3204話
「あ、見えてきました。あそこですダスカー様」
レイの言葉に、ダスカーはその視線を追う。
妖精郷……と言われて思い浮かべるのとは少し違う場所。
だが、レイの視線の先にあるのは、間違いなく妖精郷だ。
正確には、妖精郷を守る霧の空間。
許可のない者が入り込めば、その霧によって方向感覚を狂わされ、霧の空間に棲み着いている狼によって襲撃されることになるだろう。
もっとも今回は長がきちんと許可をしてるので、そのような心配はいらないのだが。
「あれが妖精郷か。では、行くとしよう。……ブロカーズ殿?」
「え? ちょっ、ブロカーズ様!?」
ダスカーが気が付くと、ブロカーズは年齢に見合わぬ軽い足取りで妖精郷に向かっていた。
ブロカーズの護衛のイスナはそんな様子に驚くも、すぐに後を追う。
「レイ、大丈夫なのか?」
「長から許可が出てるから、問題はないと思います。……ただ、それでも念の為にすぐ後を追った方がいいですね」
ダスカーはレイの言葉を聞くと、すぐ妖精郷のある方に向かって足を踏み出す。
「そう言えば、ボブだったか。レイが穢れの一件に関わるようになった原因は。その人物とも会えるのか?」
「会えますよ。ただ、ボブはかなり緊張していたみたいですけど。……これが冒険者とかなら、貴族と会ったりすることもあるんでしょうけど、ただの猟師ですしね。いえ、腕はかなり立ちますが」
旅をしながら猟師をするということは、初めて訪れる場所でもきちんと獲物を見つけて仕留められる腕があるということだ。
普通の猟師は決まった場所……具体的には住んでいる場所の近くの林や森、山といった場所で狩りをする。
土地勘のあるなしというのは、狩りをする場合に非常に大きな意味を持つことをレイは知っていた。
だが、ボブはそんな土地勘もなしで旅をするのに問題ない程度の稼ぎを得ているのだ。
レイは猟師の平均的な技量を知らないが、純粋な猟師としてはこのミレアーナ王国でも最高峰の技量を持つのだろうというのは容易に予想出来た。
「ほう、レイがそう言うのなら、間違いはないのだろうな」
ダスカーがレイに抱く信頼は厚い。
特に戦闘という一点に関しては。
……逆に礼儀作法とかになれば、全く信用出来なくなるのだが。
ともあれ、そんなレイがお墨付きを与えるだけの技量を持つというのなら、それは信用に値するということだ。
「出来ればそういう腕の立つ者は部下に欲しいんだが……どうだ?」
「難しいでしょうね」
ダスカーとしては、腕の立つ者は何人いてもいい。
その上でレイが認める技量を持つ弓の腕を持つ者なら、出来れば手元に置きたいと思うのは当然だろう。
だが、そんなダスカーの希望をレイはあっさりと砕く。
「ボブは好奇心の強い性格です。だからこそ、猟師をしながら色々な場所を旅してるのかと。そうである以上、もしダスカー様が雇うと言っても、頷くことはないかと」
脅して言い聞かせるという方法もあるが、それはダスカーの好みではない。
どうしようもない状態であればそのようなことをするかもしれないが、今はそのような状況でもない。
腕が立つ人物がいるのなら、出来ればスカウトしたいといった感じでしかなかった。
「それに……腕が立つと言った俺がこう言うのもなんですが、腕が立つのはあくまでも弓だけです。近接戦闘となると……」
言葉を濁すレイ。
実際、ボブの弓の腕は一流と呼ぶに相応しいものがある。
それこそ純粋に弓の腕だけなら、今のように増築工事が始まる前の冒険者の中でも選ばれた者だけが辿り着くことが出来るギルムにおいても、一線級で活躍出来るだけの実力があるだろう。
だが……それはあくまでも弓の腕だけだ。
近接戦闘になると、場合によっては冒険者になったばかりの者に負けてしまってもおかしくはない。
良くも悪くも、ボブは弓に特化した存在なのだ。
「その辺は、訓練次第だろう? それに遠距離からの攻撃を任せるのなら、近接戦闘の技量は自分の身を守れる最低限あればいい。……いや、結局旅を続けるのならそのようなことを言っても意味はないか」
「そうですね。今は穢れの件があるので妖精郷にいますけど、穢れの件が解決したら恐らく妖精郷を出ると思いますし」
もっとも、現状では穢れの件が具体的にいつ解決するのか、その目処もたっていない。
現在ニールセンが穢れの関係者の拠点を偵察しに向かっているが、そこで何らかの手掛かりを入手出来ていれば、恐らく……そう思う程度だ。
実際にはそれなりに大きな手掛かりを入手してるのだが、今のレイがそれを知ることはない。
「残念だが、仕方がないか。……それより、早く行くとしよう。イスナがこちらを見ているからな」
ダスカーの言葉に視線を向けると、そこには霧の空間の中に入ろうとしたブロカーズを押さえつけ……あるいは鎮圧という表現の方が相応しいのかもしれないが、とにかくブロカーズを動けないようにしながらレイに視線を向けてくるイスナの姿があった。
イスナにしてみれば、レイから安全だと言われてはいるものの、だからといってレイをおいて霧の空間にブロカーズが突入するのを許容出来る訳もない。
もしそのような真似をすれば、大丈夫だと言われてはいても、一体何が起きるのか分からないのだから。
「勝手に入っても問題はないんですけどね。……ただ、イスナが心配するのも分かりますし、行きましょうか」
そう言い、レイは妖精郷に向かう足を速める。
そんなレイの隣では、セトが周囲の様子を見ながら、特に何をするでもなくレイと一緒に行動していた。
そして一分も経たず、ブロカーズとイスナの前に到着する。
「では、行きましょうか。……このまま進んでもいいのですよね?」
「問題ない。けど心配なら、俺とセトが最初に中に入るか?」
「……お願いします」
ここでレイやセトに頼んでもいいのかどうか、イスナは少し迷う。
だが、自分の役目はブロカーズの護衛である以上、念には念を入れるのはおかしなことではないので、レイに向かって頭を下げる。
レイは別に嫌な気分を抱くでもなく、何でもないかのように霧の空間に入る。
イスナは警戒をしているものの、レイにしてみれば今まで何度も……それこそ数え切れない程に通った場所だ。
そうである以上、ここで躊躇をすることはない。
そうしてあっさりと霧の空間に入ったレイを、他の面々も追う。
ブロカーズを押さえていたイスナも、それでようやく中に入っても問題はないと判断したのか、ブロカーズを解放する。
「ぐぬぅ……」
イスナの態度に面白くなさそうな様子を見せるブロカーズ。
ブロカーズとしては、自分が最初に霧の空間に入りたかったのだろう。
だが実際には、こうして最後になってしまった。
それが恨めしく、不満そうな視線をイスナに向ける。
イスナはブロカーズにそのような視線を向けられても、特に気にせず口を開く。
「行きましょう、ブロカーズ様」
護衛をした当初なら、イスナもそんなブロカーズの視線に申し訳なさそうにしたり、あるいは何らかの言い訳をしたりしただろう。
しかし、イスナもブロカーズと一緒に行動するようになり、その性格を大体理解出来ている。
だからこそ今のブロカーズの視線は全く気にした様子もなく、霧の空間に入るのを促すことが出来たのだろう。
そうして二人は霧の空間に入る。
「これは……」
驚きの声がブロカーズの口から漏れる。
霧の空間という名前を聞いていたので、予想はしていた。
しかし、目の前にあるのは本当に空間そのものが霧で出来ているかのような、そんな場所。
その名前に相応しい場所だった。
「凄いですね、これは……」
イスナも霧の空間を見てそう呟く。
レイ達が先に進んでいるので大丈夫だとは思う。
思うのだが、それでも不安に思ってしまうくらい、周囲には霧しか見えない。
「行きましょう。いつまでもここにいては、妖精郷の方達を待たせてしまうことになりますので」
「それは……そうだな。いつまでもここにいる訳にもいかないか」
本音を言えば、ブロカーズは霧の空間に興味津々だ。
だが、穢れの一件について話し合うことを忘れる程ではないし、何より霧の空間よりも妖精郷の方が興味深い存在なのは間違いなかった。
その為、今はここよりもまず妖精郷に行くのを優先したのだろう。
二人は霧の空間を進む。
本来なら襲ってくる筈の狼達も、長から今日のことは聞いてるので襲うような真似はしない。
それどころか、一行の中にセトがいるのを感じ、決して人前に出るような真似をしないようにすらしていた。
ブロカーズとイスナは、結局特に誰にも会わないまま霧の空間を進み続け……
「これが……妖精郷……」
「ブロカーズ様、あれって妖精ですよね?」
霧の空間を抜けた場所が妖精郷であると聞いていたブロカーズがしみじみと呟くが、そんなブロカーズの横では、イスナがとある方向を見て呟く。
その視線の先には、飛んでいる妖精の姿。
それを見て、ブロカーズの動きが止まる。
ここが妖精郷だというのは知っていた。
そして穢れの件で妖精と話し合うのも知っていた。
しかし……それでも、まさかこんなにあっさりと妖精を自分の目で見ることが出来るとは思っていなかったのだ。
研究者によっては、既に妖精は絶滅した……あるいはどこか人のいない場所に向かったといったような説を唱える者もいる。
それ以外の者であっても、妖精というのは昔はいたものの、今はお伽噺や伝承の存在だと思っている者も多い。
そのような妖精が、ちょっとそこを通り掛かったといった様子でブロカーズとイスナの視線の先を飛んでいるのだ。
それに驚くなという方が無理だった。
……そして、妖精郷の姿に目を奪われているのは、その二人だけではない。
二人よりも先に霧の空間に入った者達もまた同じく、妖精郷の光景に目を奪われていた。
レイとセトはここで寝泊まりをしているので、既に慣れた様子だったが。
「ようこそ、おいで下さいました」
不意に響くその声に、レイとセト以外の面々は反射的に声のした方に視線を向ける。
自分達からそう離れていない場所に浮かんでいる一人の妖精の姿がそこにはある。
ただ、他の妖精の大きさが掌程のものだとすると、そんな普通の妖精よりも一回り程大きい。
それだけではなく、ただそこにいるだけなのに何かを感じる相手。
ダスカーもブロカーズも、そして他の面々も……目の前にいるのがこの妖精郷を治めている相手なのだと理解する。
もっとも、こちらもまたレイとセトは特に気にした様子はなかったが。
レイやセトにしてみれば、長というのは既に見慣れた相手だ。
いつもいる妖精郷の奥から妖精郷に入ってすぐの場所に姿を現したのは驚いたものの、言ってみればそれだけでしかない。
「こうして直接会うのは初めてですね。対のオーブ越しではないと、少し新鮮な感じがしますが」
最初に口を開いたのは、ダスカー。
恐る恐るといった様子だが、そう尋ねる。
ダスカーはニールセンも知っているので、別に妖精はこれが初めて見るという訳ではない。
だがそんなダスカーにとっても、自分の目の前にいる長が普通ではないというのは、容易に理解出来たのだろう。
尋ねつつ、一瞬だけレイに視線を向ける。
ダスカーの視線に気が付いたレイは頷きを返す。
「そうですね。私のことは長と呼んで下さい。知ってるかどうか分かりませんが、普通の妖精はニールセンのような名前を持ちますが、長となるとその名前を捨てます」
「分かりました。では、長とお呼びしよう」
ダスカーの言葉に、護衛の騎士が何人か視線を向ける。
相手を長と呼ぶのは、レイのような何の立場もない者――ランクA冒険者という立場ではあるが――なら問題はないだろうが、ダスカーのような領主が口にするのは、場合によっては誤解を招きかねないと思ったのだろう。
ダスカーが長を自分の上位者であると、そのように見られるのは不味い。
ダスカー本人はそれを気にしていなかったようだが。
ただ、そんな騎士達の様子に気が付いたのか、長は改めて口を開く。
「役職で呼ぶのが不味いようでしたら、数多の見えない腕と呼んでも構いませんが?」
その名称はレイも知らなかったので、驚きの表情を浮かべる。
そんなレイの様子に、表情には出さないようにしながらしてやったりといった思いを抱く長。
「それは……?」
ダスカーも名前と呼ぶよりは、異名とも呼ぶべきその名称に疑問を抱いたのか、長に尋ねる。
「長になる時に名前を捨てると言いましたが、妖精郷はここだけではありません。その数だけ長もいます。その者達を区別する為に、その者の特徴を名前の代わりに使うのです」
このように、と。
そう長が言うと、少し離れた場所にあった人間の拳大の石が空中に浮かび上がるのだった。