3530話
レイ達のスラム街の探索は、結局グルトスがトラペラを一匹倒したのを最後に、それ以後はトラペラを見つけることが出来ずに終わった。
これが、本当にもうスラム街にトラペラがいないのか、それとも仲間が殺されたことで危険を察し、スラム街から離れたのか。
レイにはその辺は分からなかったが、とにかくマリーナの風の精霊を使った探索によってもトラペラを見つけることが出来なかったのは事実。
「成果がなかったわけじゃないんだし、取りあえず今はギルドに向かいましょう。他でトラペラと遭遇したという情報が入ってるかもしれないし」
「そうだな。まずは俺達がスラム街にいた間、こっちで何か問題が起きていなかったか確認するか。多分大丈夫だとは思うけど」
レイ達がスラム街にいた時間は、数時間程。
冬だけに日が暮れるのも早く、既に太陽は夕日となっていた。
せめてもの救いは、雪が降っていなかったことだろう。
……その代わり、人通りの多い場所は積もっていた雪が太陽の光と人が踏んだことによってシャーベット状になっていたが。
レイ達は歩きにくさに不満を覚えながらスラム街を後にしたのだが、そのスラム街ではレイ達がいなくなった後でそれなりに騒動となっていた。
何しろレイは今までにも何度かスラム街で暴れたことがある。
それが単純にその辺のスラム街の住人と暴れたというだけであれば、特に問題はない。
だがレイが戦ったのはスラム街に拠点のある裏の組織だ。
普通なら組織を……それもスラム街の中でも大きな力や影響力を持つ組織と一人で戦うといったことは出来ない。
ただし、この世界には文字通りの意味で一騎当千、万夫不当といった一人で戦争の劣勢すら引っ繰り返す者がいる。
その一人がレイだった。
そんなレイがスラム街に来て、その上でレイと一緒に来ているのは元ギルドマスターのマリーナ。
……正確には護衛のグルトスもいたのだが、レイとマリーナの二人と比べると、その存在感はどうしても劣る。
長年ギルドマスターをしてきたマリーナについては、当然だが裏の組織でも知ってる者が多い。
それだけに、一体何をしに来たのかと疑問に思い、調べさせ……それによって騒動になるのはおかしな話ではない。
それでもレイとマリーナの存在を懸念していた者達にとっては幸運なことに、レイ達は特に何か大きな問題を起こすでも――スラム街の住人との乱闘は多数あったが、それはスラム街なら日常茶飯事だ――なく、透明のモンスターを倒すと、スラム街を出ていった。
……スラム街でモンスターと戦ったということそのものが、本来なら大きな騒動になってもおかしくはないのだが、レイ達が来たという衝撃に比べればどうしても弱くなってしまう。
また、レイ達がやって来たのがそのモンスターを倒すのが目的なのも、レイ達の行動から明らかだったというのが大きい。
そんなレイ達がスラム街を出て行った以上、モンスターももう残っていないと考えるのが妥当だった。
そんな訳で、スラム街の裏の組織……特に上層部は、レイ達のことで色々と忙しく動くことになる。
それこそ、自分の組織の者がレイと敵対していないかを調べるといったように。
何しろ、下手にレイと敵対した場合、最悪組織の存亡に関わる事態になるかもしれないのだから。
最終的には、そうして調べたところ、レイと揉めた者達はそのような大きな組織の構成員ではなかったので、多くの組織の上層部は安堵したのだが。
そうして、自分の存在だけでスラム街を半ば混乱に陥れたレイ達は、ギルドの前までやって来る。
「あー……そりゃそうだよな」
何人もの冒険者がギルドに入って行くのを見たレイの口から、そんな声が出る。
既に夕方近いということは、依頼を終えた冒険者達が戻ってきてもおかしくはない時間帯なのだ。
……それでもレイにとって幸運だったのは、ギガントタートルの解体についてはその場で依頼料を支払っているから、そのような者達がギルドに来ることはないということだろう。
「あの様子だと、俺は中に入らない方がいいだろ。幸い、ギルドを通した依頼じゃなかったしな」
そう言ったのは、護衛として雇われたグルトス。
時間がなかったので、ギルドを通さずに直接依頼をするという……元とはいえ、ギルドマスターがやるのはどうかと思われる方法で雇った相手だ。
グルトスの言うように、ギルドを通さない依頼であった以上、グルトスがギルドに行く必要はない。
依頼もスラム街から出た時点で既に達成されている。
「そうだな。じゃあ、グルトスはこの辺で。……いいよな?」
「ええ。私は構わないけど……一応聞いておくけど、本当にその斧だけが報酬でいいの?」
レイの言葉に、マリーナはグルトスが背負っている斧……正確には巨漢のグルトスなので、その背から微かに見える斧の柄を見て、尋ねる。
スラム街では斧を手にしていたグルトスだったが、さすがに街中で斧を手にしたままでは不味い。
特にグルトスは強面なので、そんな人物が斧を持った状態で街中を歩いていれば、警備兵がやって来てもおかしくはなかった。
だからこそ、レイがミスティリングから取り出した紐を使い、斧を背負っているのだ。
「問題ない。この斧は俺にとっても重要な武器だし」
「そう。グルトスが納得しているのなら、それでいいわ。……じゃあ、お疲れ様」
「助かった」
マリーナとレイにそれぞれ声を掛けられると、グルトスはその強面の顔に笑みを浮かべ、軽く手を振ってから去っていく。
「さて、じゃあ俺達はギルドに行くか。出来れば混雑している時は避けたかったんだけどな」
「それは仕方がないわ。スラム街の広さを考えれば、このくらいの時間になるのは当然でしょうし。……それに、時間的にはまだ一番人が集まる時間じゃないわよ。それに冬なんだから、依頼を受けている冒険者は増築工事をしてる時と比べると大分少ないでしょう?」
「それを比べる方が無理ってものだと思うけどな」
レイはマリーナの言葉に呆れて返す。
増築工事に参加している者達は、その多くが今回のギガントタートルの解体のようにギルドまで来なくても現場で報酬を貰えるようになっている。
だが、それでもギルドに来る必要のある者は多いし、そのような者達が集まれば寿司詰め状態という表現が正しい状況になる。
「それもそうね」
マリーナもレイの言葉に素直にそう返す。
それだけ、増築工事が行われている時のギルドのピーク時というのは人が多いのだ。
「ともあれ、いつまでもこうしている訳にもいかないし、とっとと中に入ろう。冒険者がそこまで多くないのなら、素早く情報を聞いて出ればいい。……完全に夕方になれば、今よりもっと人は多くなるだろうし」
マリーナはその言葉に素直に頷き、二人はギルドの中に入る。
ギルドの中は予想通り冒険者の数はそこまで多くはない。
このことはレイ達にとって幸運だった。
……ただし、ギルドに入ってきたマリーナは多くの者達の注目を集める。
ギルドにいる者である以上、マリーナの美貌もそうだが、元ギルドマスターという意味の方が大きい。
レイはそんなマリーナの側でドラゴンローブのフードを被っているので、その顔を確認出来ないが……マリーナと一緒にいるということで、あるいはレイの僅かな身体の動きを見て、それがレイだと認識する者も多い。
もっともレイもマリーナもそのような視線を気にした様子もなく、カウンターに向かったが。
「マリーナさ……ん、レイさん、どうしましたか? ギガントタートルの解体の件でしょうか?」
マリーナ様と言い掛けそうになったレノラだったが、何とかさん付けに直し、そう尋ねる。
「ちょっと待ってちょうだい」
マリーナがそう言うと、素早く精霊魔法を使う。
何人かの冒険者はそれが分かったのか、動じた様子を見せるが、それでも特に攻撃魔法の類ではないと知り、そのままスルーする。
「えっと?」
急に周囲の音が聞こえなくなったレノラが、戸惑った声を出す。
そんなレノラの隣にはケニーもいる。
レイの担当のレノラはともかく、ケニーも一緒に音が周囲に漏れないようにした空間の中にいるのはどうかと思ったが、幸いなことにギルドの中にいる冒険者の数はそこまで多くはない、残っている受付嬢で対応出来るだろう。
……レノラやケニーと個人的に話したいと思っている者は残念そうな様子を見せていたが、それを行ったのが元ギルドマスターのマリーナである以上、不満を口に出すようなことは出来ない。
「仕事の邪魔をするつもりじゃないから、安心してちょうだい。私達が来たのは、ちょっと聞きたいことがあったからなの。実は、今日ギルムの中で何者か……いえ、モンスターに襲撃されたという報告は来ていない?」
「モンスターですか? いえ、そんなことは。……その、もしかしてセトちゃんが何か……?」
マリーナの問いに、レノラの視線がレイに向けられる。
マリーナと一緒に来て、そのような質問をしているのでセトが今の件に何か関わっているのかもしれないと思ったのだろう。
そんなレノラに対し、レイが何かを言おうとしたのだが、それを遮るようにケニーが口を開く。
「ちょっと待って、レノラ。何人か高ランク冒険者の人がギルムの中でモンスターと戦ったという報告が来てるわ」
「え? 私はその辺については何も聞いてないんだけど?」
「報告があったのが、レノラが昼休憩の時だったから。その報告を受けたのは私だし、それを上に報告したら、混乱しないように秘密にしておけと言われたもの。……他の受付嬢も、多分何人か同じような報告を受けているかもしれないわね」
「……そう。けどそうなると、レイさんやマリーナさんが言ってることは……」
「正しいんでしょうね。恐らくギルムにそれなりの数、モンスターが侵入してるわ」
「けど、それならもっと大きな騒動になってもいいんじゃない?」
「それについては私から説明するわ。そのモンスターは武人的な性質とでも言えばいいのか、一般人に攻撃するようなことはなく、基本的に強者にしか攻撃しないのよ」
「それはまた……」
その説明を始めに、現在トラペラについて分かっていることをマリーナはレノラに、そしてトラペラの詳細についてはしらないケニーにも説明する。
もしこれがマリーナの口から出た言葉でなければ、レノラもケニーもマリーナの説明をすぐに信じることは出来なかっただろう。
レノラもケニーも受付嬢としてそれなりに長いし、何より辺境にあるギルムのギルドの受付嬢だ。
普通に暮らしているだけではとてもではないが聞いたことがないモンスターについての話を聞くことも多い。
そんな二人にとっても、今の説明はすぐに受け入れられるようなものではなかった。
「その……そこまで徹底的に透明なモンスターって、厄介じゃないですか?」
「とてつもなくね。実際、今のところトラペラの存在をある程度離れていても確認し、捕らえることが出来る、あるいは倒すことが出来るのは私の精霊魔法くらいしかないし」
そのマリーナの言葉には本気で言ってる者のみが持つ一種の迫力……そして強い説得力があった。
レノラとケニーは、だからこそマリーナの言葉を素直にそうなのだろうと受け入れる。
「そういうモンスターもいるんですね。新種ですか?」
「というか、多分だけど冬に特有のモンスターの一種だと思う」
レノラの問いに答えたのはマリーナではなくレイ。
そんなレイの言葉が意外だったのか、レノラとケニー……そしてマリーナまでもが驚きの表情を浮かべる。
「え? その……レイ、何でそう思ったの?」
三人を代表して聞いたのは、当然ながらマリーナ。
そんなマリーナの問いに、レイは少し考えてから口を開く。
「今の季節は冬で、これまでああいうモンスターはいなかっただろう? なら、冬のモンスターだと思っただけだけど」
「……それ以外に理由は?」
「特にない。とはいえ、敢えて他に理由を挙げるとすれば、俺の勘か」
「勘……」
レイの口にした勘という言葉に、マリーナは呆れ……はしていない。
それどころか、真剣な表情で考え始めていた。
レイのような強者の勘というのは、決して馬鹿に出来るものではないとマリーナも理解しているからだ。
勘というのは、何の根拠もある訳ではない。
今まで自分が経験してきた中から、本人も気が付かないうちに拾い上げた何らかの情報によって、自分でも知らないうちに正解を引き当てたものだ。
勿論、それは勘の一例にすぎず、他にも勘の根拠となるものは色々とあるし、中には本当に適当にそう言ってるだけの者もいるのだが。
そんな風に思いつつ、レイ達は話を続けるのだった。