは尋ねる。
「初めてダークエルフの里を出たんでしょう? そう考えると、やっぱり今日は街中に出てもおかしくはないと思うけど。……とはいえ、マリーナと一緒に風の精霊の結界を張った結果、どのくらい疲れているのかどうかでしょうね」
「マリーナの言葉を聞く限りでは、かなり疲れているように思えたしな。そんな状況で夜の街に出るのは……出来るか? まぁ、やろうと思えば出来るだろうけど、そうなると明日から厳しくなりそうだけどな」
マリーナから、明日にはギルムを見て回ってトラペラを見つけると聞いていた。
二日酔いや寝不足でそのようなことを出来るのかどうか、レイは少しだけ心配だった。