3197話
数分程箱を見ていた男は、やがて腰の袋の中から干し肉を取り出して食べる。
それを見ていたニールセンは、そう言えば自分も空腹だと思うも、何か食べ物を持っている訳ではない。
イエロも当然ながら何も食べ物を持っておらず、どうにか空腹を我慢する。
「いっそあの箱の代わりに干し肉を奪う?」
「キュウ……」
先程箱を奪うという時は必死にニールセンを止めたイエロだったが、干し肉を奪うというニールセンの言葉には魅力を感じてしまう。
もっとも、これはあくまでも冗談であると認識をしているのだが。
「あ、動くわ」
干し肉を食べ終わった男は、すぐに出発の準備を行う。
男にしてみれば、この川はあくまでも休憩しただけで、早く自分の行くべき場所に向かいたいという思いが強いのだろう。
幸いなことに、男が休憩をしたことはイエロやニールセンにも休憩の時間を与えた。
中途半端に休憩したせいで、空腹だと思いもしたが。
とにかく今は男を逃がす訳にはいかない。
ニールセンはイエロの背にのって、馬に乗った男を追う。
(問題なのは、一体どこまで行くのかよね。……普通に考えれば、本拠地が拠点からそんなに近くにあるとは思えないんだけど。だとすれば、向かうのは別の拠点?)
夜空を飛ぶイエロの背中の上で男の行き先について考えるニールセンだったが、もしレイがそのニールセンの考えを聞いていれば、幾ら何でも拠点が近すぎると判断するだろう。
穢れの関係者が具体的にどのくらいの規模なのかは、レイにも分からない。
だが、それでも大陸を滅ぼすような穢れに自分から進んで関わり合いたいと思う者は決して多くはないだろうというのは予想出来た。
そして少人数であれば、拠点を多数作るといった真似は難しいだろう。
もっとも、降り注ぐ春風の妖精郷の近くにあった小屋のように、拠点として作ってはいても、普段はそこに誰もいないといったような形にするのなら、多数の拠点を作れるかもしれないが。
(あれ、でも……あの森ってそれなりに人が入ってくるのよね? 猟師とか。そういう人があの小屋を見つけたらどうするのかしら? 普通に考えて、あの小屋を休憩場所とか、荷物置き場とかに使ってもおかしくはないと思うんだけど)
ニールセンが拠点ということでふとそんな風に思いつくものの、その理由が分かる訳ではない。
「キュウ!」
と、不意にイエロが鳴き声を上げる。
男から結構な距離があるので聞こえるようなことはまずないと思うが、それでももしかしたら……そう思えるくらいには大きな声。
それだけイエロも驚いたのだろう。
川から出発して二時間程。
既に真夜中と呼んでもいいような時間だったが、不思議とイエロやニールセンに眠気はない。
ニールセンは精神的に疲れたということで、多少なりとも昼寝をしたから眠気がないのか、それとも穢れの関係者の新たな拠点、あるいは本拠地が近いと思う興奮からか。
その理由はともかく、現在男を追跡しているニールセンにしてみれば、悪い話ではなかった。
とにかく一体何があったのかとニールセンは地上に視線を向ける。
するとそこには、森……というよりは林という表現が相応しい場所に入っていく男の姿があった。
「林? だとすると、やっぱり本拠地じゃなくて新しい拠点とかかしら? ……イエロ、見つからないようにゆっくり行くわよ」
「キュウ!」
ニールセンの言葉に小さく鳴くと、イエロは高度を落とす。
林には常緑樹の木もあれば、葉が一枚もない木もある。
多数の木が混ざっているが、だからこそ林の上から男を追うといった真似をした場合は見逃してしまう可能性があった。
そのようなことにならないよう、イエロは高度を落としていく。
イエロとニールセンはそうして林の中に入り……
「あそこね」
男の姿を見つけると、ニールセンが小さく呟く。
しかし、そこにはあるのはいつものニールセンのお気楽な表情ではなく、真剣な色だ。
何故なら、男の進む先には洞窟があったのだから。
それもただの洞窟ではない。
岩によって洞窟の入り口が塞がれている場所。
そのような場所に男が向かう以上、その洞窟には何らかの意味があるのは間違いなかった。
周囲を見回した男は、そこに誰の姿もないことを確認する。
実際には後方上空にイエロとニールセンがいるのだが、生憎とそれに気が付くことはない。
男が油断をしているのか、あるいは単純にまさかそのような場所から見張られているとは思っていなかったのか。
ともあれ、周囲に誰もいないのを確認した男は……
「え?」
その光景を見ていたニールセンの口から、意外そうな声が漏れる。
いや、ニールセンだけではない。
イエロもまた、自分の視線の先にあった光景に驚きの声を上げていた。
何故なら、男は洞窟を塞いでいる巨大な岩に向かい……そのまま通りすぎたのだ。
それこそ、そこには岩も何もないような感じで。
「幻影?」
最初にその結論に辿り着いたのは、ニールセン。
ニールセンは植物を操る魔法を得意としているものの、妖精の中には幻影を使う者もいる。
だからこそ、あの岩も幻影なのではないかと思ったのだろう。
そんなニールセンとは違い、イエロは周囲に幻影の類を使える者が誰もいないことが気になっていた。
もしかしたら将来的にレイのデスサイズやセトがその手のスキルを習得するかもしれないが、今は使えない。
それだけに、イエロやニールセンの目には幻影は少し珍しい。
とはいえ、珍しいからといって離れた場所から見ている訳にはいかない。
「イエロ、これ……どうすればいい?」
「キュウ……」
ニールセンの言葉に、イエロは困ったように喉を鳴らす。
幻影にそこまで詳しくないので、だからこそこの状況で一体どうすればいいのか分からないのだ。
何よりも厄介なのは……
「あの洞窟の中がどうなってるのかは、分からないじゃない。このままだと、一体あの男がどうなってるのか分からないわ」
ここまではずっとニールセンとイエロは男の姿を確認しながら追跡してきた。
しかし、洞窟の中に入っていった以上、ここでは一体何がどうなっているのかを判断することが出来ない。
「行く……しかないのかしら?」
洞窟を見ながら、気が進まない様子でニールセンが呟く。
男が洞窟の中に入っていった以上、それがどうなったのかを考えれば、自分がどう行動すればいいのか分からない。
だが、それでも自分達が洞窟の中に入ってもいいのかどうかが分からない。
もしかしたら、洞窟の中に入った瞬間に先程の男が待ち構えているのではないか。
そのように思ったのだ。
幻影によって洞窟の中が確認出来ない以上、そのようなことになっていてもおかしくはない。
ましてや、敵は穢れの関係者の男だ。
もしかしたら、何らかの穢れの力を使ってイエロやニールセン達が追ってきているのを気が付いていてもおかしくはないと思える。
幻影についてそこまで詳しくないので、具体的にあの幻影がどのような効果を持つのかは分からないのだ。
「最悪の場合、穢れの関係者だけが通れる幻影で、それ以外は普通に岩だという可能性もあるのかしら?」
そのような幻影が出来るのかどうかは、ニールセンには分からない。
分からないが、だからこそ自分だけで判断するのは避けるべきだと考える。
「出来れば私も幻影を通れるかどうか試したいけど……止めておいた方がいいわね」
「キュウ……?」
ニールセンの言葉にそうなの? と喉を鳴らすイエロ。
イエロにしてみれば、幻影はそれなりに興味深いので、実際に自分で触れてみたいという思いもあるのだろう。
正直なところ、ニールセンも幻影に興味がないとは言わない。
だが、ここで迂闊な真似をして、その結果自分達の正体が穢れの関係者に知られたら……いや、それどころか、穢れの関係者達は妖精の心臓を欲しているのだ。
今のこの状況で自分の存在が明るみに出たらどうなるか。
最悪死ぬかもしれない。
……いや、あるいは死ぬのが幸福という目に遭わされる可能性もあった。
そして何より、もし穢れの関係者に見つかって無事に逃げたとしても、好奇心から大きなミスをしたと長――この場合は数多の見えない腕――に知られたら、一体どんなお仕置きを受けるのか。
それを考えれば、とてもではないが危ない橋を渡るような真似は出来ない。
「ええ、戻りましょう。イエロもここで下手な真似をして穢れの関係者に見つかったとなったら、エレーナにお仕置きをされてしまうかもしれないわよ?」
「……キュウ」
そう言われると、イエロもこれ以上無理は言えない。
イエロが見たものは、エレーナも追体験することが出来るのだ。
ここで無理をして幻影に触れ、それによって取り返しの付かないミスをしてしまったら、間違いなくエレーナに叱られる。
ある意味でニールセンが長からのお仕置きを避けたいのと同じような理由で、イエロは幻影に触れるのを諦める。
「ほら、元気出しなさい。幻影で守っているということは、あの洞窟は穢れの関係者にとっても重要な場所の可能性が高いわ。あの小屋では何も見つけることが出来なかったけど、この洞窟はわざわざ幻影を使ってまで隠してるのよ? 洞窟の中に重要な何かがあるのは間違いないわ。それとも、洞窟を抜ければ、穢れの関係者の本拠地があるという可能性もあるかもしれないし」
自分達は偵察という役目をしっかりとこなした。
そうニールセンは思っている。
当初の予定とは違うものの、降り注ぐ春風の妖精郷の近くにあった穢れの関係者の拠点よりも、更に重要拠点と思しき場所を発見したのだ。
妖精郷の近くの拠点は男によって完全に破壊……いや、消滅させられてしまっているが、その代わりという意味ではこれ以上ない場所となる。
だからこそ、ニールセンはもう偵察を終えてもいいのではないか。これ以上深入りはしない方がいいのではないかと思っていた。
「イエロ、戻るってことでいいわよね?」
「キュウ……」
ニールセンの言葉にイエロは残念そうにしながらも喉を鳴らし、だがそれ以上は反論を口にせず、戻るということに納得する。
「ほら、戻ると決めたのならさっさと行くわよ。ここにいて、穢れの関係者に見つかるもしれないし」
戻ると決めた以上、いつまでもここにいる訳にはいかないと言うニールセン。
イエロもそんなニールセンの様子にこれ以上は反論をするような真似も出来ず、やがて戻ることに同意する。
「後は、ここにまた戻ってくるように覚えておけばいいわね」
ここには初めて来た以上、何らかの目印を用意しておく必要があった。
しかし、目印になるような物は特に何もない。
「これ……またここに来ることが出来るのかしら?」
「キュウ!」
困ったように呟くニールセンだったが、イエロはそんなニールセンの言葉に任せて欲しいと喉を鳴らす。
自分のいる場所をしっかりと分かると示すイエロ。
ニールセンはそんなイエロの言葉を信じてもいいのかどうか若干迷ったものの、考えてみればイエロはドラゴンなのだ。
なら、ドラゴンの持つ超感覚か何かでこの場所をしっかりと覚えているという可能性も否定は出来ない。
また、ニールセンはすっかり忘れていてたものの、エレーナにはイエロの記憶を見ることが出来るという能力がある。
それを使えば、エレーナがこの場所を特定するのは難しい話ではない。
そこまではニールセンも分からなかったが、とにかく自分がやるべき仕事はきちんと果たした。
半ば、無理矢理にだが自分にそう言い聞かせる。
実際、敵の本拠地……かどうかは分からないが、何か重要な場所であるのは間違いない場所は見つけたのだから、そういう意味ではニールセンの判断は間違っていないだろう。
「取りあえずこの場所のことを教えれば、長も満足してくれるわよね。……もっとも、レイをどうやってここに連れてくるのかという問題もあるけど」
現状において、穢れを倒すことが出来るのはレイとエレーナだけだ。
だが、エレーナは貴族派の重要人物である以上、そう簡単に連れ出せる訳ではない。
そうである以上、基本的に穢れを倒すのに動くことが出来るのはレイだけとなる。
錬金術師達に頼んでいる結界のマジックアイテムが上手い具合に完成していれば、穢れを隔離して餓死するのは待てばいいだけなので、それなりに勝算は大きくなるのだが、ニールセンにしてみればそんな簡単にマジックアイテムが完成するとは思っていなかった。
妖精の作るマジックアイテムに比べると、錬金術師の作るマジックアイテムはかなり短期間で作れるというのは知っているが、それでも限度があるだろうと。
「とにかく、その辺については長に考えて貰えばいいし……戻りましょうか」
「キュウ!」
ニールセンの言葉に、イエロは任せてと喉を鳴らすのだった。