3512話
「グルルルゥ」
セトがレイに向かって喉を鳴らしながら顔を擦りつけてくる。
セトにしてみれば、ずっと厩舎にいたので寂しかったのだろう。
一応昨夜、寝る前に厩舎に顔を出したのだが、それでもセトとしてはレイともっとずっと一緒にいたかったらしい。
結果として、こうして現在はレイに甘えている訳だ。
そうして十分程セトを撫でていたレイは、セトがある程度落ち着いたところで口を開く。
「さて、じゃあ、そろそろ戻るぞ。いつまでもエグジニスにいれば面倒に巻き込まれるかもしれないし」
エグジニスの上層部がレイに接触しようとしているだろうというのは、ロジャーの予想だった。
しかし、エグジニスに住むロジャーの予想だけに、そう間違っているとも思えない。
だとすれば、やはりここは面倒に巻き込まれるよりも前にとっととエグジニスを出るのが最善だろうというのがレイの考えだった。
既に宿もチェックアウトしており、後はセトを連れてそのまま宿を出ればいい。
(もしかしたら、もう一騒動くらいあるかもしれないと思ったけど……そういうのはなかったみたいだな。もしあるとしたら、昨夜のあの三人が襲ってくるとか? ……ないか。若旦那はともかく、他の二人は俺の実力を十分に理解していたみたいだったし)
ただ、それでももしかしたらと思ったのは、あの三人が所属する商会がアイテムボックスを……それも簡易型ではなく、レイが持っているような本物のアイテムボックスを欲しているということだった。
そもそも本物のアイテムボックスは数が少なく、非常に希少だ。
分かりやすい所有者となると、レイ以外にはベスティア帝国のランクS冒険者、不動のノイズくらいだろう。
他にも持っている者はいるかもしれないが、それこそランクS冒険者であったり、異名持ちの高ランク冒険者でもない限り、アイテムボックスを持っていると知られれば命を狙われる可能性が非常に高いので、それを表沙汰にすることはないだろう。
(あ、でも……今更、本当に今更だけど、穢れの関係者の本拠地にはもしかしたら簡易型のアイテムボックスではなく、本物のアイテムボックスはあったかもしれないな。……今更だけど)
自分の魔法によって、穢れの関係者の本拠地が完全に焼き尽くされてしまったことに思うところがあるのか、レイは残念に思ってしまう。
だが、改めて考えてみれば本物のアイテムボックスが穢れの関係者の本拠地にあったという可能性は決して否定出来ない。
何しろ穢れの関係者は遙か昔から存在する組織だ。
それも人に対しては殆ど知られておらず、レイも妖精郷で長に聞かなければ知らないままだっただろう。
あるいは、ゼパイル一門が生きていた時のことを知るグリム辺りなら、もしかしたら知っていたかもしれないが。
ただ、レイも何度かグリムに連絡を取ろうとしたのだが、連絡が出来ないので聞きようがなかった。
何があって連絡が出来ないのかは、レイにも分からない。
ただ、一度グリムがいるトレントの森の中心部分にある地下空間に顔を出してみた方がいいのではないかと、セトを撫でながら考える。
「さて、じゃあ行くか。出来るだけ早くギルムに戻る必要があるし。……それに来る時は特に何も問題はなかったけど、ギルムに帰る途中で何らかのトラブルに巻き込まれる可能性はあるし」
「グルゥ!」
レイの言葉に、セトは頑張る! と喉を鳴らす。
セトにしてみれば、もし何かがあっても自分がレイを守るというつもりなのだろう。
そんなセトの気持ちはレイにとっても嬉しい。
笑みを浮かべつつ、レイはセトを撫で……それにセトが満足すると、宿から出る。
時間的にはまだ午前八時前といったくらいの為か、エグジニスの街中にはそれなりに人が多い。
この時間帯は普通に暮らしていれば既に起きて、仕事を始めていてもおかしくはない時間帯だ。
もっとも、このエグジニスはゴーレム産業が盛んな街なので、そういう意味では普通という表現は相応しくないのかもしれないが。
ともあれ、レイはセトと共に街中を歩く。
昨日、一人で街中に出た時と違い、今回はセトを連れている。
それだけに、エグジニスの住人達もレイをレイだと認識していた。
「ちょっ、おい、あれ……レイじゃないか?」
「ああ、セトがいるから間違いない。エグジニスに来てたんだな。知らなかった」
「はっはー、情報が遅いな。俺は昨日のうちにそういう噂を聞いてたぜ?」
「ぐぬぬ……なら教えろよな」
そんなやり取りが、街中を歩くレイの耳に聞こえてくる。
レイに声を掛けてくる者はいないので、特に何の問題もなくレイは街中を歩くことが出来ていた。
もう少し時間があれば、周囲でレイを見ていた者達もレイに声を掛けたりといったことが出来たのかもしれないが、レイとセトはそのような相手の行動を待つようなことはせず、どんどん進む。
何人かはそんなレイを追い掛けようと思ったものの、レイの邪魔になるかもしれないと考え、やめておく。
レイにはこのエグジニスを救って貰ったのだ。
そうである以上、その恩人を煩わせるようなことは可能な限り避けたいと思うのは自然なことだ。
ただ、世の中には自分の利益の為なら相手に不愉快な思いを抱かせてもいいと思う者もおり、そのような者達はレイを追おうとして……すぐに周囲にいた他の者達から、それとなく邪魔されてしまったが。
そのような背後のやり取りを感じつつ、レイはセトと共に歩き続け、やがて正門前に到着する。
冬となっている以上、正門前には人が並んだりはしていない。
ギルムと違い辺境ではなく、ゴーレム産業という特殊な産業を行っているエグジニスだけに、冬であってもそれなりに出入りする者はいる。
だが、正門の前にいる者は数人程度だ。
エグジニスから出ようとすれば、それこそすぐにでも手続きを行える程度の人数でしかない。
その為、レイはセトと共に手の空いている警備兵に近づき、声を掛ける。
「エグジニスの外に出たいんだけど、手続きを頼めるか?」
「分かった。……レイか。もう帰るのか?」
レイの言葉に返事をした警備兵は、昨日来た時に見た顔ではない。
だが、警備兵の間でレイがエグジニスに来ているという情報は聞いていたのだろう。
レイを見ても驚いたりはせず、そう言葉を返す。
「ああ。ロジャーに頼んでいたゴーレムを受け取ったし、ギルムでもやるべきことがあるから、いつまでも留守にしていられないんだよ」
「そうか。出来ればもう少しエグジニスにいて欲しかったんだがな。レイに感謝をしている者は多いし」
「時間に余裕があればそうしたかったんだけどな。それにエグジニスの上層部が妙なことを考えたりする可能性もあるだろう?」
そうレイが言うと、警備兵は困ったような笑みを浮かべる。
言葉には出さないものの、恐らくそれらしい言葉を聞いているのだろう。
レイは警備兵の様子から何となく事情を理解すると、ここで時間を掛ける訳にはいかないと口を開く。
「とにかく手続きを頼む」
「分かった。ギルドカードを出してくれ」
警備兵の言葉に頷き、レイはギルドカードを出す。
それを受け取った警備兵が早速手続きをしていると……
「降ってきたな」
散らついた雪を見て、レイが呟く。
そこまで勢いよく降っている訳ではないにしろ、それでもこのまま降り続けるとそれなりに積もるだろう。
レイとしては、そうならないうちにセトに乗ってエグジニスから離れたかった。
……もっとも、エグジニスから離れた結果、余計に雪が強く降るという可能性もあるのだが。
「そうだな。出来れば今年の雪は少なくなって欲しいんだが。雪掻きとか面倒だし」
「その気持ちは分かるけど、この季節に降る雪が少ないと、夏とかに水不足になったりするんじゃないか? そうなったらそうなったで困りそうだが」
「ぐ……それは否定出来ん」
ゴーレム産業で賑わっているエグジニスだが、水不足になった場合の対処は難しい。
エグジニスからそう離れていない場所には山があり、その山に貯め込まれた水がエグジニスの水源となっている。
もっとも、エグジニスにとってその山は水源である以外にも盗賊の拠点となる場所という大きな意味を持つ。
とはいえ、それは盗賊を恐怖に感じているといった意味ではない。
いや、一般人にしてみれば間違いなく盗賊は厄介な存在なのは間違いないのだが、ゴーレムを作る錬金術師達にとっては違う。
自分達が作ったゴーレムの運用試験を行うという意味で、盗賊はいい的でしかない。
その上で、盗賊を倒せば生き残りを犯罪奴隷として売ったり、盗賊が持っていたお宝を自分の物に出来たりする。
それらは新たなゴーレムの製作資金になったり、研究の資金になったり、あるいは錬金術師の護衛の冒険者の臨時収入になったりする。
そのような盗賊を集める為、エグジニスは盗賊にとって活動しやすい場所だという噂を裏で流していたこともある。
もっとも、その噂を流していたのは人を生け贄にしてゴーレムの核を作っていた……それこそロジャーを一時的に追い抜いた者達で、既にそのような者達はいない。
死んだか、あるいは捕まったか。
とにかく既にそのような噂は流れていないものの、それでも一度流れた噂はそう簡単に消えることはなく、レイがエグジニスを去ってからも盗賊は集まってきていた。
今は冬なので、そのような盗賊の活動も停止しているが。
「まぁ、エグジニスは錬金術師が多いんだ。もし水不足になっても、マジックアイテムでどうにか出来るかもしれないな」
「分かっていて言ってるな?」
不満そうな視線をレイに向ける警備兵。
実際、レイは警備兵の言う通りに分かっていて今のようなことを口にしたので、そっと視線を逸らす。
このエグジニスには多くの錬金術師がいる。
それこそ数という点では、恐らくミレアーナ王国の中でもトップクラスだろう。
しかし、エグジニスにいる錬金術師というのはあくまでもゴーレムの製造に特化しているのだ。
錬金術師である以上、マジックアイテムが作れない訳ではない。
だが、同等の技量の一般的な錬金術師と比べれば、明らかにマジックアイテムを作る技量は低い。
レイが初めてエグジニスに来た時、錬金術師が大量にいるということでマジックアイテムにも期待していたのだが、その時に実際に街中を見て回ったところ、品揃えという点では明らかにギルムの方が上だった。
もっとも、ギルムはギルムで辺境由来の希少な素材を求めて多数の錬金術師が集まっているのも事実。
そのような者達が作るマジックアイテムなのだから、相応に高性能になるのは当然だった。
……レイにしてみれば、珍しい素材があったら見せて欲しい、貸して欲しい、売って欲しいと言ってくる厄介な相手という認識しかなかったが。
そんな訳で、水を生み出すマジックアイテムをエグジニスにいる錬金術師が作れるかどうかは、微妙なところだろう。
あるいは作れたとしてもエグジニスの全員が問題なく水を使える量になるかどうか。
マジックアイテムについて未熟であれば、エグジニスどころか自分の家で使うのにも足りないという可能性は否定出来なかった。
「最悪、ゴーレムと引き換えにマジックアイテムと交換出来るように頼んでみるという方法もあるんじゃないか?」
「そういう方法もあるかもしれないが、一介の警備兵にそんな事を決める権利はないよ」
「なら、個人でやるとか? 自分と家族の分くらいの水を出せるマジックアイテムは確保しておいてもいいんじゃないか?」
「ゴーレムをどうやって用意しろと?」
レイの提案に呆れた様子で警備兵が言う。
もし警備兵が錬金術師であれば、レイが言うように自分でゴーレムを作って水を生み出すマジックアイテムと交換をするといった手段もあるだろう。
だが、男はあくまでも警備兵でしかなく、自分でゴーレムを作るといったことは出来ない。
レイが言うようなことは、到底出来ないのだ。
そうして話をしていると……
「レイ、その辺にしておいてやってくれ」
不意にそう声を掛けられる。
聞き覚えのある声に視線を向けると、そこには昨日会った相手の顔があった。
「ロジャー? どうしてここに?」
「偶然通り掛かっただけだ。そうしたらお前達の話が聞こえてきてな」
「偶然……? まぁ、それはいいけど」
それは本当に偶然か? と思いつつも、別にそこまで追及する必要はないだろうと、レイは何も言わない。
恐らくは見送りにきたのだろうと、予想しつつも。
「それより、ほら。レイが話していたから、それなりに人が集まってるぞ? 早く行った方がいいんじゃないか?」
「そうだな。面倒が起きたら困る」
エグジニスの上層部からの使者といった存在が来るよりも前に、とっととエグジニスを出よう。
そう考え、レイは警備兵に視線を向けるのだった。