3513話
「あれは……トラブルか?」
「グルルゥ?」
セトの背に乗ったレイは、地上を見て呟く。
レイの言葉にセトがどこ? といったように地上を見る。
エグジニスを飛び立ってから数時間……既にセトはかなりの距離を飛んでいた。
この辺りまでくれば、それこそエグジニスという名前を聞いても、何かの噂話でそんな街の名前を聞いたことがあるような? といった程度の認識になるくらいには、既にエグジニスから離れている。
そんな場所を飛んでいるセトの背の上で、レイは地上を見ていたのだが……猪に襲われてる猟師と思しき相手の姿を見つけたのだ。
レイにしてみれば、これが盗賊に襲われているのならトラブルだと判断する。
だが、猪。
これがギルムなら、あるいは猪型のモンスターと認識したかもしれないが、ここはギルムのある辺境ではない。
勿論、辺境でないからといって絶対にモンスターが出ないとは限らない。
ゴブリンやコボルト、オークといったモンスターは普通にいるし、空を飛ぶモンスターは辺境から出ることもめずらしくはない。
しかし、地上を移動するモンスターが辺境から出るというのは非常に珍しい。
(あるいは、辺境から来たとかじゃなくて、普通にこの辺りでモンスターになったのかもしれないな)
魔力溜まりがあれば、動物がモンスターになるのは自然な話だ。
魔力溜まりはどこにでもあるという訳ではないが、それでもある場所にはある。
あの猪がその魔力溜まりによってモンスターとなったというのは、決して否定出来なかった。
「グルゥ?」
猪のモンスターに追われている猟師と思しき人物を見ていたレイだったが、セトのどうするの? という鳴き声で我に返る。
「助けるか。もしモンスターなら、魔石を入手出来るかもしれないし」
レイも今までそれなりにモンスターを倒してきたが、猪のモンスターというのはそこまで大量には倒していない。
そうなると、もしかしたら……本当にもしかしたらだが、未知のモンスターの可能性も否定は出来ない。
(実際には猪の可能性が高いんだろうけど)
レイも恐らくはモンスターではないと思ってはいるが、見つけてしまった以上はこのまま見捨てるのもどうかと思うし、もし本当に未知のモンスターであった場合、魔石は確保したい。
そう判断すると、レイはセトに向かって声を掛ける。
「助けるぞ」
その一言を聞いたセトは、即座に翼を羽ばたかせながら地上に向かって降下していく。
地上にあるのは雪原。
恐らく夏になれば草原となるのだろう場所だが、今は雪原がどこまでも広がっていた。
そのような場所だけに、逃げている猟師も隠れる場所はない。
せめて木の一本でも生えていれば、逃げている猟師もその木に登るといったことも出来たのだろうが、雪原には木の一本も生えていない。
もっとも猟師を追っている猪は結構な大きさなので、下手に木に登ってもあっさりと折られてしまう可能性があったが。
「あ、これちょっといい機会か。セト、あの猪は俺が相手をするから、セトは周辺の警戒を頼む」
「グルルルゥ!」
レイの言葉に、セトは任せてと喉を鳴らす。
レイはそんなセトの背の上から、地上が大分近付いたところで飛び降りる。
スレイプニルの靴を使い、一歩、二歩、三歩と空中を踏んで逃げている猟師の前方に着地した。
「ひぃっ!?」
突然自分の前に現れたレイとセトに、猟師が走りながらそんな悲鳴を上げる。
猪から必死に逃げている途中、いきなり目の前にレイとセトが現れたのだ。
そのような悲鳴を上げてもおかしくはない。
「そのまま走り続けろ! 俺の横を通れ! 後ろの猪は俺に任せろ!」
ミスティリングの中から防御用ゴーレムを取り出し、ゴーレムの動力源となる魔力を込めながら叫ぶ。
必死に逃げていたということもあってか、猟師はレイの言葉が自分を助ける為のものだと理解する。
普通に考えれば非常に怪しい。
だが、今の状況でも非常に危険なのは間違いない。
ここでどうにかしなければ、自分の命はない。
なら、ここでレイの言葉に従わないという選択肢はなかった。
「分かったぁっ!」
走りながら全力で叫ぶ。
そんな猟師を見ながら、レイは手にしたゴーレムに命令をする。
「あの逃げている猟師を守れ」
レイの言葉に、即座に動き出すゴーレム。
ボウリングの球にしか見えないゴーレムは、レイの指示に従って自分の方に向かってくる猟師に向かう。
(どうやら猟師とか、そういう感じの命令でも十分にそれに判断出来るんだな)
そのことに満足するレイだったが、自分の方にいきなり向かってくるゴーレムを見た猟師はそうもいかない。
「ひぃっ!」
後ろから猪、前方からゴーレム。
猟師にしてみれば、混乱するなという方が無理だろう。
「心配するな、それは防御用のゴーレムだ! お前を守るゴーレムだから、心配するな!」
そうレイが叫ぶも、いきなりゴーレムを見た猟師がそれを即座に信じられる筈もない。
だが、それでも後方の猪を相手にするよりは、自分を守ってくれるというゴーレムに賭けた方がいい。
そう判断し、猟師は走り……ゴーレムに近付いたところで、ゴーレムを中心に赤い障壁が張られる。
「ぐべぇっ!」
だが、全速力で雪原を走ってきた猟師は、すぐに足を止めることは出来ない。
そのまま勢いよくゴーレムとすれ違い、やがて赤い障壁にぶつかってようやくその動きを止める。
「うわ」
この展開はレイにとっても予想外だったのか、思わずそんな声が漏れる。
レイはてっきりゴーレムが障壁を張っても、猟師と一緒に移動すると思っていたのだ。
(もしかして障壁を展開してしまえば、その場所から動けないのか? ……いや、違うな)
障壁にぶつかって地面に倒れ込んだ猟師に向かい、ゴーレムは移動していく。
その様子を観察していたレイだったが、次の瞬間、追ってきた猪が赤い障壁にぶつかる。
雪の上とはいえ、四本足の猪……それも結構な大きさの猪だ。
鋭い牙もあり、そんな相手の体当たりを受ければ命に関わる怪我をしてもおかしくはない。
一般人にとっては、そんな圧倒的な攻撃力を持つ体当たりだったが……
「ブヒィッ!」
障壁は破壊されるようなことはなく、猪は障壁にぶつかった衝撃で吹き飛ばされ、悲鳴を上げながら地面に転がる。
その光景は、猟師の男が障壁にぶつかった時と同じような光景だ。
ただし、勢いや自分の体重もあってか、受けた衝撃は猪の方が圧倒的に大きかったが。
「モンスターじゃない、か」
障壁に衝突したダメージが余程大きかったのだろう。
地面に倒れ、ピクピクと痙攣をしている猪を見ながらレイが呟く。
外見だけでしか確認してないが、レイも知っている猪そのままの姿だ。
大きさは日本で見た個体に比べると明らかに大きい。
ただ、エルジィンにいる猪の規模で考えれば、大きいことは大きいが、それも誤差程度だ。
これで例えば角や尻尾があったり、頭部が二つあったりといった外見ならモンスターで間違いない。
だが、こうして見たところでは普通の猪でしかない。
「あるいは外見は普通の猪でも、内部が違うのか? ファイアブレスを吐くとか」
もっともファイアブレスを吐けるのなら、猟師を追っている時に使っていただろう。
総合的に見て、やはりこの猪はモンスターではなく普通の動物だというのがレイの判断だった。
そうして猪を見ていると、やがて痙攣が止まりピクリとも動かなくなる。
気絶……ではなく、死んだらしい。
「え……一体何が……?」
障壁に内側からぶつかって倒れていた猟師は、起き上がると何故か猪が倒れているのを見てそんな声を上げる。
猟師にしてみれば、自分が必死に逃げていたのにこうもあっさりと倒されるとは思っていなかったのだろう。
(ボブのような腕があれば、こういう猪を相手にしてもどうにか出来るかもしれないけど……ボブ程の技量を持つ者がそう簡単にいる筈もないか)
普通の猟師は自分の知っている山や森、林といった場所で狩りをする。
その地形を知っているが故に、どこなら獲物がいる可能性が高いか、そしてどこなら獲物を倒しやすいかといったことを考えやすい。
だが、ボブのように旅をしながら猟師をしている場合、前もって他の人から話を聞いてある程度の情報は入手出来ても、基本的には一発勝負だ。
当然ながら、獲物を仕留めるのは難しくなる。
そんな中で、ボブは問題なく旅をしながら猟師が出来ている。
それこそが、ボブの腕の良さを示していた。
もしボブであれば、猪に追われつつも矢を射って仕留めることが出来ただろう。
「それで? 何だってこんな雪の中で猪を狙ってたんだ? というか、よく猪がここにいたな」
レイが知ってる限り……というか、より正確には日本にいた時の話だが、猪というのは冬眠をしたりはせず、雪が降ると他の場所……餌のあるような場所に移動して越冬する。
こうして雪がそれなりに積もっており、特に餌らしい餌があるとも思えないこの辺りにまだいるというのが、レイにとっては驚きだった。
もっともレイが知っている猪はあくまでも日本……それも自分の住んでいた場所の話だし、その話を聞いたのも猪の肉を分けてくれる父親の友人の猟師から聞いた話だ。
その知識が正しいかどうかはレイには分からないし、ましてやこのエルジィンの猪に当て嵌まるかどうかも分からなかったが。
「その……村で食料が少し足りなくなるかもしれないって話になってな。恐らくは大丈夫だろうけど、もしかしたら……といったくらいだけど。それでも何かあって余計に食料を消費するようなことがあった場合、餓死とまではいかないけど、空腹で苦しむかもしれない」
そう言われれば、レイもそういうものかと納得するしかない。
レイの住んでいるギルムでは、食料はかなりの余裕がある。
また、レイのミスティリングの中にも結構な食料……いや、もっと正確には料理とかがあるので、レイが餓えに苦しむような事はない。
だが、それはギルムという辺境にあり、多くのモンスターがいて、それを倒せる者達が揃っているという環境であったり、レイの持つミスティリングのように収納しておけば料理が悪くなったりしないと、そういう特殊な例であるからだ。
実際、今はギガントタートルの解体をしている影響でスラム街の住人でも餓死をする者は減ったが、レイがそのようなことをする前には毎年冬にスラム街で餓死をする者はかなりいた。
凍死も多かったのだが。
ギルムのような場所ですらそのような状況なのだから、小さな村で食料が足りなくなるといったことが起きるのは珍しくはない。
この猟師の村もその例に漏れていなかったのだろう。
もっとも、実際に食料が足りなくなったのではなく、足りなくなるかもしれないので念の為に食料を増やそうというところに、多少の余裕は感じられたが。
「で、だな。……その、あんたが倒した猪だけど……すまねえが、譲ってくれねえか?」
「いいぞ」
「分かる。あんたが倒したんだから、そう簡単には……え?」
レイが断ることを前提に、猟師が更に頼み込もうとする。
猟師にしてみれば、この猪の肉の有無によって村の雰囲気が大きく変わるのだから必死だ。
それだけに、猪を倒したのはレイだが、猪をここまで引き連れてきたのは自分だから、半分……それが無理なら三割程度でいいので肉を欲しいと交渉するつもりだったのだが……その考えが綺麗さっぱり無意味になってしまった形だ。
「えっと、その……いいのか? このままだと本当に俺がこの猪を全部貰ってしまうけど」
恐る恐るといった様子で尋ねる猟師に、レイは頷く。
「構わない。その猪は全部お前が貰ってくれ」
これはレイが慈愛に満ちているから出た言葉という訳ではない。
猪の肉は動物の肉の中では美味い方なのは間違いないだろう。
だが、レイのミスティリングの中にはその猪の肉よりも美味いモンスターの肉が大量に……それこそ一生食料には困らないだろう量、もしくはそれ以上の量が収納されている。
あるいはこれが何か一種類の肉なら、その味に飽きて他の肉も食べたいと思うかもしれない。
だが、ミスティリングに入っている肉は多種多様だ。
飽きるということは考えなくてもいい。
もっとも、肉そのものに飽きるといったことがあった場合は話が別だったが。
「えっと……本当にいいのか? 後から実は返して欲しいとか言われても、返すことは出来ないと思うぞ?」
「ああ、それでいい。俺の方にも今回の件は利益があったし」
そう言い、レイは空中に浮かぶゴーレムを見る。
するとそんなレイの行動に反応したのか、ゴーレムはレイのいる方に戻ってくるのだった。