3242話
ダスカーはグリムアースの件を心配して来たのかというレイの言葉に、微妙な表情を浮かべて口を開く。
「レイの言うことは半分当たりだな」
「半分、ですか?」
「そうだ。部下から気分転換にでも行ってきたらどうかと言われていて、それがもう半分だ。仕事が減ったおかげで、こうして気分転換を出来るような余裕も出てきたんだ」
「それは……お疲れ様です」
忙しく、気分転換をする暇すらなかったというダスカーの言葉に、レイはそう言う。
それはお世辞でも何でもなく、本当にダスカーの身を案じての言葉だった。
ダスカーが忙しいのは知っていたが、それでも仕事が忙しく、最悪過労死といったようなことにならないといいのだが、と。
こうして今のようにある程度余裕のある中で、ゆっくりと羽を伸ばして欲しいと。そう思っての言葉。
「そうだな、だから春まではゆっくりとさせて貰うよ。来年……もしくは再来年くらいになれば、増築工事も終わるだろうし」
「何だかんだと、もう二年ですしね。……ただ、増築工事が終わっても次は陸上船の件や、香辛料の件とか……それにトレントの森の諸々とか、まだあると思うんですが」
「……レイ、俺を苛めて楽しいか?」
レイの言葉に、面白くなさそうな様子でダスカーが言う。
そんなダスカーの様子に、レイは慌てて首を横に振る。
「いえ、そんなことはないですよ。その……まだ色々と仕事はありますけど、一番大きな増築工事の件が片付けは、大分楽になるのは間違いないでしょうし」
「そうだな。レイの言う通りだ。増築工事が終われば、楽になる。それに来年も冬になればこうして気分転換に出掛ける余裕とかも出てくるだろうし。それで、グリムアースはどこだ?」
「フラットに聞かないと正確なところは分かりませんが、多分まだテントの中にいるかと」
この野営地には色々と事情があるので、あまり出ないようにして欲しいとグリムアースはフラットに言われていた。
勿論、貴族のグリムアースがフラットの要請に絶対に従わないとならない訳ではない。
もしこれで、グリムアースが悪い意味で貴族的な性格をしていた場合、それこそフラットの言葉に従っていられるかと、外に出ていただろう。
しかし幸いなことに、グリムアースは貴族ではあっても決して横暴な性格をしていない。
レイを相手に、言葉遣いを気にしないといったように言うのだから、その性格が悪い意味で貴族的ではないというのは明らかだろう。
だからこそ、グリムアースは現在もフラットのテントにいる可能性が高かった。
「そうか。では、案内してくれ。……いや、フラットが来たな」
レイに案内するように頼むダスカーだったが、その言葉の途中で視線を逸らしてそう言う。
ダスカーの視線を追うレイもフラットの姿を見つける。
「ダスカー様、まさかこのような時間に来るとは、思っていませんでした。出迎えが遅れて申し訳ありません。少しミスリルの結界の様子を見てから、生誕の塔を見に行っていたので」
「気にするな。急に来たんだから、それでフラットを責めるような真似はしない。……ただ、グリムアースの件で迷惑を掛けたな」
「いえ、グリムアース様達も怪我はしましたが、今はもう回復していますので問題はありません」
「そうか。ポーションの方は後で補充するように手配しておく」
「ありがとうござます。それでは、グリムアース様にお会いになられますか?」
「そうだな。それがここに来た大きな目的の一つでもあるのは間違いない。そうである以上、まずはそうした方がいいか。……レイ、ミスリルの釘の件は後でまた話そう。ただ、ある程度ミスリルの釘の量産が出来た以上、レイには近いうちに穢れの関係者の拠点に行って貰うことになる。準備をしておくように」
「分かりました」
ダスカーの言葉に、レイは特に驚かずにそう返す。
実際、ダスカーが数個のミスリルの釘を見せて量産が成功しているという話を聞いた時から、恐らくそういう風に言われるだろうというのは予想していたのだ。
また、準備をするようにと言われても、ミスティリングを持つレイは特別に何かを用意する必要もない。
必要な道具は基本的にミスティリングの中に入っているし、万が一ミスティリングの中に何もなかったとしても、途中で村や街に寄って購入すればいいだけなのだから。
右手のミスティリングに視線を向けてそう思っていると……
「ずるい」
今まで黙ってセトの体毛で暖まっていたニールセンが、レイの考えを理解したのか、不満そうに言う。
ミスティリングを見ていたのだから、レイが何を考えているのかはすぐに分かったのだろう。
ニールセンにしてみれば、イエロやドッティと一緒に旅をした時は、寒さに震え、腹を減らし……といったように、決して快適な状態ではなかった。
そんなニールセンにしてみれば、移動する時は寒くなく、食事も生肉、もしくは焼いただけの味付けも何もしていない肉を食べず、出来たての料理……それもレイが美味いと思った店の料理を好きなだけ食べられ、夜にはマジックテントでゆっくりと眠れるレイは、嫉妬の対象でしかない。
だからこそ、ずるいという言葉が出たのだろう。
「そう言われてもな。ニールセンも今度は俺と一緒に移動する時、快適な空の旅が出来るんだから、いいだろう?」
「それは……」
レイの言葉に反論出来ないニールセン。
事実、レイの言ってる言葉は間違いないのだから。
レイと一緒に旅をする以上、レイの持つマジックアイテムの恩恵はニールセンも受けることが出来る。
そういう意味で、ニールセンはレイを責めるといった真似は出来なかった。
「レイ、悪いが俺はグリムアースに会いに行ってくる。お前はどうする?」
「俺は止めておきます」
「そうか? まぁ、レイがそう言うのなら構わんが」
グリムアースにレイが会いに行けば、命を救って貰った感謝の気持ちとして何らかの報酬でも貰えるのでは?
ダスカーはそう思ったのかもしれないが、レイは別にグリムアースを助けた件で特に何かをして貰うといったつもりはない。
偶然助けただけなのだから。
あるいはグリムアースが公爵家までとはいかないが、爵位の高い人物であれば、報酬としてマジックアイテムくらいは期待しただろう。
だが、レイが聞いたグリムアースの境遇は、国王派、貴族派、中立派のいずれにも所属していないというものだ。
勿論、三大派閥に所属していないからといって、家の力が弱いとは決まっていなかったが、レイが見たところではその辺について期待するのは難しいように思えた。
その上で、グリムアースの妻や護衛、御者といった面々を相手にして、レイの態度が悪いということで問題になったりしたら、面倒でしかない。
ダスカーがフラットと共にいなくなると、周囲にいた他の者達もそれぞれ自分の仕事に戻るなり、ゆっくりと自由時間を楽しんだりする。
「レイって本当にずるいわよね」
「いや、そう言われても困るんだが」
ずるいというより、羨ましいといった視線を向けてくるニールセン。
そんなニールセンに対し、レイは困った様子でそう告げる。
レイも自分の境遇が色々と特殊……それこそ、ニールセンにずるいと言われてもおかしくないのは、知っている。
しかし、レイにしてみれば、だからといってミスティリングをニールセンに渡すなどということは出来ないし、そのような真似をやろうとも思っていない。
「取りあえずダスカー様に会ったし……」
「レイ!」
取りあえず戻ろう。
そう言おうとしたレイだったが、その言葉を遮るようにニールセンが鋭くレイの名前を呼ぶ。
ニールセンの態度が、レイがずるいと言っていた件についてまだ何か言おうとしている……のではない。
それはニールセンがレイの名前を鋭く呼ぶのですぐに分かった。
そして、何があればニールセンが今のような鋭い声で叫ぶのかというのも。
「どこだ?」
「ここよ」
短いやり取りだったが、それだけでもお互いに意思疎通が出来るのは、今まで何度も同じようなやり取りをしてきたからだろう。
「ここで出て来たのか。……いや、当然か」
穢れが出てくるのは、あくまでも人のいる場所。
だとすれば、現時点においてトレントの森で穢れが姿を現すのは、この野営地となるのは自然な流れだった。
「穢れだ! どこから来るのかは分からないが、注意しろ!」
レイが叫ぶ。
その声は野営地中に響き渡り、見張りをしていた者、休んでいた者達にも聞こえ、すぐに対応する準備をする。
穢れは、触れるとそれだけで黒い塵にして致命傷を負わせる。
そういう意味では、いつどこに穢れが姿を現すか分からない以上、穢れの存在は決して侮っていいものではない。
対処方法はそれなりに確立はされているものの、だからといって油断は出来ない相手なのだ。
だからこそ、多くの者にとって穢れが現れたと知らされれば、皆が本気で対処する必要があった。
それこそ、穢れの場合はどこから姿を現すか分からないのだ。
眠っている中でいきなりテントの中に穢れが転移してきた場合、それは致命傷となる。
……唯一の救いは、眠っているままで死ぬことが出来るかもしれないということだろう。
もっとも、死ぬのだからそれを救いと言ってもいいのかどうかは微妙なところだったが。
「レイ! 穢れが出たというのは本当か!」
周囲の様子を警戒しているレイに、フラットが走り寄ってきて尋ねる。
ダスカーと共にグリムアースと会っていた筈だったが、穢れが出たという叫びを聞いて、そのまま黙っている訳にもいかなかったのだろう。
「本当だ。ニールセンからの情報だ。長を疑うつもりか?」
「そんなつもりはない」
即座にレイの言葉を否定するフラット。
フラットは長について多くは知らない。
だが、長の力によって穢れの出現を察知し、それをニールセンを通して教えて貰っていることは十分に理解していた。
そのような状況で、色々と情報を教えてくれる長を疑うなどといった真似が出来る筈もない。
あるいは心の中では何か思っていることがあるかもしれないが、それを表に出すような真似はしない。
「それで、どこに出たんだ?」
「この野営地だ。もっとも、野営地というだけで、具体的にどこにいるのか分からない。まずは穢れの姿を確認する必要があるが……」
そうレイが言うと、まるでそのタイミングを待っていたかのように遠くから声が聞こえてきた。
「穢れだ! 数は三匹、サイコロと円球が一緒にいやがる!」
「どうやらあっちだな。にしても、二種類が同時に? ……向こうで何かあったのは間違いないんだろうな」
レイはフラットにそう言い、すぐにセトとニールセンと共にその場を離れて声のした方に向かって走り出そうとして……
「レイ、これを持っていけ!」
叫ぶフラットが投げてきたのは、ミスリルの釘。
「っと!」
釘と杭の中間くらいの大きさである以上、フラットが投擲したミスリルの釘は受け取り方を失敗すれば、手を怪我してもおかしくはない。
だが、フラットもそのくらいのことは理解しており、投擲した速度は決して速くはない。
レイが無事にミスリルの釘を受け取ったのを見ると、フラットが叫ぶ。
「それはダスカー様から貰った、新しい奴だ。問題がないか使って試してみてくれ!」
フラットにしてみれば、量産されたミスリルの釘は早いうちに使えるかどうかきちんと試しておきたいと思ったのだろう。
レイが今まで使っていたのは、ミスリルの結界を張る為に最初に作られた物……つまり、オリジナルだ。
しかし量産型は、マジックアイテムの実験をした時にあの場にいた者達が作った物となる。
あの場にいた以上、錬金術師として相応の実力を持ってるのは間違いないのだろうが、それでもオリジナルを作ったのとは別の錬金術師が作った以上、万が一ということもあった。
だからこそ、もし何か想定外の事態があっても、それにすぐ対処出来るレイに試して欲しいと思ったのだろう。
(いやまぁ、無理もないか)
あの時の錬金術師は、レイも多少は知っている面々だ。
トレントの森で伐採した木を持っていった時の錬金術師達の対応を思えば、フラットがそのような連中の作ったマジックアイテムを全面的に信じることが出来ないのはおかしくはない。
レイでも、素直に信じることは出来ないだろう。
あるいは量産型であるにも関わらず、自分達の気分の赴くままに改修していてもおかしくはない。
寧ろレイとしては、錬金術師の人数分、しっかりと動作確認はした方がいいのでは? と思わないでもなかったが。
ともあれ、今はまず穢れをミスリルの結界で捕らえる必要がある。
そう判断し、声のした方に向かって走るのだった。