3115話
「ちょ……これが本当にあの巨大なスライムの子供なんですか!?」
研究者の一人が、湖の側で驚きの声を上げる。
研究者の視線の先にいるのは、赤いスライム。
レイの魔法に対抗していたものの、黒いサイコロの攻撃によってダメージを受けて、魔法への対抗能力を失った結果、焼き殺されてしまった巨大なスライムの子供、もしくは生まれ変わり……あるいは他にも何か呼び方があるのかもしれないが、とにかくそのような存在だった。
「俺はそう認識している。ただ、それはあくまでも俺の認識だ。巨大なスライムや、あの赤いスライムと意思疎通が出来る訳じゃない以上、確実にそうだとは言えない」
研究者に言葉を返しながら、レイは湖の側で寝転がっているセトと、水面に浮かびながらニールセンを追い掛けている赤いスライムを見る。
オイゲンに穢れを捕らえる魔法を見せ終わったのが、一時間程前。
レイの魔法には色々と欠点があるものの、それでも穢れを捕らえることが出来るようになったというのは、オイゲンにとって非常に大きな出来事だったのだろう。
現在はマジックテントの中に入って、どうやって穢れを研究するのかといったことを考えていた。
そんなオイゲンと一緒に行動している研究者もいたが、全員がそうだという訳ではない。
オイゲンに逆らうといったことを考えている訳ではなく、研究に対するスタンスが違うのだろう。
そんな研究者は、何となく湖に向かう。
理由としては湖の存在が気になったからだろう。
元々、オイゲンを含めた研究者達は異世界から転移してきたというこの湖の研究をする為にやって来たのだから、湖に足が向くのもおかしな話ではない。
そうして湖にやって来たところで、ゆっくりとしているレイ達を、そして赤いスライムを見つけたのだ。
「ああして見ると、ニールセンを追い掛けているのは間違いないですが……ただ、あれは本気じゃないですよね?」
「本気?」
「はい。具体的には、ニールセンを捕食しようとしているとか、そんな感じで」
「そういうのはないと思うし、もしあってもニールセンをどうにかするのは難しいと思うぞ」
レイと一緒に行動している時のニールセンは、かなり頼りないように思える。
しかし、実際にはニールセンは現在妖精郷の中でも長に次ぐ力を持ち、長から自分の後継者と見なされている人物だ。
スモッグパンサーの素材を手に入れる為の旅で覚醒し、妖精の中でも一段上の存在となった。
……だからといって、長に勝てる訳でないのは、長とニールセンの関係を見れば明らかだったが。
だが、レイの言葉を聞いても研究者はニールセンにそこまでの力があるとは思えない。
「そうなんですか?」
「お前には信じられないかもしれないが、そういう存在なのは間違いない。……いつか、その力を見ることが出来る時がくるかもしれないな。もっとも、そういう時はない方がいいんだろうけど」
ニールセンが力を発揮するとなると、恐らくそれは追い詰められた時だろう。
そうなるということは、研究者達にとって決して都合の良い状況ではない筈だった。
何しろ、ニールセンは研究者達を嫌っている。
一部の研究者達が妖精ということでニールセンに向けた視線は、それだけニールセンにとって面白くない視線だったのだろう。
この研究者のように、ニールセンに興味はあっても、嫌な視線を向けないような者もいるのだが。
「もしあの赤いスライムがニールセンを襲っているのではなく遊んでいるのだとしたら、随分と知能が高そうですね」
「こっちに友好的な存在なのは間違いないが、知性が高いかどうかまでは……どうだろうな。巨大なスライムが焼け死んであの赤いスライムが生まれてきた時に、ニールセンは俺と一緒にいた。その時に俺の仲間として、赤いスライムの中に刻み込まれた可能性がある」
「ああ、そう言えば鳥が……」
「そんな感じだな。スライムにも刷り込みというのがあるのかどうかははっきりと分からないが」
鳥の雛は、生まれて最初に見た相手を親だと思うという。それが刷り込みと呼ばれている現象だ。
赤いスライムにそれと同じ習性があるかどうかはレイにも分からなかったが、それでも今の状況を考えると、それと似たような状況になっていないとも限らない。
「刷り込みですか。……モンスターの中にもその手の習性がある個体はそれなりにいます。そういう意味では、あの赤いスライムが同じでも……うーん、それでも確実に納得するといった真似は出来ませんね。何しろ異世界の湖に棲息するモンスターなのですから」
研究者の男にしてみれば、自分達の世界で通用する常識であっても、それが異世界でも通用するのかどうかという疑問がある。
そんな男の様子に、レイはどう反応すればいいのか迷う。
この世界しか知らない男にしてみれば、そのように思ってもおかしくはないと理解している。
しかし、日本……いや、地球の存在を知っているレイにしてみれば、地球とこのエルジィンでも同じようなことはそれなりあるのを実感として理解しているのだ。
そうである以上、異世界から転移してきた湖のモンスターに刷り込みがあっても理解は出来る。
だからといって、その件について話す訳にはいかなかったが。
「そういう現象があるかどうかは、すぐに分からなくても、このまま研究を続けていけば分かるんじゃないか? もっとも、そうなるとギルムに腰を据える必要があるけど」
「それは……嬉しいような、残念なような、微妙なところですね。ギルムは辺境だけに、研究者として色々と興味深い存在があるのも事実です。しかし、だからといってギルムに留まり続ける訳にいかないですし」
何故? とレイは男の言葉に純粋な疑問を抱く。
しかし、男の様子を見る限りでは何か理由があってそのように言ってるのは間違いない。
そして理由がある以上、レイが尋ねてもそれに答えるとは限らない。
あるいは何かに困っている状況でレイに事情を説明するといった可能性も否定は出来ないものの、そのような真似をすると男の事情に巻き込まれてしまう。
レイとしては、正直なところそれはごめんだ。
以前から親しい付き合いをしていた友人とかならともかく、この研究者とは会ったばかりなのだから。
「そうか。それは残念だな。ギルムには他とは違って色々と面白い場所があるんだが」
「それは……分かってます。純粋に羨ましいとは思います。ただ……あ、見て下さい。赤いスライムがこっちに向かって来ますね」
男が話の途中で急に話題を変えたのは、純粋に赤いスライムが自分達の方に向かって泳いでくるのを見たからか、それとも男がこの話題を続けたくなかったからか。
レイにしてみればどちらでもいいので、取りあえず面倒なことにならないよう、その話題に乗っておく。
「ニールセンを追い掛けるのを止めたみたいだな。追いかけっこは飽きたんだろう。……そもそも、空を飛んでいるニールセンと泳いでいる赤いスライムだと移動速度に差がありすぎて、追いかけっこをするというのがそもそも無理だっただろうし」
赤いスライムも何気に泳ぐ速度はかなり速い。
しかし、それでもやはり空を飛ぶニールセンに追いつくといったことは不可能なのだ。
勿論、ニールセンもその辺りの事情については十分に理解しているので、赤いスライムが追いつけるかどうかといった速度で空を飛んでいたのだが。
やがて岸に到着した赤いスライムは、球体状になってピョンピョンと跳ねながらレイの方に近付いてくる。
(あれ? 以前見た時は普通の……こういう球体じゃなくて、液体に近い感じのスライムだったと思うんだが。……まぁ、こういう方が可愛らしいから、いいけど)
赤いスライムが一体どういう風になってこのような状況になっているのかは、生憎とレイにも分からない。
分からないが、それでも今こうしてレイの目の前にいる赤いスライムは球体状になっており、普通の……それこそダンジョンで見るようなスライムと比べると、明らかに違う存在なのは間違いなかった。
「え? これは……」
レイは単純に愛らしくなったといったことで満足したものの、男は研究者として疑問を抱く。
水で泳いでいる時は液体状の……一般的なスライムと同じ形だったのに、何故陸上に上がるとこのような形状になるのか。
男の知っているスライムの中には、そのような存在はいない。
勿論、男もこの世界に存在する全てのスライムを知っている訳ではない以上、絶対にこの世界にそのようなスライムがいないとは言い切れないのだが。
「ほら、こっちだ」
男が呆然と赤いスライムを見ているのを気にした様子もなく、レイは掌を赤いスライムの近くに出す。
すると赤いスライムは、ピョンと軽く跳躍してレイの掌の上に乗った。
その様子は、愛らしいと呼んでも否定されることはないだろう。
「大丈夫なんですか?」
「さっきも言ったけど、一種の刷り込みみたいな感じになってるらしいから、襲われるといった心配はないと思う」
自分の前世、あるいは親。そんな巨大なスライムを殺したレイだというのに、赤いスライムは普通に懐いている。
レイにしてみれば、そんな赤いスライムに若干思うところがない訳でもなかったが。
(多分だけど、俺がその気になればテイムとか出来るよな。ここまで懐いているんだし。とはいえ、異世界の存在をテイムするのは色々と不味いだろうし)
そう思うレイだったが、ゾゾのことを完全に忘れていた。
現在、生誕の塔に住んでいるリザードマンについて何も知らない者達に対しては、表向きゾゾをレイがテイムしたという扱いになっている。
レイとしては、言葉が通じて自分に忠誠を誓っているゾゾをテイムしたという扱いにするのは若干思うところがあるのだが……ゾゾ本人は、それを気にしていない。
いや、寧ろレイにテイムされたということになっているのを、喜んですらいた。
そういう意味ではレイが気にする必要はないのかもしれないが、それでも今の状況を思えば、レイにも色々と思うところがあるのは間違いなかった。
掌の赤いスライムを見ていたレイだったが、不意に顔を上げる。
視線が向けられた先にいるのは、水狼。
なお、寝転がっていたセトも顔を上げ、レイと同じく突然姿を現した水狼を見ていた。
先程まで赤いスライムと追いかけっこをしていたニールセンは、突然姿を現した水狼に驚いた様子を見せ、急いでレイのいる方に向かって飛んできていた。
赤いスライムを観察していた男も、不意にレイの雰囲気が変わったのに気が付いたのだろう。
顔を上げ、レイの視線を追い……
「うわっ!」
それで初めて水狼の存在を察知したのか、男の口からは驚きの声が上がった。
男にしてみれば、まさか水狼のような存在を間近で――それでも結構距離があるのだが――見ることが出来るとは思っていなかったのだろう。
「安心しろ。水狼はこっちに友好的な存在だ。攻撃してきたりはしない。……こっちから妙な真似をしない限りは、だけどな」
水狼は以前と同じように大きな存在感を発している。
しかし、研究者はそんな水狼の存在感に気が付いた様子はない。
生誕の塔の護衛として配置されている冒険者なら、水狼の能力を察知したりといったことも出来るだろうが、研究者にそれを感じろという方が無理なのだろう。
それでもいきなり姿を現した水狼を前に、レイの言葉で多少は落ち着いた様子を見せたものの、どうすればいいのかといった視線をレイに向ける。
「レイさん、この状況からどうすればいいですか?」
「そうだな。取りあえず……こいつか?」
水狼の視線が自分に……より正確には自分の手に向けられているのに気が付いたレイは、一応の確認の為に赤いスライムを持ったまま、その手を動かす。
すると水狼はそんなレイの手を追うように、視線を動かした。
そんな水狼の様子を見れば、何の為に水狼が前に出て来たのかは考えるまでもなく明らかだ。
(考えられるとすれば、赤いスライムが湖から……もっと正確には水から出たから、水狼が姿を現したのか? もしかして、赤いスライムが連れていかれると思ったから出て来たとか? で、実際に出て来てみたら、そこにいたのは俺だったとか。……うん。可能性はあるよな)
あくまでもこれはレイの思いつきで、実際にそうだと決まった訳ではない。
訳ではないが、それでも今の状況を思えば恐らくそう間違っていないのだろうとは思う。
「ほら、水狼も心配してるだろうし、そろそろ戻れ」
水狼がどう考えているのかは分からないが、とにかくこのまま赤いスライムを持っているのは危険だと判断したレイは、湖に赤いスライムを戻すのだった。