3306話
朝食は無事に終わる。
一番心配されたのは猿轡を外されたオーロラが舌を噛んだり、奥歯かどこかに仕込んである毒を飲んだりして自殺をしないかということだったが、ヴィヘラが見ていたからか、もしくは単純にパンやスープ、チーズが美味かったのか、それとも考えが変わったのか、とにかく自殺しようとすることはなかった。
(この調子だと猿轡はもうしなくてもいいのかもしれないな。……後でヴィヘラに聞いてみるか)
もしヴィヘラに聞いて、そのヴィヘラが問題ないと判断したのなら猿轡は外してもいいとレイは思う。
そうなった後で隙を見て自殺するといったことになれば、最悪の未来ではあったが。
「お」
朝食が終わり、食休みをしている中でレイは視線の先……朝方にニールセンが戻ってきた方向を見ていると、朝と同じようにニールセンが姿を現す。
ニールセンを見つけた時のレイの声を聞いたのか、同じく食休みをしていた者達もレイの視線を追う。
その視線を向けた者の中にはオーロラとヌーラの姿もあり、それを見たニールセンは慌てたように――実際にはそういう演技をして――レイのドラゴンローブの中に入り込む。
レイはそんなニールセンの様子に特に何か表情を出すこともなく、普通に口を開く。
「じゃあ、全員揃ったしそろそろ行くか。セト籠を出すから、昨日と同じように……」
してくれ。
そう言おうとしたレイだったが、ヌーラに視線を向ける。
昨日はセト籠に乗って、セトがそれを持って飛び始めてすぐに気絶したヌーラだ。
恐らく今日も同じようになるのだろうと思いつつ、だからといってヌーラをセト籠に乗せないという手段はない。
今はまず、出来るだけ早くギルムに帰るのが最優先とされるのだから。
「色々と大変だろうが、頑張ってくれ」
「私にしてみれば、気が付けばすぐに飛ぶのが終わっているのだから、そんなに気にするようなことではないのだが」
自分が気絶をするということに対して、全く恥じた様子がないヌーラ。
本気でそう思っているのかどうか、生憎とレイには分からなかった。
だが、ヌーラの性格を考えると、恐らく本気なのだろうというのは予想出来る。
(それはそれでどうなんだ? 普通、高い場所で気絶するとなれば、それを恥だと思ってもおかしくはないと思うんだが。いやまぁ、本人がそれでいいのなら構わないけど)
若干の呆れと共にそう思うが、それ以上は特に突っ込むようなことはしない。
ヌーラが不満を言うのならレイも対処に困っただろうが、本人が問題ないと言ってるのなら、それはそれで構わなかった。
「じゃあ、そういうことで早速出発するか」
そう言い、レイはミスティリングからセト籠を取り出す。
昨日も見た……そして乗っていただけに、ヌーラとオーロラはセト籠を見ても特に驚きはない。
レイの持つミスティリングの異常さには色々と思うところがあるようだったが。
マリーナとヴィヘラにしてみれば、それこそ今まで何度もセト籠に乗っているので、驚くようなことはなく、普通の表情で見ていた。
そんな面々をそのままに、レイはセトの背に跨がる。
「今日も大変だろうけど、頑張ってくれ」
「グルゥ!」
レイの言葉に嬉しそうに喉を鳴らすセト。
セトにしてみれば、レイと一緒に行動出来るだけで十分に楽しいのだ。
ただ移動するだけの時間でも、レイが背中に乗っているのなら、それはセトにとって非常に嬉しい時間だった。
セトの背に乗ったレイがセト籠の方を見ると、そこでは既に全員が……それこそ縛られたオーロラもセト籠の中に乗っていた。
それを確認したレイは、セトに声を掛ける。
「じゃあ、行ってくれセト」
「グルルルルゥ!」
レイの言葉に鳴き声を上げながら走るセト。
数mの助走で翼を羽ばたかせ、そのまま空中を駆け上がっていく。
そのタイミングで、ドラゴンローブの中に避難していたニールセンが出てくる。
「ふぅ、隠れてるのは大変ね」
「オーロラと会うのは嫌なんだろう? なら、仕方ないと思うけどな。……それで、降り注ぐ春風に洞窟の件は言ってきたのか?」
戻ってくるのがあれだけ遅かったのを考えると、もしこれで実はまだ言ってないと口にしたら、レイは呆れただろう。
同時に、ニールセンらしいと納得したかもしれなかったが。
ニールセンとはそれなりに付き合いがある以上、どういう性格なのかは知っている。
そんなニールセンだけに、妖精郷にいる妖精と遊んでいて、降り注ぐ春風に洞窟についての話をし忘れていると言われても納得の出来るところがあった。
もしそのようなことになったら、妖精郷に……トレントの森にある妖精郷に戻った時、長から一体どのようなお仕置きをされるのかはレイにも分からなかったが。
「ちゃんと言ってきたわよ。他の妖精と話していて少し戻ってくるのが遅くなったけど、その前にきちんと話しておいたから問題ないわ」
「そうか。それで洞窟の件はどうだって?」
「様子を見に行きたいらしいけど、かなり遠いでしょ?」
「そうだな」
セトがいるから、レイ達は洞窟と降り注ぐ春風の妖精郷がある森との間を短時間で移動出来たが、普通に妖精が移動するとなると、相応の時間が必要となるのは間違いない。
「だから様子を見に行くのはちょっと難しいかもしれないって」
「降り注ぐ春風が直接行ければいいんだろうけどな」
「さすがにそれは無理よ。妖精郷の長なんだから、あまり長い時間は留守に出来ないわ」
そう言われると、レイもトレントの森でのことを思い出して納得する。
数多の見えない腕が何度か妖精郷から出て来たことがあったが、その時間はそんなに長くはない。
この森から洞窟までの距離を考えれば、降り注ぐ春風が妖精郷から出ている時間でどうにか出来ることではなかった。
「そうか。そうなると、やっぱり洞窟にいる連中が自分で姿を消してくれるのを期待するしかないな」
オーロラとヌーラがいなくなった以上、あの洞窟に残っていた者……特にレイ達と戦って死んでいなかった者も含め、どこか他の場所に行くだろうというのがレイの予想だった。
しかし、それはあくまでも予想でしかない。
もしかしたら洞窟の生き残りの中から新たな指導者が現れ、そのまま洞窟にいるという可能性も否定は出来なかった。
その辺は完全に運なので、レイとしては出来れば降り注ぐ春風にどうにか対処して欲しかったのだが。
それが無理である以上、ダスカーを通してブレイズの仕えている主人に連絡をして貰い、洞窟を調べて貰うしかなかった。
(けど、大丈夫か? 穢れを使う奴が残っていれば、それだけで被害がとんでもないことになりそうなんだが)
ブレイズ達にはレイやヴィヘラと違って穢れと戦う手段がない。
穢れを何とか回避しながら、穢れを操っている者を倒せばいいのだが、それは言うは易しだ。
それでも何も対処法がない訳ではないのは、戦ってる方にしてみれば一縷の希望なのだろうが。
「そんなことを考えても仕方がないか。後はブレイズ達に任せて、なるようになるといったところか」
「何が?」
レイの言葉の意味が理解出来なかったのか、ニールセンが不思議そうに尋ねる。
レイはそれに何でもないと首を振りながら、地上を見る。
冬ではあるが、それなりに好天だ。
だからか、地上には街道を歩いている者の姿が何人か見える。
「辺境じゃないから、ああやって冬でもまだ街道を進む者がいるんだろうな」
「そうなの? あ、本当だ」
レイの言葉に、不思議そうにレイを見ていたことはすぐに忘れ、ニールセンの目にも街道を進む数人の集団が見えてくる。
「冒険者?」
「多分そうだな。冬越えの蓄えが足りなかった冒険者か、あるいは金を使いすぎて足りなくなったか……それ以外にも今よりも少し上の生活をしたいから金を稼ぐというのもあるな。他にも色々と可能性はあると思うが」
冒険者が春までの間に予想以上に金を使ってしまうのは、そう珍しい話ではない。
レイもこれまでギルムで何度か冬を迎え、その時に酒を飲みすぎたり、思わぬ買い物をしたり……もしくは、セトに貢ぐ為に金を使ってしまった者を見ている。
そのような者達は、雪が降っている中に依頼をこなして金を稼ぐ必要があった。
その依頼が街中の雪掻きなのか、あるいは雪が降る中で街の外に出てモンスターを倒して素材や魔石を売るのか。
判断は分かれるところだが、前者は安全だが報酬は安い、後者は危険だが報酬は高い。
しかし、それでも大半の者は前者を選ぶ。
冒険者にしてみれば、雪が降ったり積もったりしている中でモンスターと戦うのは非常に危険だし、中には冬にしか出没しないようなモンスターもいる。
そんなモンスターと戦い、下手をすれば命を失う可能性もあるのだ。
そこまでいかなくても、手足の一本や二本を失うようなことになれば、冒険者としてやっていくのは難しくなる。
ギルムに中には隻腕や隻眼、あるいは義足や義手、義眼のマジックアイテムを使っている者もいるが、そのような者は本当に一部でしかない。
大抵の者は、四肢や目を失うようなことになれば冒険者を引退する。
そんな危険を冒したくない者は、大人しく雪掻きを始めとした街中で出来る依頼を行う。
本来なら街中で出来る依頼というのは冒険者になったばかりの者達が行うような依頼なのだが、冬になると雪掻きの依頼が殺到する為、冒険者になったばかりの者達だけでは依頼を全てこなすことは出来ない。
そこに金を稼ぎたい冒険者達がいて、お互いにWin-Winの関係になる。
もっとも、自分の強さに自信のある者はモンスターの討伐に向かったりもするのだが。
レイがニールセンにそう説明すると、ニールセンは地上で街道を歩いている者達を興味深そうな視線で見る。
ニールセンにしてみれば、冒険者のそういう行動についても興味深いのだろう。
元々ニールセンは好奇心が強い。
レイと初めて会ったのも、トレントの森にある野営地で冒険者達に悪戯をしていた時だ。
そんなニールセンだけに、冒険者に興味を抱いてもおかしくはないのだろう。
「ふーん。ちょっと面白そうね。私も冒険者になれたら面白そうだけど」
「ニールセンの場合は、それこそ話をするだけでも報酬を支払ってくれたりしそうだよな」
レイにとってニールセンとの付き合いはそれなりに長くなったので、今では妖精はそこまで珍しい存在ではなくなった。
ダスカーもニールセンと何度も会ってるし、妖精郷にも行った。
だが、ギルムで妖精について知っているのは、まだほんの一部でしかない。
そして多くの者は小さい頃に聞いたお伽噺で妖精について興味を持つ。
実際、トレントの森の野営地にいる冒険者や、研究者達の中にも妖精に興味津々な者は非常に多かったのだから。
もしニールセンが冒険者として登録することが出来た場合、そのような者達……あるいは貴族街にいる貴族のように裕福な者達が実際に妖精と話をしたいという依頼を出してもおかしくはない。
もっとも、そのような依頼をニールセンが受けるかどうかは別の話だが。
「冒険者になっても、そういう依頼はあまり受けたくないわね。どうせならレイみたいにモンスターと戦ったりしたいわ」
「ニールセンの能力を思えば、モンスターとの戦闘では役に立つのは間違いないけどな」
ニールセンの使う妖精魔法は、基本的に植物を使って相手を妨害したりするのがメインだ。
攻撃魔法を使えるのかどうかはレイにも分からないが、それでも十分便利な魔法なのは間違いなかった。
「ふふん、そうでしょう。私はこう見えてそれなりに凄いんだから」
レイに認められたことで、嬉しそうな様子を見せる。
ニールセンにとって敵との戦いで自分が必要だと言われるのは嬉しかったのだろう。
「冒険者か……本当に私が冒険者になれると思う?」
レイとの会話で、もしかしたら本当に自分が冒険者になれるかもしれないと思ったのだろう。
一度そう思ってしまえば、どうしても自分も冒険者になりたいと、そうニールセンは思ってしまう。
元々好奇心の強い性格だけに、冒険者となって自分の見知らぬ場所を移動してみるのは面白いと、思うのはおかしくない。
(あ、これ失敗したか?)
そんなニールセンを見て、レイは自分との会話でニールセンがその気になっているのを知り、もしかしたら自分はちょっと失敗してしまったかもしれないと思ってしまう。
これだけニールセンが冒険者になりたいと思っても、実際に妖精が冒険者になるのは簡単な話ではない。
それが分かっているからこそ、レイは少し失敗してしまったかもしれないと思いながら、取りあえず問題は先送りにして上空からの絶景を楽しむのだった。