3524話
「うぎゃっ!」
男が悲鳴を上げながら吹き飛ぶ。
それをやったのは、筋骨隆々という表現が相応しい男だ。
ただし、その頭部には熊の耳が生えている。……熊の獣人だ。
レイとマリーナが護衛――というよりは見掛けで侮られないように――として雇ったのは、ランクC冒険者のグルトスという獣人の男だった。
普段……冬以外の季節はパーティの中では盾役、いわゆるタンクとして活動している男で、本人の戦闘能力はそこまで高くはない。
高くないのだが、それはあくまでもランクC冒険者として見た場合だ。
スラム街の住人……特にその中でも強い訳でもない、それこそ下っ端と表現するような者達を相手にした場合、十分な強さを持つ。
「消えろ。お前達では俺に勝てない。それはもう分かっただろう?」
グルトスがまだ立っている男達に向かって言う。
男達は、悔しそうな表情を浮かべつつも退く様子を見せない。
男達の視線の先にいるのは、マリーナ。
男達が生まれて初めて見る程の美貌を持ち、スラム街の住人には一生着ることが出来ないような胸元と背中が大きく開いた青いパーティドレスを着たマリーナ。
そんなマリーナを諦めるようなことが男達には出来なかったのだろう。
「ぐ……くそっ! ベルリッヒはまだか! あいつ遅すぎるんだよ!」
男達の一人が忌々しげに叫ぶ。
男達にしてみれば、何としてもマリーナという獲物を逃がしたくはない。
その為、最初に行動した者の一人がグルトスに吹き飛ばされたのを見た時、すぐに部下に知り合いの集団を呼びに行かせたのだ。
だが、戦いが始まってから十分程が経過しているにも関わらず、まだ援軍は来ない。
グルトスはランクC冒険者である以上、戦いながらでも当然ながら周囲の様子を確認出来る。
男達の漏らしたそんな会話についても把握していた。
「マリーナ様、レイ、このままだと面倒が長引くだけだし、一気に全員倒してしまいたいんだが、構わないだろうか?」
「そうね。好きにしてちょうだい」
「適当に頼む」
マリーナとレイの言葉に、グルトスは一気に前に出る。
「ひぃっ!」
今までのように待ち受けるのではなく、突っ込んでくる男。
それもただの男ではなく、筋骨隆々という表現が相応しい男だ。
そのような相手に、男達は反射的に悲鳴を上げ……そしてグルトスによる蹂躙によって、あっという間に戦いが終わるのだった。
「それで、マリーナ。トラペラはいたか?」
「今のところはいないわね。もっと別の場所に移動しないと分からないわ」
グルトスが戦っている間、マリーナが黙っていたのは風の精霊を使ってトラペラを探していた為だ。
そしてレイはそんなマリーナの万が一の時の護衛として側に待機していた。
もっともマリーナが言うように、トラペラを見つけられなかった以上、ここでの探索はあまり意味のあるものではなかったが。
「さて、マリーナ様、レイ。ここは片付いたから早く向かおう。また面倒が来たら……」
「残念」
グルトスの言葉を遮るようにレイが言う。
そして若干遅れてマリーナが気が付き、そこから更に遅れてグルトスも気が付く。
「面倒な」
グルトスの口から漏れたのは、恐怖……といったものではなく、その言葉通り面倒臭いという感情だけが感じられる言葉だった。
熊の獣人というだけでも高い戦闘力を持っており、冒険者としても高ランク冒険者に後一歩というランクC冒険者に到達しているグルトスにしてみれば、特に鍛えた訳でもないスラム街の住人というのは、数だけの雑魚にすぎない。
スラム街にも相応の強者がいるのは知っているが、そのような者達はこのような場所で出てくることはない。
その為、一方的に蹂躙するべき敵を前に、グルトスが面倒臭く思うのも当然だろう。
世の中には敵を蹂躙することに喜びを感じる者もいるが、グルトスはそのような性格ではない。
だからこそ面倒臭いと思ったのだろう。
とはいえ、既に相手も見える距離まで近付いているだけに、今からこの場を逃げ出しても追われるだけだろう。
そう判断したグルトスは、マリーナに視線を向ける。
「倒すってことでいいよな?」
「ええ、そうしてちょうだい。……面倒ならこちらで対処するけど?」
トラペラの探索はもう終わったので、マリーナの精霊魔法はすぐにでも使える。
しかし、グルトスはそんなマリーナの言葉に首を横に振る。
「いや、止めておく。護衛として雇われたんだ。仕事はしっかりとさせて貰うよ」
「そう。じゃあ、お願いね」
そうして二人が会話をしている間に、援軍が到着する。
援軍の中のリーダー格……最初に襲ってきた男がベルリッヒと呼んでいたのだろう男が地面に倒れている者達を呆れの視線で見る。
「ったく、全滅とはな。普段の口程にも……レイ?」
呆れた様子で地面に倒れていた男達に嫌味を言っていた男だったが、一番目立つグルトスに隠れるようにしていたレイを見て、思わずといった様子でその名前を呟く。
「珍しい。この状態で俺を俺だと認識出来るとはな」
自分の名前が呼ばれたことに、少しだけ驚くレイ。
ドラゴンローブの隠蔽の効果が発動し、フードを被って顔も半ば隠れている。
寧ろこの状況で、よく自分をレイだと見抜いたと感心したようにベルリッヒに視線を向ける。
改めてレイと視線が合ったベルリッヒは、思わず天を仰ぐ。
「何でこいつらレイに喧嘩を売ってるんだ」
「……会ったことがあったか?」
「こうして話すのは初めてだが、以前レイがスラム街で暴れているのを見たことがある。……寧ろこの連中、レイを襲ってよく無事だったな」
倒れている男達を見たベルリッヒは、半ば感心、半ば呆れといった様子で言う。
倒れている男達は全員が気絶しているものの、死んでいる者は一人もいない。
骨の一本や二本折れていたり、あるいは歯がなくなっていたりする者もいるが、スラム街ではそのくらいのことは珍しくもなかった。
だからこそ、ベルリッヒはそこまで心配していないのだろう。
仮にも援軍として呼ばれたのだ。
最初に襲ってきた者達とは敵対関係ではない筈だった。
しかし、それでもレイがいるという時点でベルリッヒはレイ達を攻撃するのを止める。
レイに言ったように、ベルリッヒは以前レイがスラム街で戦っている光景を見たことがあった。
その時に見たレイの実力からして、自分達が襲い掛かっても容易に負ける未来しか見えない。
そこまで多くはないとはいえ、ベルリッヒも部下を率いる身だ。
勝てるかもしれない相手ならともかく、どうやっても勝つことが出来ない相手に攻撃を仕掛けるつもりはなかった。
「それで? どうやらお前達はこの連中の援軍としてやって来たみたいだが、どうするつもりだ?」
「何もしないよ。この連中の相手は俺がするから、レイ達はさっさと行ってくれ。そして出来ればこれ以上面倒を起こさないうちにスラム街から出ていって欲しいな」
ベルリッヒにとって、レイという存在は災害に近いものだ。
一度暴れ出せば、それこそスラム街に大きな騒動を巻き起こす。
そのようなことになる前に、出来る限り早くレイにはスラム街から出ていって欲しい。
「そうだな。用事が終われば俺もスラム街を出ていくよ。ただ……」
「レイ、捕らえたわ。入ってきた」
何かを言おうとしたレイの言葉を遮るように、マリーナが会話に割り込む。
「さっきはいなかったのにか?」
「そうね。それでもこのタイミングで来たのは、私達にとっては悪くないわ。……いい? ここに落とすわよ?」
「分かった」
「ちょ……ちょちょっと待ってくれよ! 一体急に何を……」
困惑したようにベルリッヒが言う。
ベルリッヒにしてみれば、マリーナが何を言っているのか分からない。
そもそもベルリッヒにとって重要なのはレイで、マリーナはとんでもない美人だが、レイの女くらいにしか認識していなかった。
……パーティドレスを着ているのを見れば、まさか元ギルドマスターにして、現在はレイのパーティメンバーだとは到底思えなかったのだろう。
「現在ギルムにモンスターが……それも高ランクモンスターが入り込んでいる。俺達がスラム街に来たのは、そのモンスターがスラム街にいる可能性を考えてだ。……そしてそれは正しかった訳だ」
ベルリッヒに説明しつつ、レイはミスティリングからデスサイズと黄昏の槍を取り出す。
レイのミスティリングについては有名なので、特に驚いたりはしない。
だが、そこから出て来たデスサイズと黄昏の槍は、見ただけで気圧されるものがあった。
我知らず後退りするベルリッヒ。
レイはそんなベルリッヒの様子に気が付き、声を掛ける。
「何をしている。地面で寝ている連中を移動させろ。でないと、俺と高ランクモンスター……恐らくランクBモンスターとの戦いに巻き込まれるぞ」
「くっ……この馬鹿共を連れていけ!」
レイの言葉に、ベルリッヒは自分の部下達に向かって命令する。
地面に倒れている者達は、時には敵対し、時には協力する相手だ。
決して仲間とは言えないし、とてもではないが身内と呼ぶべき存在ではない。
だが、それでもこのままにしておけば死ぬかもしれない以上、放っておく訳にはいかなかった。
ベルリッヒの指示に従い、男女問わず倒れている者達を連れてその場から離れていく。
中には人手が足りないのか、あるいは単純に怨みを持っているのか、足を持って引きずっていかれる者もいる。
当然ながらそのような者は何度も地面に頭をぶつけており、目覚めた時は身体中が痛いだろうし、何より頭部は幾つものたんこぶが……場合によっては切り傷や擦過傷の類もあるかもしれない。
それでもこの場にいてレイとトラペラの戦いに巻き込まれるよりはマシだろうが。
「……で? お前は何で避難しないんだ?」
レイはデスサイズと黄昏の槍を手に、いつトラペラが目の前に落ちてきてもいいようにしながら、何故か他の者達と共にこの場を退避せず、ここに残っているベルリッヒに尋ねる。
ベルリッヒはそんなレイの言葉に、内心の緊張を隠しつつ口を開く。
「あのレイがこうしてスラム街にやってきてまで、何かをやってるんだ。それが具体的に何なのか、近くで見られる機会を逃すのはどうかと思ってね」
「ふーん。……まぁ、そっちがいいのなら構わないが。ただ、これから起きる戦いに巻き込まれて……いや、そうだな。自分の身が心配ならグルトスとマリーナの側に移動しておけ」
そう言いつつ、レイは一度黄昏の槍の穂先を地面に突き刺し、ミスティリングから防御用のゴーレムを取り出す。
ボウリングの球のようなゴーレムは、レイが魔力を流すとすぐに起動する。
一瞬、このゴーレムでベルリッヒを守ろうかとも思ったのだが、今回重要なのはあくまでもマリーナだ。
グルトスがいるので大丈夫だとは思うが、何しろトラペラは透明である以上、グルトスであっても完全に攻撃を防げるとは限らなかった。
その為、最初から障壁を展開出来る防御用のゴーレムはマリーナを守らせようとレイは考える。
グルトスやベルリッヒは、言ってみればついでだ。
そんなレイの考えを全て理解した訳ではないだろうが、グルトスもベルリッヒもマリーナの側に移動し、それに続くようにゴーレムがマリーナの隣に移動すると障壁を展開する。
グルトスもベルリッヒも、いきなり目の前に現れた赤い障壁には驚くも、その驚きの声を発するよりも前に事態は動く。
どん、と。
そんな音を立て、上空から何かが落ちてきたのだ。
「何だ!?」
ベルリッヒが驚きの声を上げる。
グルトスはレイから大体の事情を聞いた上で護衛をしていたので、ベルリッヒ程には驚いていない。
だが、それでもやはり透明の何か……トラペラが落ちてきたのを見れば、若干の驚きは抱く。
「安心しろ。そこにいると分かれば、倒すのはそう難しくはない」
そう言い、レイは風に捕らえられたトラペラに向かって進み……だが、次の瞬間、素早くデスサイズを振るう。
斬、と。
見えないまでも、何かを切断した手応えがレイの手の中に残る。
トラペラが持つ、何らかの攻撃手段……尻尾か、触手か、あるいは舌か。
それはレイにも分からなかったが、とにかくそのような攻撃があると分かっていれば、例え透明で非常に奇襲性の強い攻撃であっても対処するのは難しくない。
グルトスやベルリッヒには何が起きているのか分からない中、レイとトラペラの戦いは続く。
もっとも、それは戦いと呼べるようなものではない。
トラペラが自由に動けるのならまだしも、今はマリーナの精霊魔法によって動きを封じられている。
結果として、レイは見えないが確実にそこにいるトラペラに近づき……デスサイズを振り下ろすのだった。