0348話
マルカ・クエント公爵令嬢。今よりも更に幼い頃よりその才を発揮しており、魔法に関して類い希な素質を持つ。
現在のミレアーナ王国を象徴する武人が姫将軍エレーナ・ケレベルであるとすれば、マルカ・クエントは次代の魔法の象徴とも呼ばれている存在だった。
まだ7歳という若さ……否、幼さでありながらも風と土と光という3属性の魔法を好んで使い、その身に宿す魔力はミレアーナ王国でも屈指のもの。それでいて奢らず、見下さず、天真爛漫な性格をしており、クエント公爵領に住んでいる者達からの人気は非常に高い。
エメラルドを思わせるような緑色の長髪と幼いながらも整った顔立ちは、将来絶世の美女と呼ばれるのは間違い無いと領民の間では噂されていた。
ミレアーナ王国の貴族には平民を見下す者も多くいるが、マルカはそのようなことは許さずに、公爵領の領民に難癖を付けようとした子爵の跡継ぎに対してその魔法の力を使って叩きのめしたこともある。
当然、子爵如きが公爵領の領民に対して難癖を付け、更にはあろうことか公爵令嬢に対して斬り付けようとしたというその行為がただで済む筈も無く、後にその子爵家は取り潰されることになったのだが……
目の前でセトを撫でながら、自分へとその深い瞳を向けている少女がそんな人物であるとは全く知らないレイだったが、それでもただの少女でないというのは明らかであり、適当な対応を取れる訳も無かった。
それ故に、レイは目の前にいるのがただの少女だとは思わず、被っていたドラゴンローブのフードを下ろして口を開く。
「悪いが、現在のところ俺は誰の下に付く気も無い」
そう告げた後で、もう少し丁寧な口調で喋った方が良かったのか? と思ったレイだったが、すぐにコアンが大丈夫だと小さく頷いたのを見て安堵の息を吐く。
「ほう、何故じゃ? お主は冒険者なのだろう? ならば貴族に仕えるのはそれ程悪くないとは思うがの。妾はお主の行動を縛りはせんし、お主が望む物も可能な限り用意しよう。それでも答えは変わらぬか?」
「ああ。一時的に雇われるだけならまだしも、人に……それも、貴族に仕えるというのは俺の性には合わない。例えそれがどれ程に自由が約束されていようと……な」
「それが結果的にミレアーナ王国の中でも大きな勢力を有しているクエント公爵家を敵に回すとしてもかの?」
「そうだ」
一瞬の躊躇いも無く、自らの自由の為なら公爵家であろうと敵に回すことも厭わないと頷いたレイに、マルカは一瞬だけ呆気に取られたように口を開けてレイへと視線を向ける。
その表情は、つい数秒程前の年齢に見合わぬ深さを感じさせるものではなく、寧ろ年齢相応の幼さを強く印象づけるものだった。
そんなレイの隣では、コアンが小さく苦笑を浮かべてレイへと視線を向けている。
ただし、その視線にしても無礼を咎めるものではなく、どちらかと言えば仲間に向けるような親しみの混ざった苦笑。
「く……あ、あはははは! あはははははははは!」
沈黙を破り、突然笑い声を上げるマルカ。つい一瞬前まで撫でられていたセトは円らな瞳をマルカへと向け、レイもまた幾度となく外された予想に小さく苦笑を浮かべながら大笑いをしているマルカへと視線を向けていた。
そのまま、やがて1分程も経ちようやく笑いの発作が収まったマルカは、笑いすぎて痛くなった脇腹を押さえつつ、息を整える。
「はぁ、はぁ、はぁ……ああ、笑わせて貰った。いや、気を悪くしないで貰いたい。別にお主を馬鹿にした訳ではないのじゃ。ただ、妾の実家でもあるクエント公爵家を敵に回しても構わないと、こうもあっさりと言い切る者がいるとは思わなかったのでな。いや、さすがに異名を持つだけのことはある。見事じゃ!」
笑みを浮かべつつ誉め上げてくるその様子に、レイもまた何を言えばいいのか言葉に詰まる。
レイの知っている貴族というのはそれ程多くはないが、それでもある程度の貴族像というものがあったのだが、それとは丸きり違う貴族という存在が目の前にいる少女だった。
敢えて似ている人物を上げるとするなら、エレーナといったところだろうか。勿論外見に関しては全く違うが、その根底にあるものがどことなく似ているようにレイには感じられる。
「お嬢様、そのくらいで。レイさんも困ってますし」
「ん? うむ、そうじゃな。突然に済まなかったな、許せ!」
「あー……ああ。別に俺としては問題無いが」
「うむ、では許せついでにもう1つ。妾に仕えよとはこれ以上は言わぬ。ならば友誼を結んではくれぬか?」
そう告げ、堂々と手を伸ばしてくるマルカ。
少女であるだけにその背は体躯は小さいのだが、それでも堂々とレイに向かって手を伸ばしているその様子は、間違い無く貴族のそれだった。
その手を差し出されたレイも一瞬だけ迷うが、すぐに手を伸ばす。
「ああ、色々と世間知らずなところも多いから迷惑を掛けるかもしれないが、よろしく頼む」
7歳の少女に掛けるべき言葉ではないかもしれない。だが、それでもレイは目の前にいる少女を1人の存在として認め、友誼を請われている以上は振り払うつもりは無かった。
「うむ、うむ。妾は色々と普通の者達と違うところがあるらしくてな。友達と呼べる存在は殆どおらん。それこそ、親しく付き合ってるのは数人程度じゃし、気を許せる相手ともなるともっと少なくなる。コアンなんかがいい例じゃな」
「お嬢様と渡り合える人は少ないですからね。精神年齢が高いというのはともかく、高すぎるというのは色々な意味で弊害を招くこともありますから」
マルカの言葉にコアンが小さく笑いながらそう告げるが、そこに浮かんでいるのは、どちらかと言えば寂しげな色だった。
「まあ、気にするでない。妾としても付き合える者が少ないのは残念じゃが、それでもこうして良い出会いもあるからな。のう、そうは思わんか?」
だが、マルカはコアンの言葉に特に何を感じた様子も無く、セトの頭を撫で続ける。
「グルルゥ」
セトも、その撫でられる感触に気持ちよさそうに喉を鳴らす。
そんな状態で1分程静かな時間が過ぎていたが、不意にマルカが何かを思いついたかのようにレイへと視線を向ける。
「のう、レイ。お主は強いと評判だが、ちとコアンと試合ってみぬか?」
「……マルカ様?」
突然の言葉に、思わず尋ね返すコアン。
小さいながらも聡明な自分の主君が、何故唐突にそんなことを言い出したのかが分からなかったからだ。まさかマルカに限って自分に仕えないと言われた意趣返しでもあるまいに、と。
そして驚きに関してはレイもまた同様だった。敵対する必要も無ければ、お互いの腕を確かめ合う必要も無い。それなのに、何故いきなり戦う必要があるのか、と。
だが、マルカはそんな2人の当惑を前にしながらも、さっさと庭の方へと歩いて行く。
「グルゥ?」
「あー、そうだな。ついていってやれ」
「グルルルゥ」
レイの言葉に、セトが喉の奥で短く鳴きながら外へと向かう。
その様子を見ていたレイだったが、隣にいたコアンが小さく頭を下げてくる。
「すいません、お嬢様が……いつもはああいうことを言うような方じゃないんですが」
「ま、公爵令嬢ともなれば色々とあるんだろうさ。で、どうする?」
やるのか? とのレイの言葉に、コアンは人の良さそうな笑顔を浮かべつつ、それでも決して否定しないで頷く。
「お嬢様がああ言った以上、後には退きませんし……それに、私としてもレイさんとの手合わせは望むところですから。よろしければお願いします」
レイにしても、目の前にいる人物の腕が立つというのはその体捌きや、雰囲気、あるいは直感で理解している。それだけに実際に戦うとなれば色々と手札を晒さなければならないのは事実であり、あまり気は進まなかった。
だが、それは逆の意味で目の前にいる男と戦ってみたいという気持ちがあるのも事実であり、前者と後者の気持ちが心の中で戦い、結局は後者が勝利を収める。
「……分かった」
そんなレイの言葉に、変わらぬ笑みを浮かべて扉へと手を掛けるコアン。
「ありがとうございます。では、行きましょうか。ご案内します」
貴族街の中でも一等地に建っているクエント公爵家の屋敷。その庭で、レイはコアンと向かい合っていた。
少し離れた場所ではマルカが芝生に寝転がっているセトへと抱き付いているが、夏の暑さと眩しい程の日差しの中では幾らセトの毛が滑らかな感触だと言っても体温そのものが暑いのだろう。小さく呪文を唱え、周囲の気温を下げてからセトへと寄り掛かっていた。
(へぇ、随分と達者に魔法を使うな)
そんな様子を見ていたレイは、マルカの魔法の腕に感心したように頷きながらコアンと距離を取る。
既に手にはミスティリングから取りだしたデスサイズが握られており、そんなレイと5m程の距離を取って向かい合っているコアンもまた腰の鞘から剣を抜いて構えていた。
「一応言っておくが、これはあくまでも試合じゃ。相手に対して致命的な怪我を負わせるような真似はなるべく避けるようにの」
「そうは言っても、大抵の傷はお嬢様の治癒魔法でどうにか出来ると思うんですけどね」
「戯け。最初から妾の魔法を当てにするでないわ。……もっとも、お主等2人程の強さを持つ者達じゃ。素人がするようなミスをするとは思っておらんよ」
「へぇ、回復魔法も使えるのか」
「ええ。お嬢様の回復魔法があれば、腕の2本や3本切断されても問題ありませんよ」
「腕が3本もあったら凄いな」
お互いに軽く言い合いながらも隙を窺う。
レイはデスサイズの位置を微妙に変えながら、それに対するコアンは大鎌という珍しい武器に対してどこから攻撃が来ても反応が出来るように。
(こうして向かい合っても、笑顔のままで欠片程も表情を変えないとはな。寧ろ、笑顔で全ての表情を消しているような印象すら受ける)
内心で呟きつつ、デスサイズの刃を下へと向けて掬い上げるような1撃を放てるようにする。
するとコアンは、即座に上段で構えていた剣を中段へと変化させていた。
レイと戦う者は、まず最初にその大鎌でもあるデスサイズに戸惑うことになる。大鎌というのは非常に珍しい武器であり、それだけにすぐに対処出来る者も少なく、ある意味では初見殺しとも言える武器なのだ。更には、デスサイズを持ったレイと戦って生き残る者もそれ程多くはない為に、余計にその傾向は強くなっている。
だが、コアンはそんなデスサイズを相手にしながら笑みを崩すことなく剣を構える。
そんな相手に不気味なものを感じつつも、お互いが細かい挙動で小さなフェイントの応酬を繰り返す。
傍から見ると、殆ど意味の分からないやり取りが数分程続き、やがて飽きてきたのだろう。セトへと寄り掛かったままのマルカが口を開く。
「お主等、それではいつまで経っても終わらぬぞ。もう少し見応えのある戦いをしてくれ。ああ、そうそう。言い忘れておったが、コアンは元ランクA冒険者じゃ。お主の攻撃で死ぬようなことはまず無いから、安心して攻撃してもよいぞ。何、死ななければ妾の魔法で回復してやる」
先程の、自分の回復魔法に頼るなという発言とは正反対の言動だった。
だが、その言葉が戦いを動かすことになったのは間違い無い。
「手足の1本や2本が斬り落とされても問題無いんだったな。なら……行くぞっ!」
短い叫びと共に地を蹴ったレイが、デスサイズで掬い上げるようにしてその巨大な刃で下から斬り上げる。
「そう簡単にはさせませんよ!」
コアンもまた、地面に接触する程の低い位置から襲い掛かって来るという、普通に戦っている時にはまずあり得ない斬撃に即座に対応する。
手に持っていた剣を一閃し、デスサイズの刃を弾く。
だが、それだけで終わらないのはさすがに元ランクA冒険者といったところだろう。デスサイズの刃を弾いた衝撃を利用して、そのままレイへと向けて斬撃を繰り出したのだ。
普通であれば相手の一撃の衝撃を利用して攻撃を放ったとしても、威力は低く容易に防がれる程度のものだろう。だが、その一撃を放ったのが既に人の枠を越えた戦闘力を持っている元ランクA冒険者なのだ。それ故に常識は通じなく、向けられた刃はレイの顔面に……
「おおおぉぉっ!」
自らへと向かって来る長剣の一撃を目にした瞬間、殆ど反射的にデスサイズを握っていた手を捻り、強引に柄の部分で長剣を迎え撃つ。
キィン、という甲高い金属音が庭へと鳴り響き、お互いの一撃を防いだ2人は後方へと軽く跳躍して距離を取る。
「さすがだな。デスサイズには魔力を通して強化してるんだから、普通の長剣なら刃を合わせた時点で刀身が切断されるものなんだが」
「いえいえ、何しろこう見えてもこの剣は魔導都市オゾスの錬金術師が金と技術、素材の粋を凝らして作り出された物ですしね。それを考えれば、そう簡単に破壊されては困ります」
相も変わらず口元には笑みを浮かべつつそう告げてくるコアン。
レイもまた、そんな相手の様子に獰猛な笑みを浮かべるが……
次の瞬間、2人揃って構えていた武器を下ろすことになる。
「む? どうしたのじゃ?」
目を輝かせて2人のやり取りを見守っていたマルカが訝しげな表情で2人へと声を掛けるが、それに答えたのはコアンだった。
「申し訳ありません、お嬢様。このままレイさんと戦いを続ければ、恐らくどちらかが死ぬか生きるかの戦いになってしまいます。決闘ならともかく、ただの腕試しの試合でそこまでやるのはどうかと思いましたので、この辺でやめておいた方がいいかと」
「……むぅ、そうか。コアンが言うのならそうなのじゃろう。しょうがない、レイの腕をしっかりと確認出来なかったのは面白く無いが、それでもコアンとやり合えるだけの実力があるのははっきりしたのじゃ、この辺で良しとしておくか」
マルカのその一言で、試合は終了するのだった。