3526話
結局十分程が経過したものの、新しいトラペラが姿を現すことはなかった。
なので、レイ達は当初の予定通り他の場所に移動することにする。
「じゃあ、俺はこの辺で。トラペラとかいうモンスターの相手、頑張ってくれ」
ベルリッヒはそう言うと、足早にその場を走り去った。
当初、レイはベルリッヒをスラム街の案内役として使うつもりだった。
それはマリーナやグルトスも特に異論はなかったのだが、ベルリッヒにしてみればとてもではないが受け入れられることではない。
ベルリッヒは何とかレイを説得し、スラム街の常識……あるいは暗黙の了解といったものを教え、それによって何とかレイを説得することに成功し、今のように去っていったのだ。
「ベルリッヒがいなくなったとなると、頼りはグルトスだけだな」
「……実力だけで頼られるのなら、嬉しいんだけどな」
グルトスは複雑な表情を浮かべる。
熊の獣人で、筋骨隆々のグルトスだったが、その複雑な表情が本来の強面とミスマッチな印象を与え、思わず笑みを浮かべてしまう。
グルトスはそんなレイとマリーナの様子に、更に微妙な表情を浮かべる。
「何だよ」
「いや、外見ってのも相手の実力を見抜く上で大きな意味を持つのは間違いないしな。そういう意味では、グルトスは間違いなく俺よりも上だと思っただけだ」
「……ふん」
レイの言葉に鼻を鳴らすグルトスだったが、若干……本当に若干だったが、その表情には嬉しさもある。
本来の実力はともかく、外見で褒められたことが嬉しかったのだろう。
グルトスはギルムでもそれなりの実力を持つ冒険者だ。
だがそれは、あくまでもそれなり……その他大勢と一緒といった程度でしかない。
そんなグルトスにしてみれば、ギルムでも最高峰の実力を持つレイに褒められたのが嬉しかったのだろう。
そうして一行はスラム街を進む。
時折レイ達に敵意を向ける相手、あるいは襲撃しようかと考える相手もいたが、レイの顔を知ってる者であったり、グルトスを見てとてもではないが勝てないと思ったりで、結局襲撃されるようなことはなかった。
(そう考えると、最初に襲ってきた連中は運が悪かったんだろうな)
レイの顔を知らず、グルトスを見ても実力を見抜けず、何とかなると思っての襲撃。
あるいはマリーナの持つ女の艶に理性的な判断が出来なかったのか。
その辺りはレイにも分からなかったが、最初に襲ってきた者達の運が悪かったのは間違いない。
「さて、予想以上に騒動も何もなかったけど、最初の場所から大分歩いたし、この辺りでどうだ?」
「うーん……最大効率を求めるのならもう少し先に進んだ方がいいんだけど。それでも、やってやれないこともないと思うわ。ここでやる?」
「そうしてくれ。またスラム街の連中に絡まれたりするよりは、何もない今のうちにやっておいた方がいい」
「じゃあ、そうしましょうか。……この状況なら多分大丈夫だとは思うけど、何かあったら守ってちょうだい。頼りにしてるから」
「任せろ」
レイの短い言葉に安心したのか、マリーナはすぐに精霊魔法を使う為に集中する。
そうして数分が経過し……
「駄目ね」
マリーナがそう言う。
とはいえ、そこに悔しさの類は殆どない。
先程も最初はトラペラを発見出来なかったのだが、少し経ってからトラペラが風の精霊の警戒範囲に入ってきたのだから。
今回も同じように一匹くらいは見つけられるかもしれないと、そのように思っていたのだろう。
「なら、もう暫くこの状況で待つか」
「そうね。……グルトス、周囲の警戒をお願いね」
マリーナの言葉に、グルトスは真剣な表情で頷く。
グルトスにしてみれば、スラム街の住人というのはそう強敵ではない。
勿論、中には相応の強さを持つ者がいるのも理解はしているが、それでも大半はそのような強敵という訳ではないのだ。
そうして少し時間が経ち……不意にレイがとある方向に顔を向ける。
突然のレイの行動に、グルトスも釣られるようにそちらに視線を向けた。
すると、やがて一分もしないうちに数人が近付いてくる音が周囲に響く。
ジャリ、ジャリ、という地面を踏む音。
その音と共に姿を現したのは、三十代程の男と、その護衛と思しき二人の男女。
新たに現れた者達に対し、グルトスが特に反応しなかったのは、敵意や殺意といったものを感じなかったからだろう。
もっとも、世の中には殺気を出すことなく攻撃してくる者もいるし、グルトスもそれは十分に理解している。
その為、もし何かあったら即座に動こうという決意がグルタスにはあったが。
「誰だ?」
グルトスの問いに、三人の中ではリーダーだろう男が口を開く。
「この辺りを治めている者です。……まさか、深紅のレイ殿に元ギルドマスターのマリーナ様がこのような場所においでになるとは思わず。挨拶が遅れて申し訳ありません」
男の言葉に、グルトスはレイを見る。
本来ならマリーナに視線を向けるべきなのかもしれないが、レイとマリーナ……それにヴィヘラやビューネはパーティを組んでおり、そのパーティを率いるのはレイだ。
グルトスもそれを理解していたので、レイに視線を向けたのだろう。
……レイとマリーナの名前しか出なかった為に、ここは自分が前に出るべきではないと判断したというのもあるのだろうが。
「別に挨拶とかは気にしなくてもいい。俺達が勝手にここに来たんだしな」
レイの言葉に、護衛の二人が安堵した様子を見せる。
レイについて噂しか知らなければ、挨拶に来るのが遅いと怒るかもしれないと思っていたのだろう。
二人の護衛はレイと話している男に強い忠誠心を抱いている。
……ベルリッヒとは違い、強さという点ではそこまでではない。
だが、それでも男達の組織はそれなりに大きくなっていた。
その手腕は率いられる者達に忠誠心を抱かせるのに十分だった。
それだけに、もしここでレイが攻撃してくるようなことがあったら、何としても守ろうと思っていたのだ。
だが、その心配がいらなくなったというだけで、護衛の二人を安堵させるには十分だった。
「それで、レイ殿は一体何をしにこのような場所に? 言うまでもありませんが、ここはスラム街です。レイ殿が好んでくるような場所ではないと思いますが」
「少しやるべきことがあってな。実は、ギルムに何匹かモンスターが侵入している」
そう言い、レイは今回の一件について大雑把にだが説明する。
その説明は、話を聞いていた男の眉を顰めるには十分だった。
「その……強者を襲うということですが、具体的にどのくらいの強さを持つ者が強者と認識されるのでしょうか?」
「分からない。それでも一般人を攻撃するようなことはないから、その辺は安心してくれ」
強者と一口に言っても、それが具体的にどのくらいの強者なのかは、レイにも分からない。
そもそもの話、トラペラ個々によって強者と判断する可能性は十分にあった。
一律して強者と認識するのかどうかは、分からない。
「そう、ですか。……ですが、そのような相手がいるというのを教えてくれたのはありがたく思います」
「一応言っておくが、この情報についてはあまり広げないでくれると助かる。騒動になるのはそっちも好ましくはないだろう?」
「そうですね。幸い……本当に幸いにも、強者以外は襲わないということですし」
それは、もし一般人を相手にしても攻撃するようなモンスターであれば、多くの者に情報を広げていたのだろう。
「そうだろうな。それに……もう少し時間が経過したら、ここにトラペラがいないと判断して、他の場所に移動する予定だ。悪いが、それまでここを使わせてくれ」
「分かりました。もっとも、別に許可を取る必要はないのですけどね。……とにかく、ここを使うのは問題ありません。ただ、ここで少し見ていても構わないでしょうか?」
「それは別に構わないけど、この様子だと恐らくトラペラは出て来ないぞ? それにもし出て来ても、ここで戦いになるから、下手をしたら巻き込まれるかもしれないぞ?」
「問題ありません。私には頼りになる護衛がいいますから」
「そう言うのなら、こっちとしては構わない。ただ、何かあった時の為に少し離れた場所にいてくれ。俺達の近くにはいないように」
レイの指示に男は素直に頷き、護衛と共にその場から離れる。
(さて、後は……具体的にいつくらいになったらトラペラが見つかるかだな。そもそも見つかるかどうかも不明だけど)
そもそも今までもそこまで頻繁にトラペラを見つけられた訳ではない。
実際にベルリッヒのいた場所……ここに来る前に調べた時も、最初に調べた時は何も見つからず、その後も探索を続けることでようやく一匹を見つけたのだから。
(実はスラム街にいたトラペラはあれ一匹だけだった……ってことになってくれると、こっちとしてもかなり助かるんだが。とはいえ、そこまでこっちにとって好都合なことは多分ないだろうな。そもそも、何匹のトラペラがギルムに入ったのか……あるいは今も入り続けているのか分からないというのが痛い)
具体的に何匹のトラペラがギルムに侵入したのかが分からないのは、この場合レイ達に非常に大きなマイナスとして働いていた。
もっとも、今の状況でそのようなことを考えても仕方がない。
出て来たトラペラを倒し続ける。
それが、現在のレイ達に出来ることだった。
「その……少しよろしいでしょうか?」
離れた場所でレイ達の様子を見ていた、三人組のリーダー格の男がレイにそう声を掛ける。
いや、実際にはレイに声を掛けたのではなく、レイ達全員に声を掛けたという方が正しいのだろうが。
しかし、マリーナは精霊魔法でトラペラを探しており、グルトスはレイ達の護衛ということで一緒にいるものの、詳しい事情については殆ど知らない。
結果として、男に答えるのはレイの仕事となる。
「何だ?」
「トラペラというモンスターについては、先程教えて貰いました。ですが、他のモンスターがギルムに入ってくるという可能性はありませんか? いえ、勿論、増築工事を行っている場所から、時折何匹かのモンスターが入ってきているのは理解しています。ですが私が聞きたいのは、トラペラのような高ランクモンスターについてです」
「可能性がないとは言えないな。けど、今までそういうことはなかった。……あるいはあったのかもしれないが、俺達の知らない場所で既に倒されていたとかだな」
ここ最近のレイは、妖精郷で寝泊まりをしたり、穢れの関係者の本拠地に襲撃に行ったり、エグジニスにゴーレムを受け取りに行ったりと、ギルムを留守にすることが多かった。
その為、もしギルムにトラペラ同様、侵入してくるモンスターがいても、それについての情報はない。
もっとも、もし実際にそのようなことになっているのなら、トラペラのようにわざわざ強い相手を狙わず、容易に殺せる弱い相手を狙うだろう。
そして弱い相手……一般人が死んでいれば、間違いなく騒動になっている。
だが、レイはそのような話を聞いてはいない。
もっとも、エグジニスから戻ってきたばかりの今日は、マリーナの家に戻ってきたら誰もおらず、戸惑っているところにアーラが迎えに来た。
その為、レイがエグジニスに行ってる間にそのようなことがあったら、あるいはレイもそれを知らないだけかもしれなかったが。
とはいえ、そのようなことがあれば領主の館で話に上がっていただろう。
そのようなことがなかったのを考えると、問題はないと考えるしかなかった。
「スラム街だと、その辺の情報もしっかりとはしていません。スラム街にモンスターがいて、戦う力のない者が犠牲になっている……ということはないでしょうか?」
「どうだろうな。スラム街に強者はいるし、多分大丈夫だとは思うが」
「いえ、強者がいるのは間違いないですが、強者だからといって人の為に戦うというような者はそう多くはないかと」
自分が襲われれば、対処をする。
だが、自分以外の者が襲われているのを見ても、無視することが殆どというのがスラム街の強者だと男は言う。
勿論、全員が全員そのようなタイプという訳ではない。
中には正義感の強い者だったり、あるいは好意を寄せている相手が襲われてたりする場合、もしくは助けることが自分にとって利益になる場合といった時は、助けてもおかしくはない。
だが、全体的に見た場合、やはり無視するのが普通だった。
「まぁ、それでも何かあったら色々と動きはあるだろうし。そういうのがないということは、多分大丈夫なんだと思うぞ」
もしかしたら、まだ表沙汰になってないだけかもしれないが。
そう思いながらも、レイは男と会話を続けるのだった。