0350話
窓から日光が降り注ぐ中、レイはベッドで目を覚まして上半身を起こす。
「んー? ん? んん?」
そのまま不思議そうに数回程周囲を見回し、3畳程の角部屋の大半がベッドで埋まっている部屋では無いことに訝しそうに眉を顰め、ようやく自分のいる場所がエモシオンの街で泊まっていた碧海の珊瑚亭で無いことに気が付く。
「そうか、そう言えばギルムの街に戻って来たんだったな」
呟き、伸びをして既に懐かしいとすら思えるようになった夕暮れの小麦亭の部屋を見回す。
とは言っても、周囲にはこれといった私物がある訳では無い。普通長期間宿に滞在すればどうしても私物の類が増えるものだが、レイの場合は私物の殆どがミスティリングの中に入っている為に、部屋の中には本当に必要最小限の物しか置いていなかった。
身支度をして、スレイプニルの靴を履き、ドラゴンローブを纏って準備は完了。
「さて、朝食を食べてからギルドだな」
呟き、1階の食堂で朝食を食べるべく部屋を出て行くのだった。
「……ちょっと早すぎたか?」
ギルドの中に入ったレイは、ギルドの中にいる冒険者達を見ながら呟く。
宿での朝食を食べ終えたレイは、いつものようにセトと共にギルドへと向かい、その途中でこれもいつものように屋台で色々と買い食いをしながら目的地であるギルドへと到着した。
だが、暫くぶりにやってきた朝のギルドはレイが予想していたよりも人の数が多かったのだ。
(いや、そうでもないか? 暫くぶりにギルムの街に戻って来たからそう感じてるだけだったりするのか?)
内心で首を傾げるレイだったが、今は受付でレノラやケニーを含む受付嬢達も忙しく冒険者達を捌いている。それを見る限りでは、もう少し時間を置いてから声を掛けた方がいいだろうと判断し、取りあえずやるべきことも無いので依頼ボードに貼り出されている依頼書を眺めていく。
(討伐、護衛、採取。ま、この辺はありふれているな。他には……ん?)
その時、ランクDの依頼ボードに貼り出されている依頼書を見て、小さく目を見開く。
そこにあった依頼書は警備兵の訓練相手。
(訓練相手って……何でまた? それこそ、警備兵達だけで十分じゃないのか?)
首を傾げながら依頼書を良く見ると、冒険者に希望するのは盗賊役ということになっている。
ようは、街を襲ってきた盗賊と警備兵の戦いという図を想定しているのだろう。
「……なるほど、ちょっと面白そうだな」
「いや、止めて下さいよ。レイ君みたいな規格外がその依頼に参加したら警備兵の負けが決まってしまうじゃないですか」
そんな声が背後から聞こえ、そちらへと振り向くとそこには厳つい顔をした男の姿が。
「警備隊の隊長が、何だってここに?」
「色々とその依頼についての打ち合わせがありまして。ええ、警備隊側としてもまさかレイ君のような方が依頼を受けるとは思っていなかったのですが……」
「いや、別に依頼を受けるつもりは無いぞ。今は単純に時間を潰しているだけだ。ほら、向こうは色々と忙しそうだしな」
ランガへと答えながら、カウンターの方へと視線を向けるレイ。
そこにはまだそれなりの冒険者達が並んでおり、レノラやケニーはそれらの対応で忙しそうにしているのが見える。
「昨日帰ってきた件ですか? それに関しては随分と遅いですね」
「いや、昨日も来たけどギルドマスターがいなくてな」
「へぇ。……そう言えば、レイ君を目当てに随分と色々な方達がギルムの街に来てるんですが、会われましたか?」
その言葉に、脳裏を昨日友人になったマルカとコアンの姿が過ぎる。
だがレイが会ったのはその2人だけであり、それ以外に接触してきた者はいない。
正確に言えば、前日のクエント公爵家令嬢でもあるマルカとレイが会ったというのが、ある種の抑止力になっていた。あのクエント公爵からの誘いを断るのに、自分達ではとても……という感じに。
勿論それだけで諦める者ばかりでは無いが、折角レイがギルムの街に戻って来たのだから、今は少しでも情報を集め、有利な交渉を行おうと考えている者が多くなっているのは事実だった。
幸か不幸か、それを知らないレイは視線を感じつつも接触してこない相手は恐らくクエント公爵家に遠慮しているのだろうと判断していたが。
「いや、会ってないな。まあ、向こうにも色々と考えがあるんだろ。それよりも、俺がいない間に街で何か面白い出来事はあったか?」
「面白いというか……そうですね、細かい騒動は色々とあったけど、これといったものはそれ程ありませんでしたよ」
もちろんレイを部下として迎えたい者達の中でも後ろめたい手段を使おうという者達や、あるいは意図的にレイと敵対して譲歩を引きだそうとするような者達に関しての騒動はあったが、それはあくまでも暗闘というべき結果であり、ランガにしても隊長という職務上知ってはいたがわざわざそれを口に出すような真似はしなかった。
警備隊の隊長である以前にランガはギルムの街の住民であり、それだけにこの辺境の地でレイのような強者がどのような意味をもつ人物なのかをきちんと理解していたからだ。
「それよりも……そろそろ、いいのでは?」
チラリ、とカウンターの方を見ながら呟くランガに、レイもまた視線をそちらに向ける。
確かにカウンターにまだ数人の冒険者の姿はあってケニーも冒険者の相手をしているが、幸いレノラの場所には誰もいない。
この辺、受付嬢の人気をそのまま現しているのだろう。勿論レノラの人気も高いが、それでもやはり多少固い性格なので苦手な者もおり、それに対してケニーは軽い性格である故に……否、そのように見られている為に冒険者からの人気はレノラより上なのだ。
「そうだな、なら俺はこの辺で失礼させて貰うよ。そっちも警備隊の方、頑張ってくれ」
小さく手を振り、ランガと別れてカウンターへと向かうレイ。
向かう先は、当然今は誰の相手もしていないレノラの場所だ。
ただ、そうは言ってもレノラにしても暇な訳では無い。依頼の受理をした書類の整理や確認といった仕事が残っているのだから。
それでもレノラに声を掛けたのは、やはりカウンターにいる受付嬢の中でレイが親しいのはレノラとケニーの2人しかいないからだろう。
「レノラ、ギルドマスターとの面会は出来るか?」
「あ、レイさん。はい、昨日お話は通してありますので大丈夫です。幸い今ならギルドマスターは執務室にいますし、レイさんが来たら無条件で通すように言われてますから。どうぞ」
レノラに案内され、カウンターの内部へと入っていくレイ。
そんなレノラを恨めしそうに見つめているケニーの前では、20代程の男の冒険者が何とかケニーを食事に誘おうと頑張っていたのだが……最近ギルムの街に来たばかりのこの男は、ケニーがレイに好意を持っているとは知らず、ある意味では無駄な努力をしているのだった。
(全く、口説くとかいいからさっさと依頼に行きなさいよね。あんたがいるせいでレイ君との触れ合える時間が無かったじゃない……)
内心でそう思いつつも、受付嬢としてそれを口に出すことも出来ずに男の誘いを受け流し続ける。
あるいははっきりと断れば良かったのかもしれないが、男は力尽くで強引に誘ってくるでもなく、あくまでも紳士的に誘ってきている以上はそのような真似も出来ず、横を通り過ぎていくレノラへと羨望の念を募らせるのだった。
「ギルドマスター、レイさんをお連れしました」
ケニーの嫉妬に近い視線を受けつつも、日頃の身体ネタに余程に恨みがあったのか意図的に無視してカウンターの奥から2階に上がり、ギルドマスターでもあるマリーナの執務室をノックする。
「開いてるわ、入りなさい」
中からの返事に扉を開け、レイと共に中へと入るレノラ。
部屋の中では、マリーナが執務机に向かって何らかの書類を書いており、一瞬だけレノラとレイの2人を見ると、またすぐに書類へと視線を向けながら口を開く。
「悪いけど、この書類を片付け終わるまでもう少し待って頂戴。レノラ、そこの道具でレイにお茶を」
「はい」
マリーナの言葉に従いレイはソファへと腰を下ろし、レノラはテーブルの近くに置かれていた道具を使ってお茶を淹れる。
お湯の入っているポッドはマジックアイテムの一種であり、お茶を淹れるのに最適な温度を保つという効果を持っていた。一般的とまではいかないが、少し裕福な家なら購入が可能な程度の値段でもある。何よりも大きいのは、お湯を保温するという程度の性能の為にゴブリン程度の魔石で数ヶ月程も使用可能だということだろう。もっとも、その魔石の効果が切れるとまた新しく魔石を入れ直さなければならないのだが。
「どうぞ、レイさん」
そっと出されたカップに入ったお茶を1口飲み、その美味さに小さく驚きの表情を浮かべる。
「この茶葉は基本的には王都でしか流通していない物ですから」
小さく笑みを浮かべてそう告げ、マリーナの分もお茶を淹れるとそのまま一礼して執務室を出ていく。
その後ろ姿を見送り、ゆっくりとお茶を口へと運ぶレイ。
部屋の中には、マリーナが書類を書いている音のみが響き……やがて5分程してようやく終わりを告げた。
「少し待たせてしまったかしら。……さて、こうして来て貰って悪いんだけど、大体のところはエモシオンの街のギルドから連絡が来てるのよね。けど、一応レイの口から直接報告も聞きたかったし……レイもそのつもりで来たんでしょ?」
いつものように胸元と背中が派手に開かれており、艶やかな褐色の肌を見せつけるかのようなイブニングドレスのままレイの向かいのソファへと座り、そう告げてくる。
その際に足を組むというのは、傍から見るとレイを誘っているようにしか見えないような光景だった。
そんなマリーナの様子に目を奪われそうになるレイだったが、すぐに目を逸らしながら口を開く。
「ああ。レムレースに関しては無事に倒したと報告にな。マリーナの言う通りバカンスという意味では丁度良かった。レムレースはともかく、海産物を大量に購入出来たし、料理に関しても満足出来る物が食べられたし」
「あら、聞いたわよ? お好み焼きとかいう料理を向こうで広めたんですって? うどんと言い、お好み焼きと言い、レイは冒険者なのか料理人なのか分からなくなるわね」
笑みを浮かべるマリーナに、レイもまた笑みを浮かべる。ただし、その笑みは苦笑であったが。
「偶然知っていたからな。もっとも、俺が知っているのはあくまでも本で読んだ知識だけであって、実際に色々作るとなると材料が足りなかったりしたし」
「まあ、それはしょうがないわよ。……さて、それはともかく本題に入らせて貰うわ。レムレースを倒すのにマジックアイテムを使って海底から地上まで強制的に転移させたそうね?」
深い、まるで心の底まで見抜くかのような視線で覗き込んでくるマリーナに、思わず息を呑むレイ。
だが、それでもさすがにリッチのグリムに手を貸して貰ったと言える筈も無く、動揺を顔に出さないように注意しながら小さく頷く。
「ああ、その通りだ」
「へぇ。……そんな強力なマジックアイテムの話、長年冒険者をやってきたり、このギルムの街でギルドマスターをやっていても聞いたことが無いんだけど」
「……ダンジョンで入手したマジックアイテムだからな。それを考えればマリーナが知らなくても無理は無いだろ」
「ダンジョン、ねぇ。レイがダンジョンに行ったっていうのは、姫将軍の護衛として出向いた時だけだと思うけど。その時に手に入れたのかしら?」
「ああ、そうだな。あの時に入手したのは間違い無い」
少なくても、グリムと連絡を取る為のマジックアイテムに関してはエレーナと共にダンジョンに潜った時に入手した物であるのは間違い無いので、レイの言葉は完全な嘘では無かった。
だが、それは同時に正確な言葉でも無い訳で……
「嘘ね」
長年冒険者やギルドマスターとして過ごして来たマリーナを騙せる筈も無かった。
その言葉と共に、じっとレイへと視線を向けるマリーナ。
レイにしても、真実を口に出来る筈も無く黙ってその視線を受け止める。
そのままお互いが沈黙を保ち数分。執務室の中に重苦しい雰囲気が漂い始めた時……
「ま、いいわ。冒険者にとって秘密の1つや2つは当然あるものだし。……けど、いい? それがこのギルムの街やミレアーナ王国に被害を与えるようになったら……私はレイの前に立ち塞がることになる」
そう告げながらも、もしそんなことになったとしたら自分に勝ち目が無いというのは理解していた。
だが、それでも……ギルドマスターという地位にある以上は己の職務を果たすのに躊躇することは出来無かったのだ。
「ああ」
レイにしてもそれは理解したのだろう。マリーナの、ちょっと前までは蠱惑的に輝いていた瞳がまっすぐに自分を見つめてくるその視線を受け止めながら小さく頷く。
「そ。それならいいわ。ま、レイがこの街に対して不利益になるようなことをそうそうするとは思えないけどね」
数秒前の真剣な表情はどこにいったのか、マリーナは再び艶っぽい雰囲気を発して足を組み替える。
褐色で肉付きの良い魅惑的な太股が半ば程まで晒され、レイの視線を吸い寄せようとするが、それでも下着が見えないようになっているのは長年の経験のおかげなのだろう。
薄らと頬を赤くしているレイに笑みを浮かべ、口を開く。
「で、レイ。ランクBへのランクアップ試験についてなんだけど……」
マリーナとレイにとっての本題を告げるのだった。