3077話
湖から戻ってきたレイは、野営地の中を適当に歩き回る。
ニールセンの姿はレイの隣にあるが、セトの姿はない。
いつもならセトはレイの側にいるのだが、今は珍しく自分だけになりたかったらしい。
何が原因なのかは、考えるまでもない。
野営地に戻る途中で遭遇した、ゴブリンの集団だろう。
正確には、そのゴブリンの集団によってなぶり殺しにあった狼の子供か。
「いいの、セトを放っておいて」
ニールセンもセトのことを考えていたのか、このまま放っておいて本当にいいのか? とレイに尋ねる。
それは純粋にセトを心配しているというのもあるが、それと同時にセトがいれば自分に集まる興味が分散するといった打算もある。
昨日のように妖精好きの冒険者達に追われるようなことはないが、それでも視線は向けられるのだ。
しかし、セトがいればそちらに向けられる視線も多く、自分に向けられる視線は少なくなる。
「構わない。たまにはセトも自分だけになりたい時もあるだろ。今みたいに」
そう言うレイにニールセンは少し不満そうな様子を見せるも、実際に狼の子供が死んでいる光景を目にした以上は不満を言うようなことも出来ない。
セトほどではないにしろ、ニールセンも妖精郷にいる狼の子供達には親しみを感じているので、セトの気持ちが分からないでもないのだから。
「レイがそう言うなら、それでいいわ。……けど、これからどうするの? また模擬戦? まぁ、レイが模擬戦をやってると私に構うような相手がいなくなるから、そう悪い話でもないんだけど」
「昨日の今日で模擬戦はちょっとな。俺の方はともかく、俺と戦う連中の方が結構厳しいだろ」
ここにいるのは冒険者の中でも精鋭と呼ぶべき者達だったが、レイとの模擬戦においてはそんな精鋭達でもかなり精神的に消耗する。
レイが本来の得物であるデスサイズや黄昏の槍ではなく、模擬戦用の武器でも使えばもう少し話は違うのだろうが。
ただ、模擬戦用の武器と本物の武器のどちらを使った模擬戦の方が効果が高いのかは、考えまでもない。
精神的なだけではなく、実際に戦う以上は体力的な意味でも相応に消耗するのは間違いない。
とはいえ、もしレイが模擬戦をやらないかと誘えば、向上心の高い者が多いので模擬戦に参加する者は多いだろうが。
ここで体力を消耗した結果、本来の仕事の生誕の塔の防衛が失敗したら意味はない。
「ふーん。じゃあ、何をするの? 今のところ……レイ」
話してる途中で不意にニールセンが表情を変える。
今までは普通に会話をしていたのが、緊張した様子を見せたのだ。
そんなニールセンの様子に、レイもまた何かあった……いや、何があったのかを瞬時に理解し、真剣な表情で尋ねる。
「穢れだな? それでどこに出た? 樵達の方か?」
今のこの状況で一番危ないのは、樵達だ。
護衛の冒険者がいても、それを倒すことが出来ない以上は逃げるしか出来ない。
せめてもの救いは、既に護衛の冒険者達も穢れについての知識があり、その習性を理解していることだろう。
穢れは非常に危険な存在なのは間違いないが、その性質が分かれば対処出来ない訳ではない。
……もっとも、その対処を失敗すれば致命的な結果を招くことになりかねないが。
今までの経験から、恐らく樵達の側に出たのだろうとレイは予想したのだが……ニールセンは、そんなレイの言葉に首を横に振る。
「いえ、違うわ。これは……人が誰もいない場所に現れたみたい」
「……何だそれは?」
「私に聞かれても分かる訳がないでしょ。そもそも穢れの考えなんか私に分かる訳がないんだから」
不満そうに言うニールセンに、レイも反論は出来ない。
実際、穢れも……そして穢れをトレントの森に送り込んでいるのだろう穢れの関係者が何を考えているのかも、レイにも分からないのだから。
「そうだな、悪い。それで場所はどこだ?」
「東側の方、それもここからだと相当遠くになるみたいよ」
「具体的には?」
「森の端くらいかしら」
「それは……」
このトレントの森は、かなりの広さを持つ。
そんな中でレイ達がいまいる生誕の塔から東側にある森の端の方となると、普通に歩いて移動した場合は森で歩きにくかったり、モンスターや動物に襲撃されたりといったことを考えると一日や二日……あるいはもう少し掛かってもおかしくはない。
それくらいなら、いっそ森から出て大きく回り込んで移動した方が速いだろう。
だが、それはあくまでも普通の場合だ。
「セト!」
先程は一人……いや、一匹だけにしておいた方がいいと口にしたレイだったが、このような状況になってはセトを放っておく訳にはいかない。
ここから東の森に向かうとなると、どうしてもそこにはセトの協力が必要となるのだ。
歩いて数日掛かる距離であっても、セトに乗って空を飛べばすぐだ。
だからこそ、レイとしてはセトには少し悪いと思うがその名前を呼ぶ。
「グルルルルゥ!」
レイの声が聞こえたのだろう。
セトが鳴き声を発しながらレイの方に向かってくる。
そんなセトの様子に、当然だが野営地にいた冒険者達は一体何があったのかと思って集まってくる。
「レイ、一体どうした!?」
冒険者達に指示を出している男が、レイに向かってそう声を掛けてくる。
「穢れがまた現れたらしい。それもここや樵達じゃなくて、森の東側に。詳しい話は後でな」
詳しい話を説明したいところだが、長からの情報があった以上は出来るだけすぐに穢れを倒しにいきたい。
ここで無駄に時間を使えば、それだけ穢れが自由に動き回るということを意味しているのだから。
そうならないようにする為には、出来るだけ早く穢れが出た場所に行く必要があった。
幸いなのは、トレントの森の東側は特に誰かが活動している訳でもないということだろう。
それでも……いや、だからこそと言うべきか、穢れを自由にするような真似をさせると、最悪トレントの森の東側に生えている木が消滅しかねない。
「ぐ……分かった。仕方がないか」
冒険者の指揮を執っている男も、現在の状況がトレントの森にとって危険だというのは理解しているのだろう。
レイの言葉に素直に頷く。
「もしどうしても事情を聞きたい……いや、その目で見たいのなら、セトの足にぶら下がって移動すれば一緒に行けるけど、どうする?」
「それは……興味深いとは思うが、止めておく。指示を出す奴がいなくなると不味いだろうし」
数秒悩み、最終的に男はレイの言葉を却下した。
男にしてみれば、今回の一件には興味があるのだろう。
しかし、だからといってこの場を纏めている自分が行く訳にもいかないといったところか。
その中にはセトの足に掴まって飛ぶのが少し怖いというのもあるのだろうが。
普通に考えれば、セト籠ならともかくセトの足に掴まって飛ぶというのはそう簡単に出来ることではない。
ヴィヘラ達の場合はレイやセトと一緒にすごすことも多く、信頼関係も構築されているので、信じることは出来るが。
……そういう意味では、セト愛好家のミレイヌやヨハンナといった面々も普通にセトの足に掴まって飛ぶことが出来るのかもしれないが。
「なら、詳しい事情は戻ってきてからだな。セトの速度を考えれば、そんなに遅くはならないと思うから安心しろ」
そう言い、レイはセトの背に乗る。
置いていかれては困ると、ニールセンはレイの右肩に立つ。
いつもならレイの側を飛ぶのだが、セトが本気で飛ぶとニールセンも追いつけない。
その為、レイと一緒に行動する為にはレイやセトに掴まっておく必要があった。
「分かった。レイには言うまでもないと思うが……気を付けろ」
その言葉に軽く手を振ると、レイはセトの身体を軽く叩いて合図を出す。
するとセトは数歩の助走と共に翼を羽ばたかせて飛び立つのだった。
「あの辺りだと思うけど……変ね。人がいるわ」
野営地から飛び立って数分も経たず、レイ達はトレントの森の東側にいた。
地上を普通に歩いて移動した時の速度と比べると、その速度の違いは圧倒的だ。
だが……そこまではレイにとっても予定通りだったのだが、そんな中で予想外のことが一つ。
それがニールセンが口にした内容だった。
「人が? ……何でここに人がいる? こっち方面には誰も入ってない筈だぞ?」
トレントの森の西側……ギルムに近い方では、樵達が木の伐採をしていたり、北……正確には北西側では湖や生誕の塔があったりする。
しかし、東側はまだ誰も手を出していない場所だった。
そんな風に最初は少し驚いたものの、同時にすぐに納得する。
「密猟者か」
正確にはその表現は正しくない。
特に何か狩猟が禁止されている生き物がいる訳ではないのだから。
だが、現在トレントの森に入るにはダスカーやギルドからの許可が必要となっている。
それを知った上での行動か、もしくは何も知らないで偶然迷い込んだだけなのか。
可能性として、後者とは考えにくい。
誰かがトレントの森に入らないように、兵士や騎士がそれなりの数配置されているのだから。
そんな中、偶然トレントの森に入り込んだというのは考えにくい。
考えにくいが、だからといってそれでも可能性を切り捨てる訳にはいかなかった。
「どうするの、レイ?」
「助ける。助けるが、色々と事情を聞かないといけないだろうな」
ただし、とレイは言葉を続ける。
「俺が助けに入って穢れを倒してる間、襲われてる連中が逃げ出そうとしたら、魔法で拘束してくれ」
ニールセンの使う魔法は、周囲の植物を操る魔法だ。
森の中の戦闘として考えれば、その能力は非常に高い。
特に相手を拘束するには、これ以上ない程に使いやすい魔法だった。
「捕まえるの? まぁ、レイがそう言うのなら構わないけど。……でも、戦闘中にそんな真似をしたら、穢れに殺されるかもしれないわよ?」
「助けに入った時、逃げないように注意しておく。それを聞いた上で逃げたのなら、しょうがない」
逃げないように注意して、その上で相手が逃げるのなら、それは相手に何か疚しいことがある証だ。
そうである以上、レイとしては拘束されて、その上で穢れによって殺されても仕方がないと判断する。
「レイがそう言うのなら、私は別に構わないけど」
ニールセンがレイの言葉に頷いたところで、話は決まる。
「よし。じゃあ、頼むなセト」
「グルルルルゥ!」
レイの言葉にセトは喉を鳴らし、そのまま真っ直ぐ地上に向かって降下していく。
穢れのいる場所は生憎とセトには察知出来ない。
しかし、木々の隙間から混乱して逃げている冒険者と思しき者達の姿を確認することは難しくない。
そして木の隙間から、黒い何かを見つけるのも難しくはなかった。
「グルルルルルルルルルゥ!」
喉を鳴らしつつ、セトは地上に向かって降下していく。
その背に乗っているレイは、既にミスティリングから武器を取り出し、右手にデスサイズ、左手に黄昏の槍を装備していた。
ニールセンはレイのドラゴンローブにしっかりと掴まっていて、レイから離れないようにしている。
セトは翼を羽ばたかせながら、逃げている冒険者達から少し離れた場所に着地する。
「なぁっ!?」
四人の冒険者達は、理解出来ない存在から逃げ出してる中でいきなりの行動に驚きの声を漏らす。
そんな冒険者達の前に、セトの背から飛び降りたレイは追ってきている穢れを見て……それが黒いサイコロではなく、黒い円球だったことに気が付く。
(また形が変わったのか。形が変わったことで、一体どうなったのかは分からないが)
左手の黄昏の槍の石突きで地面削るような一撃を放つ。
一般的に考えれば、その一撃は大した威力を持たない。
目潰しくらいにはなるだろうが、それだけだ。
しかし、それをやったのがレイであれば話は違ってくる。
黄昏の槍によって吹き飛ばされた土や石は、相手を傷付けるのに十分な威力を持つ。
それらが向かったのは、黒い円球……穢れのまた新しい形をした相手。
当然ながら、放たれた土や石は黒い円球に触れた瞬間に黒い塵となって黒い円球に吸収される。
そしてこれまでと同じように狙いを冒険者達ではなくレイに変える。
新種の穢れである以上、レイに攻撃せず最初に狙っていた冒険者達から狙いを外さないかもしれないと思ったのだが、その心配は杞憂だったらしい。
「そこの冒険者達、俺がこのモンスターを倒すが、その後で色々と聞きたいことがある! ここから逃げるような真似はするなよ!」
そのレイの言葉に、冒険者達は反射的に逃げようとする。
それは後ろ暗いところがあることの証だ。
だが、そんな冒険者達の逃げ道を塞ぐかのようにセトが姿を現し……結局冒険者達は逃げ出せず、そのままそこに立ちつくすだけだった。