3153話
最後の黒い円球が消えたところで、オイゲンは大きく息を吐く。
これで湖の側に存在する炎獄の中にいた黒い円球は、その全てが消滅してしまった。
ある意味で一段落したと、そうオイゲンが思ってもおかしくはない。
「さて、それで炎獄はどうする? 一応オイゲンの予想では大丈夫なんだろう?」
最初にオイゲンが、黒い円球が死んだ時に周囲に何らかの被害を与える有毒の気体を放つかもしれないと、そう口にしたのだ。
レイはそれに半信半疑だったものの、オイゲンがそう言うのならもしかして……という思いがなかった訳でもない。
レイとしては、自分が魔法で倒した時はそのような気体はなかったので、大丈夫だと思っていたのだが。
ただ、オイゲンからそれはレイの魔法の威力が高すぎて、それによって有毒の気体も燃やされてしまったのではないかと、そう言われてしまえば、レイとしてもそれを否定は出来ない。
実際にそうしなければ穢れを倒せない以上、レイも手を抜く訳にはいかなかったのだから。
「解除しよう。ただし……解除する際には私以外の全員が炎獄から離れて貰う」
「ちょっ、オイゲン様!?」
オイゲンが口にした内容に、それを聞いていた助手は慌てて叫ぶ。
助手にしてみれば、まさかオイゲンがそのようなことを言うとは思ってもいなかったのだろう。
慌てたようにオイゲンに向かって口を開く。
「もしかしたら有毒な気体があるかもしれないんですよ? なのに、何故それをオイゲン様が引き受ける必要があるんですか!」
「私が可能性を示唆したことだからだ」
助手の言葉にそう言うオイゲン。
部下思いなのか、それとも本人が口にしたように、自分が口にしたことだからなのか。
その辺の理由はレイにも分からなかったが、それでもレイとしてはオイゲンのその言葉に素直に頷く訳にもいかない。
「あまり助手を苛めるなよ。……それに、俺が言うのも何だけど、オイゲンがいるから野営地組の研究者はそれなりに上手くいってるんだろう? なら、肝心のお前が自分から危険な目に遭うってのはどうかと思うぞ」
レイの言葉に、それを聞いていた他の者達も納得するように頷く。
それは研究者、助手、護衛構わずにだ。
実際にオイゲンが研究者達を上手い具合に纏めているからこそ、そこまで大きな問題が起きていないのは事実。
……護衛と野営地の冒険者の間で、一触即発の事態があったのは間違いないが。
ただ、言ってみれば起きた問題はその程度のものでしかないのも事実。
今のこの状況において、それは幸運なことなのは間違いなかった。
「分かった、分かりました! そこまでオイゲン様が言うのなら、私が……」
「おっと、ちょっと待ってくれ。そういうことなら、私がやろう」
オイゲンの助手がオイゲンにやらせるのなら自分がと、そう言おうとした時、不意に別の声が割り込んでくる。
その声の主に、その場にいた皆が視線を向けると、そこには自分の助手と護衛、それ以外にも数人の研究者を従えたゴーシュの姿があった。
「ゴーシュ様?」
まさかここでゴーシュが出てくるとは思わなかったのか、オイゲンの助手は驚いた様子でその名前を呼ぶ。
いや、驚いているのはオイゲンの助手だけではなく、他の者達も同様だ。
穢れの研究をするのなら、オイゲンの指示に従うこと。
そうレイが条件を出し、それを聞いたゴーシュは他の研究者達に話してみると言って離れて行ったのだが。
実際のところ、穢れの研究をする上で必ずしもレイの許可がいる訳ではない。
だが、穢れの研究をする上でレイの協力……具体的には炎獄の存在は必須である以上、レイの言葉を無視することは出来ない。
もっとも、レイがダスカーに頼んだように、錬金術師達が穢れを捕らえる為の結界のマジックアイテムを作る筈なので、そういう意味ではレイだけに任せるといった必要はないのだが。
ともあれ、ゴーシュがこの場に出てくるというのはレイにとっても完全に予想外だった。
「話については聞いていた。だから、私が今回の一件を試してみよう。その代わり、この件が無事に終わったら私達にも、もう少し研究をする上での自由が欲しい」
そう、告げるゴーシュ。
ゴーシュの言葉に、レイは納得する。
ゴーシュにしてみれば……いや、ゴーシュ以外の研究者達もそうなのだろうが、オイゲンの指揮下で研究をしたくなかったのだろう。
レイにしてみれば、そこまで嫌なのか? と思わないでもなかったが。
ただ、ゴーシュがこのように言っているということは、つまりそういうことなのだろう。
とはいえ、レイにはその理由は分からなかったが。
オイゲンの指揮下で研究をするのはそこまで嫌なのか? と思うレイだったが、その辺については冒険者の自分には分からない何かがあるのだろうと判断する。
「オイゲン、どうする?」
「ふむ。……彼の考えも理解は出来る」
理解出来るのか。
そう突っ込みたくなるレイだったが、ここでそのような真似をすれば、それはそれでまた面倒なことになりそうだったので黙っておく。
「なら?」
「ゴーシュの意見を認めよう。幸い、有毒な気体について存在する可能性は決して高くはない。ゼロではない以上、もしかしたらということはあるかもしれないが」
そう告げるオイゲンに、ゴーシュは分かっているといったように頷く。
「私は認めてもいいと思う。後はレイ次第だが、どうする?」
そう言い、レイに視線を向けるオイゲン。
その視線を受けたレイは、少し考えただけで頷く。
「分かった。それでいい。ただ……言うまでもないと思うが、研究者同士で下らない争いをしたり、妙なことをした場合は相応の処置となるぞ。それでも構わないか?」
元々レイとしては、そこまで気にするような必要はない。
ゴーシュが問題ないと考えたのなら、レイにとっても特に問題はないのだ。
もっとも、だからといって面倒なことになるのはごめんなので、今のようにある程度の条件はつけたが。
そしてレイの条件にゴーシュは頷き……話が決まると、早速炎獄を解除することになる。
ゴーシュだけが炎獄の側に残り、それ以外の全員は大きく距離を取る。
「グルゥ?」
そんな様子に、湖で遊んでいたセトも興味を持ったのだろう。
レイの側に近づいてくる。
ゴーシュが連れて来た者達がそんなセトの姿に騒いでいたが、レイにしてみれば何故今更セトの存在でそこまで驚く? と疑問を抱く。
ゴーシュ達は以前から湖を色々と調べていた。
その時、レイが湖にやって来ることもそれなりにあり、その時にセトを間近で見ていた筈なのだ。
そうである以上、セトの存在にそこまで驚くこともないだろうにと、そうレイが思うのも当然だった。
「レイ、準備が出来たようだぞ」
セトの件について考えていたレイは、オイゲンの言葉で我に返る。
その言葉に改めて炎獄のある場所を見ると、炎獄の側にはゴーシュが立っており、レイに視線を向けていた。
いつでも炎獄を解除してもいいと、そう視線で訴えている。
「じゃあ、炎獄を解除するぞ!」
そう叫び、ゴーシュが頷くのを見たレイは炎獄を解除するようにと考え、指を鳴らす。
解除するだけなら考えるだけでもいいのだが、そうすると日常生活の中でふとした考えによって炎獄が解除される可能性がある。
そのようなことにならない為、炎獄を解除しようと考えつつ、指を鳴らすことによって初めて炎獄が解除出来るようになっていた。
なお、解除方法は考えながら指を鳴らすだけではなく、他にも色々を魔法に組み込むことが出来る。
今回はたまたまこうだっただけだ。
レイのそんな行動によって、三匹の黒い円球が入っていた炎獄は解除される。
ゴーシュは真剣な表情でその場に立っていたものの……数秒、そして十数秒、一分、数分……それだけの時間が経過しても特に異常はない。
「ゴーシュ、問題ないか!?」
レイが尋ねると、ゴーシュは少しだけ拍子抜けした様子で頷く。
「ああ、何も問題はない! ちょっと予想外だったけど、これはこれで悪くないな!」
元々有毒な気体がある可能性は低いとレイは思っていたし、オイゲンもそのようなことを言っていた。
だが、それでもやはり何かがあるかもしれないと思えば、恐怖を感じてもおかしくはない。
だが、ゴーシュは見事にその恐怖を乗り越えた。
「よし、行こう。どうやら何も問題はないらしい」
「……毒が回るまで時間が掛かるという可能性もありますが?」
オイゲンの助手が心配そうに呟く。
黒い円球は完全に未知の存在だ。
そうである以上、死んだ後に出るかもしれない有毒な気体の効果が発揮するまで時間が掛かるという可能性は十分にあった。
だが、オイゲンも助手のそんな意見に対して首を横に振る。
「そうかもしれない。だが、ゴーシュをあのようにしている以上、私も怯えて後ろにいる訳にもいかない」
そう言われると、助手も反論は出来ない。
ここで動かなければ、ゴーシュに研究者達の信奉が集まる可能性があるのは間違いないのだ。
そうである以上、オイゲンの言葉に反論は難しい。
助手が黙ったのを見ると、オイゲンはゴーシュに向かって近付いていく。
助手はそんなオイゲンの様子に不満そうな様子を見せるが、オイゲンの判断が決して間違っている訳でもない以上、何かを言うような真似も出来ない。
代わりに、もしオイゲンに何かがあったらすぐにでも炎獄のあった場所から引っ張ってこようと考えながら。
ごくり、と。
オイゲンがゴーシュのいる方に向かって近付いて行くのを見た誰かが喉を鳴らす。
もしかしたら、何かが起きるかもしれない。
そのように思いながら見ていたが、オイゲンは特に気にした様子もなくゴーシュの側に到着した。
「さて、どうかな?」
「特に身体に異変はない。まだ完全にとは言えないが、それでも恐らくは大丈夫だと思う」
「なるほど。……元々そのようになる可能性は低かったとはいえ……」
「それでもゼロではなかった以上、私の献身は認めて貰えたと思っても?」
ゴーシュの言葉にオイゲンは頷く。
自分の身体を使って毒がないかどうかを確認したのだ。
そうである以上、それに対して否と言える訳もない。
「分かった。先程レイといた時に話したように、完全に私の指揮下という訳ではなく、自由に研究をしてもいいと認めよう」
オイゲンのその言葉に、ゴーシュは笑みを浮かべる。
これでこそ自分が身体を張った甲斐があった、と。
同時に、今回の件はゴーシュにとって自分の派閥に対する影響力の強化にも役立っている。
もしここでゴーシュが身体を張らなかった場合、ゴーシュ達は完全にオイゲンの指揮下に入っていた可能性が高い。
それを完全にではないにしろ、以前と比べると明らかに自由度が高くなったのだ。
それをもたらしたのがゴーシュである以上、ゴーシュの派閥の研究者達もゴーシュに強く出ることは難しくなった。
具体的には、もし野営地でレイやオイゲンにその指揮下で研究をしろと言われた場合、ゴーシュの一存でそれを受け入れるなり、拒否をするなりしても問題はないくらいに。
そういう意味では、ゴーシュは今回の件で身体を張った甲斐は十分にあったのだろう。
「さて、取りあえずは黒い円球が死んでも問題はないと判断された。これからの件がかなり便利になったのは間違いないな」
オイゲンはしみじみと呟く。
これから穢れの研究をする上で、捕らえた穢れが死んでから炎獄を解除するというのは、オイゲンにとってもそれなりに助かることだった。
炎獄そのものは、別に触れても問題はない。
だが、そこに炎獄があるというだけで、色々と気になってしまうのも事実。
そのようなことにならないようにする為には、やはり炎獄で捕らえた穢れが死んだ後は、炎獄を消去してしまった方がいい。
「オイゲン、ゴーシュ、取りあえずこれからどうするんだ? やっぱりもう片方の炎獄に向かうのか?」
二人に近付いたレイが、そう尋ねる。
その言葉で二人が揃って我に返り、当然といった様子で頷く。
「私は炎獄というのをしっかりと見たことはない。……いや、先程消滅する寸前のは見たが、穢れが捕らえられているところは見たことがない」
そのように言うということは、ゴーシュも炎獄がどのような存在なのかをしっかりと理解している証だろう。
ここに来る前に炎獄がどのようなものなのか、野営地でしっかりと情報を集めたのか、あるいは野営地で寝泊まりをしている研究者の中にゴーシュと親しい関係にある者がいるのか。
その辺りについては生憎とレイにも分からなかったが、とにかくゴーシュがその辺りについての情報をしっかりと持っているのは明らかだった。
「なら、取りあえず全員でもう一つの方に行くか。向こうならそこまで問題はないと思うし」
レイのその言葉に異を唱える者はいなかった。
野営地の研究者の中には色々と言いたい者もいたかもしれないが、オイゲンが何も言わない以上、自分が何を言っても無駄だと判断したのだろう。