3505話
「ここか。セト、ちょっと待っててくれ。……一応言っておくけど、何か危害を加えるような相手がいたら、セトの判断で攻撃してもいいぞ」
「グルゥ」
レイの言葉にセトが喉を鳴らす。
任せてと喉を鳴らすセトを一撫ですると、レイは目の前の宿……銀の竪琴亭に入っていく。
この銀の竪琴亭という宿が、警備兵に紹介された宿だった。
エグジニスの中でも屈指の高級宿で、それこそ大商会や貴族が定宿にする宿らしい。
以前レイがエグジニスに来た時の宿も同じように高級な宿だったが……今はこの宿の方がいいだろうと警備兵がこの銀の竪琴亭を薦めたのだ。
レイにしてみれば、別に断る理由もなかったので大人しくこの宿にしたのだが……当然ながら、正門からエグジニスの中に入り、この宿に到着するまで、多くの者に注目されることになった。
多くの者がレイに向けるのは、感謝や好奇心の視線だったが、警備兵から聞いた通り、中には恨みの視線や、殺意……とまではいかないまでも、悪意の視線もあった。
それでも今回エグジニスに来た時、特に何も起きなかった幸運はまだ続いていたらしく、銀の竪琴亭の前までは特に何らかのトラブルに巻き込まれるようなこともなく……それがレイの不安を掻き立てるようなことになったのだが、それはレイの性格上仕方がないことだろう。
ともあれ、セトを入り口の側に置いて、レイは宿の中に入る。
すると大商会や貴族が定宿にする宿というだけあって、宿の中はかなり広めでリラックス出来る空間となっていた。
「いらっしゃいませ」
レイの姿に気が付いたのか、宿の従業員が近付いてくる。
その表情は穏やかだが、レイを見る目には一瞬だけだが鋭い色があった。
レイはそんな男の姿に気が付いたものの、レイはそれに対して特に何も言わない。
今の自分の姿はドラゴンローブを着ており、その隠蔽の効果によって普通のローブにしか見えないのだからそれは仕方がないだろうと思う。
また、フードを被っているので、レイの顔を確認出来ないというのも、従業員がレイを怪しんだ理由だろう。
「取りあえず一泊、もしかしたら数日泊まるかもしれないが、部屋は空いてるか?」
その言葉に、従業員の表情は一瞬にして変わる。
レイがこのような宿を使うのに慣れていると判断したのだろう。
「はい、それは問題ありません。ですが、その……お客様は冒険者でしょうか?」
「ああ」
そう言い、レイはギルドカードを取り出す。
従業員はレイがどこからギルドカードを取り出したのか分からなかった様子だったが、今はそれよりもギルドカードを確認する方が先だと判断したのだろう。
レイに渡されたギルドカードを見て……
「な……こ、これは……」
そのギルドカードに書かれている名前を見て、動きが止まる。
それでも数秒で我に返った辺り、高級宿で働いている従業員だけのことはあるのだろう。
「その……失礼ですが、レイ様でしょうか?」
「ああ」
恐る恐るといった様子で尋ねてくる従業員に頷き、レイはフードを少し脱ぎ、相手に顔が見えるようにする。
街中を歩いている時はセトが隣にいる時点で、顔を隠していてもレイをレイだと認識するのは簡単なことだった。
セトというのは、それくらいの圧倒的な説得力を持つのだから。
しかし、今はセトを宿の前で待機させており、レイだけだ。
そうなるとドラゴンローブの効果もあり、フードで顔を隠していることもあってレイをレイだと認識するのは難しい。
「失礼いたしました。ようこそ当宿においで下さいました。レイ様のご来店を心より歓迎いたします」
恭しい様子で、レイにギルドカードを返して一礼する従業員。
ギルドカードを受け取り、従業員に向かって口を開こうとしたレイだったが……
「おいおいおい、一体何でこの宿にこんな貧乏そうな奴がいるんだ? この宿はいつからこんな奴が来られるような場所になったのやら」
レイが何かを言うよりも前に、そんな声が周囲に響く。
その声が聞こえた瞬間、レイの相手をしていた従業員の顔は引き攣る。
この宿に相応しい従業員としての教育を受けているにも関わらず……そしてレイの前にいるにも関わらず顔を引き攣らせるようなことをしたのは、今の言葉が明らかにレイに向けられたものだったからだろう。
そんな従業員の表情を、レイは冷静に見る。
セトがいない状況で、それも自分の象徴でもあるデスサイズを持っている訳でもない以上、自分がどのように見られるのかは今までの経験から理解していたからというのが大きい。
「申し訳ありません、レイ様。少々失礼します」
そう言う従業員にレイは頷く。
それを見ると、従業員はすぐに声を発した者……恐らくは貴族か商会の若旦那といった様子の男のいる場所に向かう。
従業員にしてみれば、レイをレイと認識した時点でエグジニスにとって非常に大きな恩のある人物という認識だ。
もしレイがいなければ、ネクロゴーレムの一件でエグジニスが受けた被害はとんでもないことになっていたのだから。
その上、従業員も最初はドラゴンローブの隠蔽の効果によりレイをこの宿に相応しくない客として認識してしまっていた。
それだけに、これ以上レイを不愉快にさせる訳にはいかないと、そのように思っての行動だろう。
「何だ? どうした?」
レイを蔑む声を掛けた男は、宿の従業員が真剣な表情を浮かべて自分の方に来るのを見て、戸惑った様子を見せる。
男にしてみれば、自分の言葉を聞いたレイは恥ずかしくなり、この宿から出ていく。
そしてこの宿の客に相応しくない相手を追い払ったということで、自分は宿の従業員に感謝される。
そうなると予想していたのだろう。
だが、実際には違った。
宿の従業員が自分に近付いてくるのは予想通りだが、その表情に感謝の色は一切ない。
それどころか、無表情な様子で……それどころか、どこか咎めるように自分を見ているのだ。
一体何故自分が感謝をされることもなく、そのような視線を向けられないといけないのか分からず、男は困惑する。
しかし、数秒の時間によってその困惑は苛立ちに変わる。
男にしてみれば、宿の為に自分がレイを追い出すようなことを口にしてやったのに、その件で感謝する様子もなく近付いてくるのだから。
もっとも、本人は気が付いていない……もしくは気が付いていない振りをしていたが、自分に近付いてくる従業員の表情が笑みを浮かべるでもなく、無表情なのに恐怖をしていたという一面もある。
男にしてみれば、自分はこの宿の上客だ。
そうである以上、この宿の従業員が自分を何か責めるようなことをするとは思っていなかったのだろう。
……勿論、上客であってもやりすぎれば宿としても対処出来ず、出ていって貰うか……最悪、警備兵に引き渡すといったこともあるが、幸いなことに男はそれなりに問題を起こすものの、そこまで大きな問題ではなかった。
「お客様」
従業員が男の前に到着すると、そう声を掛けてくる。
「な……何だ? どうした!? 何か文句でもあるのか!?」
虚勢を張るように叫ぶ男。
しかし、従業員はそんな男の態度を気にせず、口を開く。
「あちらのお客様は、深紅のレイ様です」
「……は?」
男は従業員が一体何を言ってるのか分からない様子でそう返す。
一体何を言われるのかと思えば、いきなりあの男が深紅のレイだと、そう言ったのだ。
最初その言葉の意味を理解出来なかった男だったが、次第に従業員の言葉の意味を理解し……
「う、嘘だ!」
半ば反射的にそう叫ぶ。
男もエグジニスにいる以上、レイについての話は知っている。
それでもそう叫んだのは、とてもではないがレイがエグジニスで暴れたネクロゴーレムを倒したような人物には見えなかったからだろう。
ドラゴンローブの隠蔽の効果もあり、セトもおらず、デスサイズも出していない。
そんな今のレイは、それこそ魔法使いになったばかりの初心者といった感じだ。
魔法使いという時点でそれなりに重要な人材ではあるのだが、この宿に泊まるような者達にしてみれば、魔法使いというのはそう珍しいものではない。
だからこそ、男はレイを見ても魔法使いだということで特に驚いたりしなかったのだが……
「いやいや、若旦那。あれは不味い。レイかどうかはともかくとして、俺より強いのは間違いない相手だ。そんな相手を怒らせたら……さすがに俺も若旦那を守り切れるとは言い切れないぜ?」
男と従業員の会話に、不意にそんな声が割り込む。
その言葉に二人はそれぞれ驚きの表情を浮かべるものの、そこまで露骨に大きな驚きはない。
従業員にしてみれば、普段から大きな感情を表に出さないように注意しているから。
そして男は……
「護衛のお前が勝てないなどと、あっさりと言うのは仕事を無視してるぞ」
自分の護衛だった為に、そこまで驚かなかったのだ。
新たに現れた護衛の男は、宿の入り口近くにいるレイを一目見る。
それだけで、レイを相手に自分がどうやっても勝てないと理解してしまった。
レイの実力を見抜くという意味で、護衛の男も相当な実力者なのは間違いないだろう。
「……なら、あれは本当に深紅のレイだというのか?」
「深紅のレイ? このエグジニスでネクロゴーレムと戦った? ……っていうか、嘘か本当か、ベスティア帝国との戦争でベスティア帝国軍の大半を焼き殺したとかいう?」
嘘か本当かという表現をしているように、護衛も噂の全てを信じてる訳ではないのだろう。
噂というのは、広がるにつれて大きくなっていく。
あるいは吟遊詩人が客を集める為に大袈裟に語ったりする。
そういう意味では、噂の全てを信じるというのは愚者のする事だ。
とはいえ、そのような噂がある以上は、何らかの事実があるのも間違いない。
噂の全てを否定する必要はなかった。
それに何より、男はレイを見ただけでその強さを理解することが出来たのだ。
「若旦那、もしかしてレイに喧嘩を売ったとか、そういうことはないよな? もしその場合、俺じゃあ、とてもじゃないが守り切れないぜ?」
護衛の言葉に、男の顔は次第に青くなっていく。
男も護衛の強さは十分に理解している。
以前、エグジニスではなく別の街を移動中に盗賊に襲撃された時、護衛の男が一人で二十人程の盗賊全員を皆殺しにしたこともあった。
それだけの実力を持つ護衛を雇っているのは、男にとって自慢でもあったのだが……その護衛であっても、勝てない相手がいると言われたのだから、それで深刻になるなという方が無理だろう。
そして男の様子を見た護衛は、自分の嫌な予想が当たっていたことを理解する。
「はぁ……これも護衛の仕事か。若旦那、俺が話をつけてくるから、余計なことはしないでくれよ」
「え? おい、ちょ……」
「分かったな?」
自分の行動を勝手に決められたことに不満そうな様子を見せた男だったが、護衛の男が確認するように……いや、より正確には半ば脅迫するよう再度言うと、その迫力に気圧されて頷くことしか出来ない。
「あんたも。若旦那の件については俺が話をしてくるから、許してやって欲しい」
「……分かりました」
男に続き、従業員も護衛の言葉に頷く。
こちらは護衛に気圧されたといった訳ではなく、単純にこれ以上騒動が大きくなるよりはマシだと考えての行動だった。
レイは自分に近付いてくる男をじっと見ていた。
何だかレイが知らないうちに色々とあったような気がするが、レイとしては出来ればとっとと部屋を借りて、注文していたゴーレムを受け取りに、ついでにエグジニスが以前と比べてどう変わったのか見て回りたいと思っているのだが。
「レイ……だよな? うちの若旦那があんたに絡んでしまったみたいで悪かったな」
「あのくらいなら別に構わない」
もっとしつこく絡んでくれば、レイも相応の態度を取っただろう。
だが、実際には最初に嫌味を言われたくらいだ。
そしてすぐに従業員が男を止めに向かったので、レイもそこまで気にしていない。
最初は若干思うところがあったものの、時間が経つにつれてその辺はどうでもよくなってしまったのだ。
先程顔が真っ青になったのを見れば、もう自分から何かをするつもりはない。
(あるいは、その辺を理解した上で、そういうことをしたのかもしれないけどな)
レイは自分の前にいる三十代程の男のどこか気の抜けた表情を見ながら、そう思う。
とはいえ、気の抜けた表情をしてはいるものの、男がそれなりの強さを持っているのは見れば分かったが。
「それより、俺としては早いところ部屋を取りたいんだが。それと表にセトもいるから、厩舎の案内もして欲しい」
そう言うレイに、従業員は急いで行動するのだった。