3527話
「駄目ね。これ以上は待ってもトラペラが来るような気がしないわ」
マリーナがそう言ったのは、レイがこの辺りで強い影響力を持っているという組織の男と話し始めてから、二十分程が経過したころだった。
マリーナのその言葉にグルトスは残念なような、助かったというような、微妙な表情を浮かべる。
グルトスも自分の強さにはそれなり以上に自信はある。
だが、それでも自分がトラペラと戦って勝てるかと言われれば……目の前でレイがトラペラと戦った光景を見る限り、難しいだろう。
もっとも、レイが倒した時のようにマリーナの精霊魔法でトラペラが拘束され、動けないようになっていれば、もしかしたら勝てるかもしれなかったが。
「そうか。マリーナがそう言う以上、いつまでもここにいても意味はないな。なら、他の場所に向かうか」
レイの言葉に、マリーナは頷く。
そんなやり取りを見ていた三人組……特にレイと話していた男は、不安そうな様子でレイに尋ねる。
「その、レイ殿。本当にこのまま行ってしまうのですか? もう少しここで待っていれば、トラペラも現れるのでは? 最初にスラム街でトラペラと戦った時はそうだったと聞いていますが」
レイから事情を聞いた為、男はレイ達がいなくなってからトラペラが襲撃してきたら対処するのに苦労すると判断したのだろう。
実際、男が信頼する護衛二人であっても、レイから聞いた情報が事実なら対処するのは難しいかもしれない。
そう思っての言葉だったが、レイはそんな男に向かって首を横に振る。
「いや、他の場所に行く。トラペラが強者を狙う性質を持ってるのは理解出来るが、それ以外はまだ殆ど把握されていない。だから、まずは他の場所に移動してみて色々と試そうと思う」
「……そうですか。残念ですが、レイ殿がそう言うのであれば仕方がありませんね」
おや、と。
レイは男の言葉に少しだけ意外に思う。
もしかしたら……本当にもしかしたらの話だが、自分達の言うことを聞かないのなら許せないと、力ずくでどうにかしようといった行動をするかもしれないと思っていたのだ。
レイと話している時の男は人当たりが良かったが、それでも男もスラム街の住人……それもこの辺りで大きな影響力を持つ人物だ。
だからこそ、これまで友好的に話してきたレイを相手にしても、もしかしたら……と、そのように思ってもおかしくはなかった。
もっともレイのことを知っていれば、それは自殺行為でしかないと判断した可能性もあったが。
実際に男がレイに襲い掛かってこなかったことを考えると、後者の理由が大きいのだろう。
「じゃあ、そういう訳で……マリーナ、グルトス、次に行くぞ」
レイの言葉に二人は頷き、その場を後にする。
「いいんですか、このまま行かせて」
レイ達の後ろ姿が見えなくなったところで、護衛のうちの片方……男の護衛が、そう男に声を掛ける。
その質問に男はあっさりと頷く。
「当然だ。相手はレイだぞ? もし妙なことを考えて行動をおこしたら、俺達が致命的な被害を受けるだろうよ」
そう答える男だったが、その言葉遣いはレイと話していた時とは全く違う。
また、表情もレイと話している時は柔和な笑みを浮かべていたものの、今はスラム街の中で多少は名の知れた組織を率いる冷徹な表情となっている。
「それにしても、ガズウットさんがあんな風に丁寧に話しているのは、何と言うかこう……背中が痒くなるようだったよ」
女の護衛の言葉に、ガズウットと呼ばれた男は鼻を鳴らす。
「ふんっ、あのレイを相手にしていたんだぞ? もし言葉遣いが気にくわないとこっちを敵視される……なんてことは絶対に避けたかったからな」
ガズウットの言葉に、護衛の二人は同意するように揃って頷く。
何しろレイはたった一人で軍隊と……それも二大大国の一つであるベスティア帝国の軍隊を相手に出来るという、とんでもない相手だ。
ましてや、一度敵と判断すれば、その力を振るうことに一切の躊躇がない。
敵にする相手としては、まさに最悪の相手だろう。
だからこそ、ガズウットは少しでもレイの機嫌を損ねないようにしていたのだ。
その上でレイと世間話をし、ある程度の情報も入手したのだから、組織を率いる者として相応の技量を持っているのは間違いない。
「トラペラですか。……どうします? もしさっきの話が本当だったら、俺達では太刀打ち出来ないと思いますけど」
「レイが言っていた、腕利きってのにお前達が入っていないのを祈るだけだな。……とにかく、情報を集めろ。トラペラが関係しているとはっきりしなくても、その疑いのある情報だけで構わない」
ガズウットの指示に従い、護衛の二人はすぐに行動に移るのだった。
「さっきの連中に一緒に来て貰えばよかったな」
レイは視線の先の光景……グルトスによって倒され、地面に寝転がっている者達を見ながらそう呟く。
スラム街を進んでいたところ、マリーナの美貌に目を奪われた者達が襲ってきたのだ。
今のレイはベルリッヒとの話から、自分を知る者がいればちょっかいを出してこないだろうと思ってフードを脱ぎ、顔を露わにしている。
だというのに、地面に倒れている者達はレイを見ても小柄だから弱そうだとしか判断しなかったらしい。
その結果が、現在の状況だった。
「ベルリッヒもそうだったし、自分の組織の縄張り以外だとあまり役に立たないんじゃない?」
マリーナの言葉に、そうかもしれないなとは思う。
ただ、今の状況を思えばやはり面倒は避けたいというのが正直なところだ。
こうして欲望に正直な有象無象が出てくる度に、足を止めないといけない。
そうなると、それだけスラム街で移動するのに時間が掛かることになり、場合によってはトラペラがマリーナの精霊魔法の探知範囲から出る可能性は十分にあった。
(この連中にしても、俺達が行動することによって助かるんだが……いやまぁ、そう言われてもこの連中だとあまり納得出来なかったりするのか?)
最後の一人がグルトスの拳によって吹き飛び、建物――の廃墟――にぶつかり、地面に倒れ込んだのを見ながら、レイは改めて周囲の様子を確認する。
今のグルトスの暴れ具合を見て、それでもレイ達を襲撃してくるような者達がいるかどうか。
……普通に考えれば、十人以上がグルトス一人に全員倒されたのだから、そんな強者が護衛をしてる相手に襲い掛かるのは自殺行為でしかない。
普通に考えれば、そのようなことはしないだろう。
だが、レイの側にいるマリーナの美貌は、普通では考えられないようなことを容易にしでかす原動力となる。
レイも今までの経験からそれが分かっていたので、もしかしたら……万が一にも、他には狙っている者はいないかと、そう思って周囲の様子を確認したのだが、今のところ無謀な者はいないらしい。
何人かの気配は感じているものの、その気配は襲ってくる様子がない。
グルトスの力を見て襲うのを諦めたのか、レイの顔を知っている者がいたのか……あるいは元ギルドマスターであるマリーナについて知っていたのか。
(一応、俺はスラム街の住人には感謝されてもいいと思うんだけどな。現に、今もスラム街の住人がギガントタートルの解体をやっているんだし)
ギガントタートルの解体によって、スラム街を抜け出せる者は多い。
そうである以上、レイは感謝されてもそこまで恨まれるとは思っていなかった。
……もっとも、そもそも襲ってきているのはレイをレイだと認識していない者が多い以上、場合によっては知り合いがギガントタートルの解体に行っているが、今こうしてレイを襲撃したという可能性はある。
「レイ、この連中はこのままでいいのか?」
「ああ、そのままでいい。放っておけば、俺達がいなくなったら他の連中が何とかするだろうし」
この場合の何とかするというのは、倒れている者達を助けるといった意味ではない。
倒れている者達から金を、武器を、道具を……場合によっては身体の一部を奪ったりするという意味での何とかだ。
それによって命を失う者もいるかもしれないが、レイにしてみればそうなったらそうなったで仕方がないという認識しかそこにはない。
別に博愛主義といったものでもない以上、自分達を襲ってきた者達が死んだのなら、それはそれで構わないというのがレイのスタンスだった。
「そうか。じゃあ、先に進むか」
グルトスもまたレイと全く同じではないにしろ、似たようなスタンスなのだろう。
地面に倒れている者達を助けようとはしていない。
マリーナもレイやグルトスと同じで、レイの言葉を咎める様子はない。
襲ってきた相手が自分を見る視線がどのような意味を持つのか、容易に察することが出来る。
そのような不愉快な視線を向けてきた相手を親切に介抱するなどといったことをする必要はない。
そうしてレイ達がいなくなると、周囲で様子を窺っていた者達が気絶した者達に群がる。
そのような音を聞きつつも、レイは特に気にした様子もなくマリーナに尋ねる。
「それで、今度精霊魔法を使う場所はどの辺だ?」
「もう暫く歩き続ける必要があるわね」
「……セトに乗ってくればよかったな」
「今更でしょ、それ」
セトがレイと一緒に行動していれば、それはどうしても目立つ。
目立たないようにするには、例えばセトに光学迷彩のスキルを使って貰うといった方法もあるが、光学迷彩のスキルもずっと使い続けられる訳でない。
また、光学迷彩を使ってもそこにセトがいるのは間違いない以上、場合によっては透明になったセトとぶつかる者も出てきかねなかった。
その辺の事情を考えれば、セトを連れて街中を歩き回り、更にはスラム街に来るというのは非常に厳しい。
もっとも、面倒なことが多いのは間違いないが、メリットがない訳でもなかった。
「セトは何らかの手段でトラペラを把握出来るんだよな」
レイが最初にトラペラと遭遇した時、その存在を把握するのに苦労したが、セトはそんなトラペラを容易に察知し、自分だけで一匹倒してレイのいる場所までその死体を持ってきたりもしている。
一体どのような方法でトラペラを把握してるのか、レイには分からない。
だが、把握出来るというのは間違いのない事実だった。
(あるいは、魔力を察知出来れば……?)
セトがどういう方法でトラペラを察知しているのかは、生憎とレイにも分からない。
だが、魔力を察知出来る以上、それでトラペラの存在を察知している可能性は十分にあった。
トラペラは透明で気配を殺すのも非常に上手い。
だが……だからといって、本当の意味で完全に全てを隠している訳ではない。
それを示すように、レイではなかなかトラペラを察知することは出来ないが、こうしてマリーナが精霊魔法を使えばトラペラの存在を察知し、それどころか拘束することすら可能なのだから。
であれば、トラペラの魔力を察知することが出来るという可能性は十分にある。
「マリーナ、魔力を察知出来る能力を使えばトラペラを察知出来たりしないか?」
「え? うーん、それはどうかしら。私にはその手の能力がないから、ちょっと分からないわね。けど、なんでそう思ったの?」
「セトは魔力を感じる能力を持つ。そしてセトはトラペラを察知出来る。……勿論、それ以外の能力や感覚で察知している可能性もあるけど」
その説明に、マリーナは納得の表情を浮かべる。
今のこの状況を思えば、そのようなことになってもおかしくはないだろうと。
「その可能性はあるわね。……とはいえ、魔力を感じる能力を持つ者というのは、そう多くないわよ?」
「だろうな。それは俺にも分かっている」
レイはそう言いながら、自分の指に嵌まっている指輪に触れる。
新月の指輪と呼ばれるこの指輪は、ベスティア帝国の内乱で入手したマジックアイテムだ。
魔力を隠蔽し、通常の魔法使い程度に魔力に見せ掛けられるという効果を持つ。
この指輪を入手するまでは、何らかの方法で魔力を察知出来る相手がいた場合、レイの魔力を察知して腰を抜かす、気絶する、漏らす……そのような状況になることが多かった。
だからこそ、レイは魔力を完全ではないにしろ隠蔽をしようとし、紆余曲折の末にこの新月の指輪を入手したのだ。
その時の経験から考えると、魔力を感知出来る者というのはかなり少ないという印象だった。
せめてもの救いは、ここはギルムでそのような人材が何人かいるということだろう。
冬ということで、宴会を続けていればトラペラを捕らえるのに使うのは少し……いや、かなり難しいのは間違いなかったが。