3511話
銀の竪琴亭にあるレイの部屋は、それなりに広い。
……というより、レイが一人で使う分には持て余す程に広かった。
このような部屋となった理由は、幾つかある。
まず一つは、レイが銀の竪琴亭に予約をした訳ではなく、その日のうちに泊まりたいとやって来たのが大きい。
基本的に普通の宿ならそれでもいいのだが、この銀の竪琴亭は貴族や大商人が泊まるような宿だ。
レイがギルムで定宿にしている――最近は部屋を借りたままで戻ってはいないが――夕暮れの小麦亭も同じように貴族や大商人、あるいは高ランク冒険者といった者達が泊まる宿だが、それでも家族的な雰囲気の宿なので、そこまで堅苦しくはない。
だが、この銀の竪琴亭は違う。
それこそ本来なら、前もって人を先に向かわせて予約をするような宿だ。
そんな宿だったが、エグジニスを救ったレイが相手であれば、泊めないという選択肢はない。
ただし、冬のこの季節、空いている部屋は決して多くはない。
そんな中でレイに用意されたのが、銀の竪琴亭の中でも上から数えた方が早いこの部屋だった。
(とはいえ、こうして客……客? いや、客じゃないか。とにかく誰かを招き入れるということを考えれば、広い部屋でよかったのかもしれないな)
もし狭い部屋であれば、四人も入ると狭苦しくなる。
そのように思いつつ、レイは部屋に入れられたにも関わらず、再度頭を下げた三人を見る。
「さて、そろそろ頭を上げてくれ。俺としては、その男の件はもうそこまで気にしていない」
ばっ、と。
レイの言葉を聞いた男は顔を上げ……
「がっ!」
次の瞬間、今度は護衛に無理矢理頭を下げさせられる。
「すまないね、若旦那。雇い主からは執事の命令を優先するように言われてるんだよ」
「き、貴様……」
「ほらほら、レイの前でそんなことを言ってもいいのか? 本当にレイを敵に回してしまうぞ?」
「ぐぅ……」
本人達は小声で……レイに聞こえないように話しているつもりなのだろう。
だが、鋭い五感を持つレイにしてみれば、幾ら小声で話そうとも、こんなに近くで話しているのなら、それを聞き逃したりはしない。
「取りあえず頭を下げるのはもういい。それより、用件はそれだけなのか? なら、俺はそこまで気にしてない」
「申し訳ありません。この御方は才能はあるのですが、調子に乗りやすく……レイ殿には非常に不愉快な思いをさせてしまったことを謝罪させて下さい」
レイの言葉にそう答えたのは執事だ。
本来であれば、若旦那に代わって執事がレイと話をするというのはあってはならないことだ。
だが、この三人の力関係を考えると、そのようなことは特に問題がないように思える。
「俺が言うのもなんだが、もう少ししっかりと教育をした方がいいと思うぞ」
もしレイのことを知っている者が今の言葉を聞けば。『お前が言うな!』と絶叫するだろう。
何しろレイは、敵対した相手は貴族であっても容赦なくその力を振るうのだから。
そんなレイに比べれば、若旦那と呼ばれた男の行為は可愛いものだと言えるだろう。
もっとも、その可愛い行為であっても、レイを相手に行った以上、最悪死んでいてもおかしくはなかったのだが。
「はい。その辺は十分に承知しております。今回の件をレイ殿がお許しになって下さるのなら、厳しく教育をするつもりです。今までの教育は大分甘かったようですから」
「え?」
執事の言葉に、若旦那は予想外といった声を上げる。
そして厳しい教育を想像したのか、その表情が次第に青くなっていく。
(どんな教育なのやら)
その辺が少し気になったレイだったが、もしここでそれを聞いたら、それはそれで面倒なことになりそうだと思い、追及はしない。
その代わり、改めて執事を見て口を開く。
「取りあえず話は分かった。俺も別にそこまで気にしていないから、そっちも深刻になる必要はない。最後まで面倒なことになれば話は別だったかもしれないが、今回はそこまでいく前にそっちの護衛が止めたし」
レイに視線を向けられた護衛は、笑みを浮かべる。
執事に視線を向けられると、すぐにその笑みを消したが。
「分かりました。ただ、何もせず許すと言われてもこちらも素直に受け取ることは出来ません。……こちらは謝罪の品となりますが、受け取って貰えますでしょうか?」
執事が懐から取り出した少し大きめの金属で出来たケースをテーブルの上に置く。
そのケースに興味を惹かれたレイは、金属のケースを開ける。
するとケースの中には、三本のポーションがあった。
ただし、執事が懐から出したケースの中に入っていた三本のポーションだ。
決して大きな瓶ではない。
それこそ人差し指と同じくらいの長さの……それこそ小型の瓶に入っているポーションだ。
「これは?」
「当商会で扱っているポーションでございます。当商会はポーションのような消耗するマジックアイテムを取り扱っております。このポーションは、当商会の中でも高性能な物です」
「随分と小さい……というか、量が少ないみたいだが?」
「は。これは特殊な製造方法によって生み出されたポーションで、この大きさでも本来のポーションと同じ効果を発揮します」
「へぇ」
執事の説明は、レイの興味を惹くには十分なものだった。
普段使っているポーションは、それなりの大きさの瓶に入っている。
それに比べると、執事から渡されたケースに入っている三本のポーションは明らかに小さい。
それでいて、話を聞く限りでは効果も普通のポーションと違わないという。
ポーションを持ち歩く冒険者は多いが、戦いの中で、あるいは本人の不注意でポーションの瓶を割ってしまうことは多い。
勿論、ポーションの入っている瓶は普通のガラスとは違い、相応に強化されている。
ポーションの値段には、その辺の料金も加算されている形だ。
つまり、安いポーションは効き目が少なく、それでいて瓶も割れやすいということになる。
レイの場合は基本的にミスティリングに収納してるので、割れるという心配はまずないのだが。
しかし、レイのミスティリング程ではないにしろ、廉価版のアイテムボックスも非常に高価で、それを持てる者は限られている。
高ランク冒険者であればともかく、それ以外の冒険者がアイテムボックスを持つのは難しいし、場合によっては盗賊に……いや、もっと最悪だと他の冒険者に狙われるだろう。
実際、レイがこの世界に来てから余り時間が経っていない頃に受けたオークの集落を討伐する依頼の際、一緒に依頼を受けた冒険者の数人が、それこそレイを殺してでもいいからミスティリングを奪おうと企んだことがあった。
そのようなことがある以上、その辺の冒険者がアイテムボックスを持っているのは危険だ。
アイテムボックスがあれば非常に便利なのは間違いないので、見つからないように持ってる者はいるかもしれないが。
とにかくポーションの瓶が割れないようにする為には、アイテムボックスを持っていなければ取り扱いに注意する必要がある。
非常に面倒な行為だが、ポーションの有無が生死に直結するのが冒険者だ。
特に高級なポーションは、重傷すら瞬く間に癒やす効果を持つ。
……そのようなポーションは非常に高価で、それだけに取り扱いに注意をする必要もある。
そんなことを考えながら、レイは改めて執事が渡したポーションを見る。
人差し指程の大きさで、瓶に入っているそのポーションは取り扱いという意味では割ったりする心配はない。
完全に安心出来る訳ではないにしろ、普通のポーションと比べても割れる心配が少ないのは間違いない。
問題なのは、ケースに入っていることだろう。
ケースを開き、それでようやくポーションを使えるのだ。
普通の時ならともかく、戦闘中にとなるとその一手間が場合によっては致命的になってもおかしくはない。
それを考えた上でも、この小型のポーションは大きな意味を持っていた。
「特殊な製造方法だって話だったが、これからこのポーションが広がると考えてもいいのか?」
期待を込めて尋ねるレイだったが、執事は首を横に振る。
「恐らく無理でしょう。使用する素材や……何より高い技術のことを考えると、広まったとしてもほんの一部かと。勿論、将来的には分かりません。ですがもし一般的に使われるとしたら、かなり先のことになるかと」
執事の言う、かなり未来というのが具体的にどのくらい未来なのかはレイにも分からない。
十年、二十年なのか、百年、二百年なのか……もしくは、千年単位でのことなのか。
その辺りはレイにも分からなかったが、とにかくすぐにこの大きさのポーションが一般的になる訳でないのは理解した。
「そうか。この大きさのポーションが広まれば冒険者も便利に使えると思ったんだが。残念だ。……ちなみに、味の方は?」
ポーションは傷口に掛ければ即効性の効果があるが、飲めば一定時間だが持続的に身体全体に回復効果をもたらす。
しかし、大きな欠点として不味いというのがある。
それもちょっとやそっとの不味さではなく、味覚が壊れるのではないかと思える程の不味さ。
そんな不味さだけに、基本的にポーションを飲む者は少ない。
どうしても……本当にどうしてもそのようにしなければならないとなれば、それでようやくポーションを飲むという選択をするのが一般的だ。
執事が出したポーションは量が少なく、それでいてケースに入っているので壊れにくいという意味では画期的なポーションだ。
なら、味の方も改良されて美味い……とまではいかずとも、現状のポーションが持つ圧倒的な不味さはどうにか出来たのではないか。
そのように思っての問いだったのだが、レイの問いに執事はそっと視線を逸らす。
「……駄目なのか?」
「はい。申し訳ありません。このポーションを作った者達も何とかして飲みやすいポーションにしようとしたのですが……」
執事の様子から、安易に味の改良を諦めた訳ではなく、手を尽くした結果それでも駄目だったというのはレイにも分かった。
「こちらも、将来的には改良出来るかもしれませんが、それもいつになるのかは分かりません」
「だろうな。……ともあれ、このポーションはありがたく受け取っておく。冒険者をやっていれば、危険な目に遭うことは多いからな。そういう時、ポーションはあればあっただけ助かるし」
実際には、レイは本人の身体能力とドラゴンローブによる高い防御力によって戦闘による怪我をすることはあまりない。
今までの戦いにおいても多少の怪我はしたが、重傷を負ったことはない。
……寧ろ、巨人となった大いなる存在を倒す為に限界まで……いや、限界以上に魔力を使った結果、意識不明になったのが戦闘における最も大きな被害だろう。
だが、レイはそうでもレイと一緒に行動する者にレイと同じ戦闘力を期待するのは間違っている。
エレーナ達のように高い戦闘力を持っている者達ならまだしも、実力的に劣る者と組むこともある。
特に春になったらレイはミレアーナ王国の外にある迷宮都市に行き、そこで冒険者学校の教官を務めることになっている。
その際に怪我をした時の治療であったり、あるいは学生達と共にダンジョンに挑むということになってもおかしくはない。
そのような時に怪我をした場合、レイがポーションでそれを治療するということもあるだろう。
もっとも、そういう時は普通のポーションでも問題はないとレイは考えているのだが。
とにかくポーションはあって困る物ではない。
ミスティリングがなければ、ポーションがありすぎても困るものの、ミスティリングがあるレイの場合はそのような心配はいらない。
執事から受け取ったポーションをミスティリングに収納する。
「おお……」
その光景を見ていた執事が驚きの声を上げる。
不思議に思って見てみると、執事だけではなく若旦那や護衛もまたレイがミスティリングを使うのを見て驚いていた。
(そこまで驚くようなものか? こういうポーションを開発する規模の商会なら、簡易型のアイテムボックスくらい持っていてもおかしくはないだろうに)
簡易型のアイテムボックスは相応に高価だが、それでも手も足も出ない程に高価という訳ではない。
もっとも、数が少ないので金を出せばそれで買えるという訳でもないのが。
「いや、いい物を見させて貰いました。……実はうちの商会はアイテムボックスを……それも現在出回っている簡易型ではなく、レイ様が使っているような本当の意味でのアイテムボックスを探しているのですよ」
そう言いつつもレイに売って欲しいと言わないのは、ここでそれを言っても断られると思っているからだろう。
実際に頼まれてもレイは断ったので、その判断は間違っていない。
その後、ある程度会話をしてから、若旦那、護衛、執事の三人はレイの部屋を出るのだった。