3192話
黒い円球を前にして、そこから逃げ出すのを相談している小隊長達だったものの、不意に聞こえてきた声に、小隊長達は息を呑み、反射的に声の聞こえてきた方に視線を向ける。
そこにいたのは、二十代程の若い男。
その男は口元に笑みを浮かべつつ、小隊長に向かって口を開く。
「ここに来てみれば森がこの有様だったので、一体何があったのかと思ったのですが……どうやら、貴方達が原因でこのようなことが起こった訳ではないようですね」
「何者だ?」
小隊長は黒い円球が妙な動きをしたら即座に行動に出られるようにしながら、男に尋ねる。
同時に男の言葉を思い出しながら、疑問を抱く。
(この男の様子からすると、黒い円球と何らかの関係があると思われる。だとすれば、巨大な鳥のモンスターと戦ったのは、この黒い円球という訳ではないのか?)
そんな小隊長の視線を受けても、男は特に気にした様子はなく口を開く。
「わざわざ自分の正体を教えるとでも? 生憎と、そこまでお気楽な考えはしてませんよ」
「つまり、それは俺達の敵だと言いたいのか?」
「ええ、勿論その通りです。……いえ、私には仲間以外には敵しかいません。だからこそ……力を貰える」
「は?」
男の言葉の意味が分からない様子の小隊長。
話が全く繋がっていないように思え、それによって混乱する。
しかし、その混乱も長くは続かない。……いや、ある意味でより大きな混乱をもたらしたと言うべきか。
男が軽く手を振るうと、どこからともなく……それこそ、まるで転移してきたかのように十匹近い黒い円球が姿を現したのだ。
もしこの場にレイが……いや、あるいは妖精郷の中にいるニールセンがいれば、目を見開いただろう。
レイやニールセン達が知ってるのは、穢れの中に転移能力を持っている個体がいるということだ。
その個体をまず転移させ、それから他の個体が転移能力を持っている個体によって転移をさせられる……というのが、レイやニールセンの認識だった。
しかしこの男は、穢れを使って転移させるのではなく、自分の力でこの場に多数の穢れを転移させたのだ。
それはつまり、この男が穢れの関係者の中でもかなりの実力者で、場合によっては高い地位にいるような相手でもあると予想出来ただろう。
もっとも、小隊長達は穢れについて何の情報も持っていないので、驚くようなことはない。
……いや、単純に黒い円球を複数転移させたというその能力には、十分に驚いていたのだが。
「どうやら、貴方達は私に必要な情報を持っている訳ではない模様。なら、これ以上話をしても無駄でしょう。……死んで下さい」
その言葉と共に、黒い円球は小隊長達に向かって突撃する。
驚くべきは、その速度だろう。
先程までは走れば絶対に追いつかれることがない程度の速度で動いていた黒い円球が、今は結構な速さ……具体的には騎士達が走る速度を上回るくらいの速度で襲ってきたのだから。
「ちぃっ、逃げろ! 一人でもいいからここから脱出して、情報を持ち帰れ!」
叫ぶ小隊長も、自分の言葉通り何とかこの場から離脱しようとする。
何が起きているのか、小隊長も詳しいことは分からない。
分からないが、それでも今のこの状況を思えば、何かとんでもないことが起きているのは間違いなかった。
そうである以上、今は自分達が知った情報を……それが具体的にどこまで正しいのかは分からないが、とにかくその情報を持ち帰るのが最優先事項だった。
騎士達も小隊長の言葉に従い、素早くこの場を離脱しようとするが……
「そのような真似を、させると思うのですか?」
男は冷静に……いや、いっそ冷酷と評した方が相応しいような冷たい視線を騎士達に向けながら、手を振るう。
するとそんな男の行動に合わせたように、黒い円球の群れが動き出す。
「ぐ……」
それを見た小隊長の口から呻き声が上がる。
今までのやり取りから、この男が黒い円球を操れるというのは分かっていた。
完全に意のままに操れるのか、それともある程度だけしか操れないのか。
その辺りは分からなかったが、今の動きを見る限りはかなりの精度で操れると思った方がいい。
小隊長や騎士達にとって、黒い円球は非常に厄介な相手だ。
この場にいるのは、魔法やスキルは使えず、マジックアイテムの類も持っていない者達だ。
……これが最初から強敵と戦うということが分かっていれば、小隊長も魔剣や魔槍といったような武器や、あるいは攻撃に使える何らかのマジックアイテムを用意したかもしれない。
だが、そもそも小隊長達の仕事は、あくまでも街道の見回りだった。
もし敵と遭遇しても、それは盗賊の類か、あるいはゴブリン程度。
そのような相手に強力な武器の類は必要ないと判断したのだが……それが最悪の結果をもたらす。
「くそっ!」
騎士の一人が、このままでは不味いと判断したのだろう。
黒い円球を操っている男に向かって走り出す。
このまま逃げようとしても、黒い円球に追われると逃げ切れるとは思えない。
だとすれば、黒い円球を操っている男を倒してしまえば、全てが解決するだろう。
そう考え、一気に行動に出たのだ。
「ばっ!」
小隊長は唐突な部下の行動を見て、必死に叫ぶ。
黒い円球を操っている男を真っ先に倒すというのは、間違っていない。
しかし、男も当然そのことは承知している筈だ。
その上で、こうして自分達の前に出て来たのだから、何らかの対抗策があってのものだと考えるのは当然だろう。
だが、部下は既に行動に出てしまった。
ここで止めるように言っても、その言葉が届くとは思えない。
なら、今はその可能性に賭ける必要があった。
「援護しろ!」
叫ぶ小隊長の言葉に従い、騎士達は行動に出る。
多数の騎士が攻撃をしてくるのを見ても、男は慌てた様子はない。
それどころか、呆れたような表情すら浮かべ……
「死ね」
その言葉と共に指を軽く動かす。
すると男と騎士達の間を遮るように、新たに十を超える黒い円球が姿を現す。
「なぁっ!?」
まさかそのような真似が出来るとは思っていなかったのか、最初に男を殺そうと動いた騎士は驚きの声を上げつつ、それでも咄嗟に地面を蹴る。
この黒い円球に触れてはいけないというのは、同僚が教えてくれた。
それを無駄にする訳にはいかないと、咄嗟に横に跳んで黒い円球を回避する。
この辺りの咄嗟の判断力は騎士として相応しいだけの実力を持っている証だった。
実際、黒い円球を転移させた男の表情にも、意外そうな表情が浮かんでいる。
あのまま黒い円球に突っ込み、それによって死ぬだろう。
そのように思っていたのだ、それが外れてしまった形だ。
とはいえ、その程度のことで男が動揺することはない。
意外だったのは間違いないが、だからといってそれでも騎士の生きながらえる時間が少し……本当に少しだけ延びただけなのだから。
「意外ですね。こんな場所にいる騎士の腕がそれなりに立つとは」
真っ先に動いた男が横に跳んで男から距離を取ったので、援護の為に走っていた他の騎士達も男から距離を取る。
最初の一手で男を殺せなかったのは痛かった。
しかし、男が黒い円球を自由に操ることが出来る能力を持っていることが判明したのは大きい。
もし何も知らない状態で、唐突に今のように黒い円球を転移させるといったような真似をされた場合、その時は既にどうしようもなくなっている可能性が高かった。
だからこそ、今のうちに相手の手札を晒すことが出来たのは大きい。
大きいのだが、その手札を晒した男は、特に気にした様子もなく騎士達を見ている。
自分が見せた今の力は、特に隠す必要はないものだと。そう言いたげに。
(弓があれば……いや、今更か。俺も知らないうちに鈍っていたか)
冒険者であった時なら、それこそどのような依頼を受ける時も万全の状態になるように準備をしていただろう。
それこそ魔剣や魔槍、もしくは攻撃に使えるマジックアイテムを用意すらしていただろう。
だが、騎士になって出世し、小隊長となった今の自分は、明らかに冒険者だった頃と比べても鈍っていた。
それでも今までは問題なかったが、今こうして実際に目の前に存在する敵を見れば、明らかに自分が鈍っていたと考えるしかなかった
「小隊長、ここは俺達に任せて脱出して下さい!」
真っ先に男を狙った騎士が、長剣を構えつつ叫ぶ。
しかし、そんな声を聞いた小隊長はふざけるなと叫び返す!
「俺にお前達を置いていけってのか!?」
「今はこの男の情報を持ち帰るのを優先するべきです!」
それは正論だった。
それも、小隊長も咄嗟に言い返せないような正論。
そんな騎士達の様子を、男は微かに笑みを浮かべつつ眺めている。
この隙に攻撃をしようと思えば出来るだろう。
だが、相手が万全の状態で叩きのめしたい。
そう思っての待機だった。
……何か自分の知らない情報を入手出来る可能性が高いかもしれないというのも、この場合はあるのかもしれないが。
勿論、話を聞いた上で騎士達を逃がすつもりはない。
間違いなくこの場で全員殺すつもりだった。
小隊長や騎士達が何をしようとも、絶対に全員を殺すことが出来る。
そのような自信があるからこそ、男はこうして余裕があるのだろう。
小隊長達も、当然だがそんな男の目論見については理解している。
しかし、それでも今の自分達にとって都合がいいので、それを口に出すような真似はしなかったが。
「ここで小隊長まで死んだら、どうするんですか? それこそ、意味がないじゃないですか!」
「それは……だが、別にそれなら俺が行く必要はない。忘れていないか? 俺はお前達よりも強いから小隊長なんだぞ? なら、こいつを倒すのは俺がやった方がいい」
「小隊長、厳しいことを言いますが……勝てるんですか?」
「……」
勝てるかと部下に尋ねられた小隊長は、何も言えなくなる。
小隊長は自分の強さには相応の自負があるが、だからといって黒い円球を複数使う男を倒せるとは思えない。
いや、黒い円球が存在しなければ男に勝てる自信はあった。
小隊長の目から見て、男は少しは鍛えられているものの、それはあくまでも少しでしかない。
それこそ小隊長は勿論、部下の騎士達であっても黒い円球がなければ、男に勝利出来るだろう。
だが……今の場合、最大の問題はその黒い円球なのだ。
触れただけでその部位が黒い塵となる、そんな攻撃方法を行える黒い円球を複数操る男。
接近さえ出来れば勝てるだろうが、そもそも男の周囲には黒い円球が存在しており、近付くことが出来ない。
ならば、いっそ小隊長と騎士達全員で一気に男に襲い掛かってみるのはどうか。
一瞬そう考えた小隊長だったが、すぐにそれを否定した。
その方法なら、確かに勝てるかもしれない。
だが、それはあくまでも勝てるかもしれないであって、実際に勝てるかどうかとなると、かなり分が悪いだろう。
それで勝てればいいが、運が悪ければ……いや、かなりの確率で全滅してしまうだろう。
この男の情報を知らせる為にも、ここで全滅するといった真似は出来なかった。
「すまん」
結局小隊長の口から出たのは、その一言だけ。
手塩に掛けて育ててきた部下を、ここで殺してしまうのは悔しい。
それこそ心の底から叫びたくなるような悔しさを持っていたが、それでも今は自分の感情を押し殺してでも行動に移るべきだった。
「おや、もういいのかい? 最期の別れの時間なんだ。もう少し待ってもいいんだけど」
「……ふんっ、そうやって意味もなく他人を見下してるから、足下を掬われるんだよ!」
騎士の一人が叫びつつ、素早く短剣を投擲する。
そこまで素早い一撃という訳ではなかったが、それでも一般人では回避出来ない速度で投擲されたのだが……その短剣は、男を守るように前に出た黒い円球が受け止め、黒い塵にして吸収する。
そして黒い円球の……いや、穢れの性質として、自分を攻撃した相手を敵と認識して攻撃を行うべく行動を開始した。
(ん?)
小隊長も、そして実際に短剣を投擲した騎士を含めて他の騎士達も、そんな黒い円球の速度に疑問を抱く。
男がコントロールしている黒い円球は、かなりの速度だった。
だが、短剣を投擲した騎士に向かう黒い円球の速度は決して速くはない。
それこそ、最初に見た時と同じようなものだった。
何故か。
そう考えた小隊長は、すぐにとある結論に達する。
男が直接黒い円球を操れば、速いのだろう。
それ以外の場合……黒い円球が自分の判断で動く場合の速度は決して速くないのだろう。
(この情報だけでも、大きな意味を持つ。必ず……必ずこの情報を知らせる必要がある)
小隊長は真剣な表情でこの場を脱出する方法を考えるのだった。