3226話
赤ん坊が野営地にいるという情報は、すぐに広まった。
……レイが抱いている時にあれだけ赤ん坊が泣き、それを理由にレイのことが気にくわなかった研究者の護衛の数人が絡み、そこに野営地にいた女の冒険者達が割って入るといった真似をしたのだ。
そのような真似をして、情報が広まらない筈もない。
「へぇ、可愛いものだな。……考えてみれば、こうして間近で赤ん坊を見る機会ってのは、あまりないんだよな」
「よく言うぜ。娼館通いに熱心なお前のことだ。本人が知らないだけで、実は子供が何人かいたりするんじゃないか?」
「ぐ……」
心当たりがあったのか、男は言葉に詰まる。
……同時に、周囲にいる何人か、特に女からの視線が非常に厳しいものになっていたが。
「へぇ……そうなの? その辺をもう少し詳しく聞かせて貰えないかしら?」
にっこりと笑みを浮かべ……ただし、目だけは全く笑っていない様子でそう告げる女。
その女を見た男は焦る。
何しろその女は、この野営地で一緒に行動するようになった相手だったからだ。
双方共に、その気があるのは間違いなく……だからこそ、そんな男の行動について笑みを浮かべて尋ねていたのだろう。
周囲にいた他の者達は、そんな騒動に関わりたくないといった様子で離れていく。
周囲にいた他の者達が離れたことにより、男と女の側には誰もいなくなった。
そのような状況になったところで、女はゆっくりと……だが確実に男との距離を縮めていく。
これが下手にゆっくりとした動きなので、それが余計に男の恐怖を煽る。
「な、なぁ。ちょっとその……ほら。な?」
「何を言いたいのか、さっぱりと分からないんだけど?」
焦って女に何かを言おうとする男だったが、このような状況で咄嗟に言葉が出て来ない。
……あるいは、もし男が娼館に通っているというのが嘘であれば、男もきちんと言い訳が出来ただろう。
だが、そのような言い訳が出来なかった。
それはつまり、男が娼館通いをしており、場合によっては男が知らないだけで多くの子供がいるというのが事実だと、そう男が認めているからこそなのだろう。
「あー……ほら。その、あれだ。あいつが言ったのは、あくまでも過去の話だ。俺がお前と仲良くなってからの話じゃねえ。それは分かるだろ? お前だって、昔の男のことどうこう言われたら……」
必死に頭を働かせ、そこまで言った男。
だが、女が自分に向ける笑みが一段と強くなったのを見て、失敗したと悟る。
悟るのだが、それは既に遅い。
「女の過去をほじくり返すなんて、随分といい趣味をしてるのね」
「いや、だからそういうことじゃなくてだな? ほら……分かるだろ? えっと、ちょっといいか? その、にじり寄ってくる動きは止めてくれないか? 大人しく、冷静に、友好的に話そう」
「あら、私もそのつもりよ? だから……ね?」
「う……うわあああああっ!」
近付いてくる女の迫力に負けたのか、男は叫び声を上げながら走り出す。
女は相変わらず笑みを浮かべつつ、しかし目は笑っていない様子で男を追うのだった。
「いやまぁ……うん。ああいうのって赤ん坊に悪い影響を与えそうだな」
離れていった二人を見たレイは、そんな風に呟く。
今回の赤ん坊の件は色々と不味いというのは分かっている。
それに加えて、この赤ん坊が理由で野営地にいる者達の人間関係に問題が出るというのは、出来れば遠慮したかったのだが、起こってしまった以上は仕方がない。
「この子は寝てるし、問題はないでしょ。……それで、この子はどうするの? まさか、いつまでも野営地に置いておく訳にもいかないでしょう?」
「その辺はフラットが手を回してくれてる。現在ダスカー様に渡す手紙を書いてる筈だ。補給の馬車が来たら、その馬車に赤ん坊を運んで貰うことになってる」
「そう」
安堵した様子の女。
赤ん坊は現在眠っているものの、いつ起きるのか分からない。
また、空腹やおしめで泣くこともある。
そう考えると、出来るだけ早くその辺に対応出来る場所に移すのが最善なのは間違いなかった。
もしここで泣き出したら、対応出来ない。
女が知ってる限り、母乳が出る女はここにはいないのだから。
「そんな訳で、後は馬車が来るまで待つだけなんだけど……いつくらいになるんだろうな。そろそろ来てもいい筈だけど」
補給の馬車は毎日来るのは間違いないが、だからといってその時間は決まっていない。
日によっては数時間くらいの遅れは普通にある。
レイとしては出来れば早く来て欲しかったものの、それをここで言っても仕方がないという思いはある。
「出来れば……」
「レイ!」
赤ん坊を抱いている女に何かを言おうとしたレイだったが、そんなレイの言葉を遮るようにセトの毛の中に隠れていたニールセンが叫ぶ。
ビクリ、と。
その言葉の鋭さに、眠っていた赤ん坊が反応する。
だがニールセンは、そんな赤ん坊の様子を気にせずレイに向かって用件を口にする。
「穢れよ。しかもここじゃなくて他の場所」
「……噂をすればなんとやら、か」
ニールセンが口にした穢れが襲ってるのは、レイが口にした補給の馬車の可能性が高い。
勿論、実は全く違い……何らかの理由で冒険者がトレントの森にやって来て、それで穢れに襲撃されたという可能性も否定は出来ない。
否定は出来ないが、それでもやはり可能性が高いのは補給の馬車だろう。
そうなると、レイの反応は早い。
「セト」
「グルゥ!」
レイの呼び掛けで、セトはすぐに近寄ってくる。
先程までは、男女間の痴情のもつれの件から目を逸らしたい者達がセトと遊んでいたのだが、ニールセンの様子を見ればすぐに行動に移るのはおかしな話ではない。
「じゃあ、俺はちょっと行ってくる」
「頑張ってね。……ほら、大丈夫、大丈夫。怖くないわよ」
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」
今のやり取りで起きた赤ん坊が泣くが、レイも今はそちらに構っている余裕はない。
今はとにかく、補給の馬車と思しき者達を襲っている穢れをどうにかする必要があった。
レイはセトの背に乗る。
ニールセンはいつものようにレイの右肩に。
そうしてレイとニールセンを乗せたセトは、赤ん坊のことを考えたのかその場で走り出すような真似はせず、少し離れた場所まで移動してから走り、翼を羽ばたかせて飛ぶのだった
「あれだな」
セトの背の上から、レイが地上を走る馬車を見て呟く。
ニールセンの案内によって、野営地を飛び立ってから一分もしないうちにレイは馬車の姿を見つけていた。
だが……
「あれ? 穢れは?」
ニールセンが馬車を見ながら呟く。
そう、馬車は必死になって、それこそ全速力で走り続けていたが、その周囲には穢れの姿はない。
もっとも、穢れの移動速度は人が走っても逃げ切れる程度のものだ。
本気で馬車が走れば、穢れは到底追いつけるようなものではない。
「ああ、なるほど。馬車は穢れと遭遇したんだろうけど、上手く逃げたんだろうな」
野営地に各種補給物資を運ぶ以上、当然ながら馬車の御者やその護衛はダスカーから……もしくはダスカーの部下から、穢れについての情報は与えられている。
その情報の中には、穢れの移動速度は人間が走るよりも遅いというのもあるだろうし、穢れに攻撃をしなければ敵も襲ってこないということも教えられている筈だった。
であれば、馬車で移動中に穢れと遭遇しても、ブロカーズ達のように不用意に攻撃するような真似はせず、上手い具合に回避して逃げればいい。
そうすれば穢れに敵と認識はされず、追われることもないのだから。
「セト、馬車の近くまで降りてくれ。どの辺で穢れと遭遇したのか、その数や種類についての情報を聞いておきたい」
「グルルルゥ!」
レイの言葉に、セトは任せてと鳴き声を上げると地上に向かって降下していく。
そうしてセトはすぐに馬車に並ぶ。
……その時、馬車を牽く馬が混乱した様子を見せたものの、御者が何とか暴走しないようにコントロールする。
この辺の能力はさすが重要な補給の馬車を任されている御者だというべきだろう。
「ちょっといいか?」
「はい、何でしょう?」
馬の動揺に対処しつつも、御者はレイに答える。
そんな御者の様子に感心しつつ、レイは質問を口にする。
「ここに来る途中、穢れと遭遇したよな? 具体的にどのくらいの距離で遭遇したのか分かるか?」
「え? そうですね。具体的にと言われても……数分くらい前としか」
「数は? それと形は?」
「丸かったです。数は……しっかりと確認は出来ませんでしたが、そんなに多くはなかったかと」
「分かった。情報、助かった」
丸いということで、黒い円球型なのだと判断したレイは、御者に感謝の言葉を口にする。
「じゃあ、俺は行く。……野営地には空から降ってきた赤ん坊がいるから、驚かさないように注意してくれ」
「……へ?」
まさかいきなりそのようなことを言われるとは思っていなかったのか、御者は意表を突かれた声を出す。
「詳しい話については、野営地に行けば聞かせて貰えると思う。……じゃあ、俺は穢れを倒してくるから」
「あ、ちょっと待って下さい! 赤ん坊って、一体何が!?」
「護衛の方も頼むぞ!」
馬車の中にいる何人かにそう声を掛けると、レイはセトに合図をするように軽く首の裏を叩く。
それを察したセトは、翼を羽ばたかせて上空に舞い上がっていく。
そうして上空に到達すると、急な方向転換を行う。
セトが次に向かうのは、馬車が遭遇した黒い円球のいる場所。
(数はそんなに多くなかったということは、倒すのにもそこまで時間を使う必要はない筈だ。なら、さっさと倒して野営地に戻るか。……赤ん坊の件もあるし)
リザードマンから赤ん坊を引き受けたのはレイだ。
そうである以上、レイが赤ん坊のことを気にするのは当然の話だった。
「何だかんだと、レイって面倒見がいいわよね」
レイの右肩にいるニールセンが、若干呆れた様子でそう言う。
ニールセンにしてみれば、レイのそのようなところは呆れはするものの、同時に好ましいものでもある。
「褒めてくれるのは嬉しいけど、まずは穢れの対処だな。……ニールセンが戻ってきた一件や、ミスリルの結界の一件もあったから、てっきり何かもっと違う反応があると思ったんだが。どうやらそういうのはないらしい」
「それはそうでしょ。穢れの関係者側には何が起こったのかとか、そういうのはまだ分からない筈だもの。……多分だけど」
ニールセンは本当に穢れの関係者がトレントの森で何が起きているのか分からないかどうかまでは判断出来ない。
ただ、何となく……本当に何となくだが、そんな風に思えたのだ。
穢れの関係者の拠点を見つけた時に遭遇した、黒い円球を自由に操っていた者の様子からそういう風に予想したというのもあったが。
「そうであれば、こっちにとっても悪くない話なんだけどな。後はミスリルの結界をどのくらい量産出来るかで、俺達が穢れの関係者の拠点に行けるかどうかが決まる」
今のところ、ミスリルの結界は穢れに有効に機能している。
それどころか、穢れを餓死させるのに必要な時間は炎獄よりも短い。
とはいえ、そちらはまだ確実にそうだと決まった訳ではなく、現在ミスリルの結界に捕らえられた穢れがどうなるのかを確認し、その後も何度か確認する必要があるのは間違いないのだが。
レイとしては出来るだけ早く穢れの関係者の拠点に向かいたい。
ドラゴンローブやゼパイル一門謹製の身体があるとはいえ、それでもやはり雪が降ってる中で移動したりというのは出来るだけ避けたいのだ。
レイにとって、雪というのは厄介以外のなにものでもないのだから。
この辺は東北の田舎……冬になれば、普通に数十cm、場合によっては一m近くも雪が積もる地域で生まれ育ったのも影響してるのだろう。
ニュースやドラマ、漫画、小説、映画、ゲーム……それらで雪が降るのを喜ぶ光景や描写というのは珍しいものではない。
だが、実際に雪の厄介さを知っているレイにしてみれば、雪というのは出来るだけ降って欲しくはない存在だった。
(いざとなれば、魔法でどうにか出来るけど……それはそれでどうだと思えるしな)
レイの使う魔法で生み出された炎なら、雪は一瞬で溶かして水にし、その水も即座に蒸発させるといった真似は出来るだろう。
だがそのような真似は当然だが街中で出来ることではない。
そしてトレントの森でも出来ないだろう。
もしそのような真似をすれば、それこそ周辺一帯が燃やしつくされる可能性すらあった。
「っと、妙なことを考えてる間に見えてきたな。あれだ」
セトの背の上で、レイは視線の先に黒い円球を見て意識を切り替えるのだった。