3559話
「お、見えてきたな」
「グルゥ」
視線の先、夕暮れの中に見えてきたギルムの姿に、レイは嬉しそうに言う。
レイよりも五感の鋭いセトは、当然ながらもっと前にギルムの姿を確認してはいた。
しかし、それでもレイが喜んでいるのだから、それに対して水を差すようなことはしない。
「取りあえず……領主の館に降りてくれ」
「グルゥ? ……グルルルゥ?」
マリーナの家でなく、領主の館でいいの?
そう喉を鳴らして尋ねるセトだったが、レイはセトの首の後ろを撫でてそれでいいと言う。
「トラペラ対策で風の精霊魔法が使える者達を連れてきたんだ。ダスカー様も、出来るだけ早くギルムに精霊魔法を使った結界を張って欲しいだろうし」
そんなレイの言葉に、セトはそういうことならと領主の館に向かって進む。
セトにとっても、領主の館に行くのは決して嫌な訳ではない。
寧ろ、料理人達が色々と美味い料理を食べさせてくれるので、それを望んですらいた。
(さて、多分怒られないだろうとは思うけど……ダスカー様には、やっぱりギルムに直接空から降下する許可についての確認をしておく必要があるだろうな)
なあなあで特に話をしないまま、今までのように好き勝手に上空からギルムに降りるという行為を続けた場合、いつの間にかそれが大きな問題となる可能性も十分にある。
だからこそ、その辺についてはダスカーとしっかりと話をしておく必要があるのは間違いなかった。
そんな風に考えている間にもセトは翼を羽ばたかせ続け、既にその姿はギルムにある領主の館の上空までやって来ている。
そのまま地上に向かって降下し、いつもの庭にセト籠を下ろす。
一度上空に戻り、今度は普通に着地する。
セトにしてみれば、どれも慣れた行為だ。
特に失敗するようなこともなく、一連の動作をこなす。
するとすぐに騎士達が姿を現す。
「レイ、戻ってきたのか! じゃあ、そっちに?」
騎士の一人が嬉しそうにレイに尋ねる。
精霊魔法を使ってトラペラの存在を察知出来るマリーナ、そして魔力を感知する能力でトラペラを察知出来るセト。
そんな一人と一匹がいなくなった以上、トラペラが現れても対処出来ない。
中には冒険者の中で魔力を感知出来る者に指名依頼という形で呼んではどうかという意見もあったのだが、それには混乱に拍車を掛けるだけという意見もあり、まだどうするべきか決まってはいなかった。
そんな中でレイ達が戻ってきたのだから、喜ぶなという方が無理だろう。
「ああ。マリーナの里から連れて来た精霊魔法使いがいる。……ほら、出て来たぞ」
近付いて来たセトを撫でつつ、レイはセト籠に視線を向ける。
するとそのタイミングでセト籠が開き、そこからマリーナとヴィヘラ、ダークエルフの五人が姿を現す。
もっとも、その中の一人……朝食後にヴィヘラと模擬戦を行ったダークエルフの男は、夕方になった今でもまだショックは抜けていないらしく、元気がなかったが。
「分かった。すぐにダスカー様に知らせてくる。レイ達は……この前の応接室で待っていてくれ。セトにはすぐに料理を出すように言っておくから」
そう言い、騎士はすぐに建物の中に戻っていった。
「だ、そうだぞ。セトは俺達が戻るまでゆっくりしていてくれ。料理も出してくれるみたいだし」
「グルルゥ」
レイの言葉に嬉しそうに喉を鳴らすセト。
領主の館の料理人の技量は、今までに何度も料理を食べさせて貰ったので十分に知っている。
それにセト好きの一員でもあり、しっかりとセトを可愛がってくれる相手でもあるのだ。
その為、セトはレイの言葉に特に不満はなさそうに喉を鳴らして、最後にレイに顔を擦りつけてから、離れていく。
そんなセトの様子を眺めていたレイだったが、マリーナが自分の側までやって来たのに気が付き、口を開く。
「すぐにダスカー様を呼んで来るという話だったから、俺達はこの前の応接室で待っていて欲しいってことだ」
「あら、そう? この時間だし、ダスカーもそろそろ今日の分の仕事は終わりそうなのかもしれないわね」
これがギルムの増築工事を行っている春から秋に掛けてであれば、この時間はまだ仕事で忙しいだろう。
だが、今は冬で増築工事も止まっている。
……もっとも、それでも領主としての仕事はあるので、暇な訳ではないのだが。
「ポーションの類を用意した方がいいのかもしれないな」
「あら、ダスカーならそのくらいは自分で用意してると思うわよ? ……それより、中に入りましょうか。ダスカーを待たせる訳にもいかないし。ヴィヘラ、それでいいわよね?」
「え?」
レイとマリーナが話している間、ヴィヘラは雪が積もった庭を走り回っているセトを見ていた。
特に何か理由があって見ていた訳ではなく、何となく見ていたのだが、そんなヴィヘラはマリーナの言葉に振り向き、頷く。
「ええ、私はそれでいいわよ。ただ、そっちの五人はそれでいいのかしら?」
五人……正確には、自信をなくしている一人の男以外の四人は興味深そうに周囲の様子を眺めている。
五人のダークエルフ達は、里の外の世界を見てみたいと常々思っていた。
それだけに、領主の館の庭であっても非常に珍しく感じるのだろう。
ダークエルフの里にあるのは、自然を活かした作りの建物が大半だ。
中には趣味的に石造りの建物を作ったりしている者もいるが、当然ながら領主の館のような立派な建物ではない。
それだけに、この庭から見える景色だけでも若手のダークエルフ達にとっては珍しいのだろう。
(精霊魔法か。……いっそ、妖精郷に連れて行ったりしてみても面白いかもしれないな。今日は無理でも明日には妖精郷に顔を出した方がいいだろうし)
ダスカーの布告のお陰で、レイもギルムで普通に暮らせるようになった。
だがそれでも、今まで世話になった妖精郷に何も言わずに行かなくなるというのは、不義理でしかないだろう。
だからこそ、レイは今までより頻度は落ちるが、これからもそれなりに妖精郷に行こうとは思っていた。
「ほら、いつまでも周囲を見てないで、そろそろ行くわよ。これからこのギルムの領主に会うことになるから、失礼にならないようにね」
そう言うマリーナだったが、もしその言葉をダスカーが聞いていれば、『お前が言うな!』と思い切り突っ込んでいただろう。
ダスカーにとって、マリーナは自分の黒歴史を知られており、それによって色々と言ってくる相手なのだから。
とはいえ、五人のダークエルフ達はその辺の事情を知らないのか、マリーナの言葉に緊張した表情を浮かべる。
セト籠の中で昨日と今日一緒だったにも関わらず、どうやらその辺の話はしなかったらしい。
(一体何を話していたのやら)
レイはそんな風に思いつつ、セト籠をミスティリングに収納してからマリーナやヴィヘラ、ダークエルフ達と共に領主の館に入っていく。
本来ならメイドか執事が来るのを待つべきなのかもしれないが、レイ達にとっては既に勝手知ったるといった感じで、目的の応接室に到着する。
「わぁ……」
応接室の中に入ったダークエルフの一人が、感嘆の声を上げる。
応接室という名前の通り、この部屋は貴族達が使う為に用意された部屋だ。
ましてや、ここは領主の館に複数ある応接室の中でも、上位に位置する応接室。
そんな場所だけに、ダークエルフ達が見て驚くのはおかしな話ではない。
ヴィヘラと模擬戦をしてプライドを折られたダークエルフの男も、応接室を見て驚きの表情を浮かべていた。
レイにしてみれば既に使い慣れた部屋ではあるが、ダークエルフ達にしてみれば、まさに別世界と呼んでもおかしくない場所だったらしい。
「ほら、取りあえずソファは……ちょっと数が足りないかしら。メイドに椅子を持ってくるように言った方がいいわね」
無理をすれば全員座れるだろうが、わざわざそうしなくても椅子を別に用意した方がいい。
そう判断したマリーナは、いつの間にか部屋の外にいたメイドに椅子を幾つか持ってくるように頼む。
ついでに、軽く食べられる料理も。
一応昼食の時は途中で降りて、それなりに美味い料理――当然レイのミスティリングから出した――を食べてはいるのだが、それでも既に夕方ということもあり、それなりに空腹の者が多い。
「さて、後はダスカーが来るまで少しゆっくりしてましょう。もっとも、ずっとセト籠に入っていたから、特に疲れてはいないでしょうけど」
「寧ろずっとセト籠でしたか? あの中にいたから、微妙に疲れたんですけど」
ダークエルフの一人がそう言うと、他の面々もその言葉に同意するように頷く。
セト籠の中はそれなりの広さがあるが、それでも自由に身体を動かせるといったような広さはない。
そういう意味でも、ずっとセト籠に乗っていて疲れるというのはレイにも理解出来た。
(多分、車とかに乗って遠くに出掛けたりする時とかと同じ感じなんだろうな)
勿論、レイが日本にいた時は車の免許を持っていなかったので、自分で車を運転することはなかった。
だが、両親の運転する車にのって遠出をするということはそれなりにあった。
特に春になると、夜中に家を出発して十和田湖に向かい、タケノコ採りをするということがあった。
もっとも、この場合のタケノコは一般的なタケノコではなく、いわゆるネマガリダケや姫竹と呼ばれる種類のタケノコなのだが。
そしてタケノコを採って数時間掛けて家に戻ってきてからも、採った大量のタケノコの皮を剥き、それを茹でて缶詰にする必要がある。
タケノコは採ってから時間が経てば経つ程、急速に鮮度が落ちていく。
その為、タケノコを採った後で家に帰り、皮剥きは翌日……といったことは出来ない。
いや、やろうと思えば出来るのだろうが、そうなるとどうしてもタケノコの味が落ちてしまう。
「タケノコ食べたいな」
「レイ?」
日本にいた時の事……タケノコの入った豚汁や、タケノコのフライ、茹でたタケノコにマヨネーズをつけて、醤油漬け……色々な料理について思い浮かべたレイの口から出た一言に、マリーナが反応する。
「ん? あ、いや。何でもない」
「そう? でも、随分と何かを考えていたわよ?」
「そうだな。いずれ言える時が来たら言うよ」
タケノコがこの世界に存在するのかは、レイにも分からない。
ただ、これまで数年この世界で活動してきたがタケノコを見たことがないのも事実。
あるいは特定の地域でしか食べられていない食材なのかもしれないとは思う。
レイの地元では『ジュンサイ』という食材があったが、これは沼等に生えている水草の若芽なのだが、レイが日本にいた時にTVで見た内容にはジュンサイを食べるのは世界でも中国と日本だけというのがあった。
それも中国がどうかは分からなかったが、日本でも基本的にはレイの住んでいる辺りでしか食べられていないとか何とか。
実際にそれが正しいのかどうかはレイにも分からなかったが、その食材は限られた地域でしか食べられていないというのはジュンサイの例から見ても珍しくはない。
レイが知らないだけで、日本でもそのような食材はまだあるだろう。
それが世界ともなれば、それこそ一体どれだけその地域でしか食べられていない食材があるか。
その辺の状況から考えると、やはりタケノコがこのエルジィンにおいても特定の場所でしか食べられていなくてもおかしくはない。
「特定の地域でしか食べられていない食材とかを集めることが出来たら、面白そうだな」
「いきなり何を言うかと思えば……でも、そうね。それは面白そうだと思うわ」
マリーナも料理を趣味とするだけあって、レイの言葉に興味を抱いたのだろう。
実際にマリーナはギルドマスターとして活動する前、冒険者の時は色々な場所に行っている。
その時、その地方でしか食べられていない食材というのをそれなりに見た事があった。
「だろう? ギルムは増築工事が終われば今よりもっと大きくなる。そう考えれば、そういう食材とかを集めて料理するような店が出来たら面白いとは思わないか? ギルムには色々な場所から人が集まっているから、自分の故郷の食材があれば買うだろうし、何も知らなかった者がそれを食べたら美味くて気に入ったとか、そんな風になってもおかしくはないし」
「そうなったらいいけど、実現するのはかなり難しいでしょうね。……とはいえ、興味があるのも事実。料理の種類も増えるでしょうし」
そうして、レイとマリーナは何故か未知の食材についての話で盛り上がり……それを見たダークエルフの五人は、世界樹の巫女の予想外の姿に驚くのだった。