3050話
もしかしたら、黒いサイコロが姿を現すのかもしれないとは思っていた。
思っていたのだが、そんなレイの予想は半分だけ正解していた。
生誕の塔の前に到着したレイが見たのは、湖の主がレイの魔法によって延々と燃やされているという見慣れた光景……ではなく、その見慣れた光景に二匹の黒いサイコロが接触している状況だった。
当然ながら、黒いサイコロの能力によって巨大なスライムの身体は黒い塵となって黒いサイコロに吸収されていく。
凄いのはそれだけではなく、黒いサイコロは巨大なスライムを燃やしている炎が自分達にとっても危険なものだと理解しているのか、炎に燃えないようにして巨大なスライムに触れているのだ。
レイが見た限りでは、巨大なスライムは全身が完全に炎に包まれていた筈だったのだが。
(一体何がどうなれば炎を避けて吸収するなんて真似が出来るんだ? あるいは、俺の魔法がとうとう魔力不足になって炎が消えたとか? いや、でもその割にはまだスライムを燃やしている炎は消える様子がないし)
現在の自分の視線の先にある光景を理解出来ないレイは、取りあえず事情を知っている面々……燃え続けている巨大なスライムと、その巨大なスライムを黒い塵にして吸収している黒いサイコロという光景を見ている冒険者達に近付いていく。
なお、レイと一緒に戻ってきた他の面々も、視線の先で行われている光景にどう対処すればいいのか分からないらしく、戸惑った様子を見せていた。
エレーナとセトが、少し遅れてガガが動き出したレイに気が付いたものの、そんなレイに話し掛ける様子はない。
今の状況で一体どうすればいいのか分からないというのもあるし、視線の先の光景をもっとよく見ておきたいという思いもあったのだろう。
(そう言えば、黒いサイコロが現れたのなら長からニールセンに連絡があってもいい筈なんだけどな)
この場所にいる冒険者達を指揮している男に近付きながら、レイはそんな風に思う。
後で自分のドラゴンローブの中にいるニールセンに聞いてみようと思いながら、目当ての男に声を掛ける。
「ちょっといいか?」
「っ!? ……なんだ、レイか。驚かせないでくれ。色々と聞きたいことはあるんだけど、あの光景を見てしまうとそういうつもりもなくなってしまう」
「だろうな」
男の言葉は、レイにとっても十分に理解出来るものだった。
もし自分がここにいても、同じように言っただろうと理解出来たからだ。
「けど、一体何がどうなってあんなことになったんだ?」
「それを俺に聞くのか? 色々と事情を分かっているのはレイの方だろう?」
「いや、それでもこれを見て俺にどうこうしろってのは……ちょっと難しいぞ?」
実際、巨大なスライムの一件は何がどうなってあのようになったのか、レイにも全く理解出来ない。
理解は出来ないものの、それでもまだ一応何が起きているのかということくらいは分かるのだが。
しかし、何が起きているのかが分かっても、それがどういう意味を持つのか、何故このようになったのかというのまでは、生憎とレイにも理解は出来なかった。
「そうか。レイなら分かると思ったんだが」
「あの巨大なスライムを燃やしたのは俺だけど、俺の魔法を使っても燃え続けるといったようなことにはならないで、そのままずっと魔法が発動しているというのが予想外だったし」
魔法使いなら大体そんな経験をしたことはないのでは?
そう言いたかった男だったが、それを言ってもこの場でそれがどうこうなるとは思えない。
だとすれば、ここはもっと別の話をした方がいいだろうと判断し、無理矢理頭を切り替える。
そのようなことが出来るのが、この場で冒険者達の指揮を任されるだけある人物なのだろう。
「とにかく、色々とおかしな……予想も出来ないような事態になってるのは分かった。穢れが何であの巨大なスライムに攻撃してるのかは分からないけど。……ああ、でも元々穢れは触れた相手や攻撃した相手を黒い塵にする為に向かうって習性があったな」
「そう考えると……攻撃云々はともかく、触れた場所を黒い塵にするのなら、あのスライムが狙われる理由も理解出来るな」
その説明はレイだけではなく周囲で聞いている者達にとっても分かりやすかった。
巨大なスライムは、山とまではいかないまでもちょっとした大きさの丘くらいの大きさを持つ。
黒いサイコロが触れた相手を黒い塵にして吸収するのなら、そのような大きな相手に触れる可能性は十分にあるだろう。
「それで……状況は分かったが、どうする?」
エレーナは巨大なスライムが黒いサイコロに攻撃……あるいは食われている様子を見つつ、尋ねる。
その言葉に周囲の者達の視線が向けられたのは、レイ。
巨大なスライムを燃やしたのはレイだし、そのスライムを現在攻撃している黒いサイコロについても、この場で一番詳しいのはレイなのだから、そのように思うのは当然だろう。
ある意味、レイがこの場における責任者にでもなってしまったかのような、そんな形だ。
「そう言われてもな。……うーん……良くも悪くも均衡を保っていた巨大なスライムと俺の魔法を、あの黒いサイコロは崩してしまった。そう考えると、いっそ巨大なスライムを黒いサイコロに倒して貰った方がいいような気もするんだけどな」
「本気か?」
レイの言葉に、エレーナがそう尋ねる。
言葉には出さずとも、他の面々もまたレイに驚きの視線を向けている。
この場にいる者達にとって、エレーナとアーラ以外の者にしてみれば、燃えている巨大なスライムというのはあって当然という認識だったのだろう。
生誕の塔の護衛としてここで寝泊まりしているだけに、普通に考えて不自然な光景であっても、長い間そこにあるのならそれを普通だと思ってもおかしくはない。
しかし、レイはそんな視線を向けてくる者達に向かって口を開く。
「完全に本気って訳じゃないけど、それなりに本気なのは事実だ。考えてみてくれ。俺の魔法でもスライムは耐えてああやって燃え続けている。けど、黒いサイコロなら、俺が魔法で殺すことが出来るんだ。そう考えると、俺にとってどっちが厄介な敵かは分かると思うが」
「それは……出来ればやめて欲しいですね」
「長の言いたいことも分かるけど……長?」
何気なく会話に入ってこられたレイは、聞き覚えのある声に普通に返事をしたものの、返事をしてからふと気が付く。
声の聞こえてきた方に視線を向けると、そこにいたのはレイが口にしたように長だった。
ニールセンよりも一回り大きい身体を持つ長が、レイのすぐ近くに浮かんでいるのだ。
いつここにきたのか、それこそレイやエレーナは勿論、セトですら感知することが出来なかった。
「……え?」
レイと話していた、冒険者達を指揮している男がいきなり姿を現した長の姿に数秒の沈黙の後、そんな間の抜けた声を出す。
対のオーブの説明によって、今回の件に妖精が関わっているというのは知っていた。
知っていたが、それでもこうして間近で、対のオーブ越しではなく直接自分の目で妖精を見るというのは、驚きだった。
それはレイと話していた男だけではなく、周囲で巨大なスライムが黒いサイコロの戦い……と呼ぶには一方的な捕食を見ていた者達も同様だった。
「長!? ちょっ、何で急にここに!?」
驚いている者達を更に追撃するかのように驚かせたのは、ドラゴンローブの中から飛び出してきたニールセン。
そこにいたのか。
そう言いたげな視線を向けてくる者もいたが、レイはそれに気が付いた様子もない。
この場にいる冒険者達にとって、自分の目で直接見た初めての妖精が長であるのなら、ニールセンは対のオーブ越しではあったが、生まれて初めて見た妖精なのだ。
当然のように、そんな姿については色々と思うところがあるのは間違いなかった。
いきなり二人の妖精が姿を現したという意味では、歴史的な出来事なのでは? と思う者すらいる。
本当にそれが歴史的な出来事なのかどうかは、生憎とレイには分からない。
分からないが、それでも大きな出来事なのだろうと思いながらも、長に声を掛ける。
「長としては、あの巨大なスライムを穢れに片付けさせるのは駄目なのか?」
「はい。穢れがあの巨大なスライムを黒い塵として吸収した場合、どうなるのか分かりませんので。特に何かこれといった反応がない可能性もあります。ですが……もしかしたら、とんでもない被害を周囲に撒き散らかしても、おかしくはありません」
長の説明は、レイを納得させるのに十分な説得力があった。
あるいは、あの巨大なスライムがこの世界のスライムなら長もそこまで言わなかったかもしれない。
しかし、あの巨大なスライムは湖の主。
つまり、異世界の存在なのだ。
モンスターであるのに魔石を持たないという時点で、この世界のモンスターとは大きく違う存在となる。
それはつまり、黒いサイコロがそんな異世界の存在を吸収した時にどのようなことになるのか、誰も分からないということを意味していた。
「長の言いたいことも分かるけど、あの巨大なスライムも問題だぞ? 俺が言うのもなんだけど、黒いサイコロは俺の魔法で殺せる。それに対して、あの巨大なスライムは俺の魔法を食らっても今まで生き延びている。そう考えれば、どっちが危険なのかは考えるまでもなく明らかだと思うけど」
「そうかもしれません。ですが、もしレイ殿の主張通りに巨大なスライムを黒いサイコロが倒したとして……黒いサイコロがレイ殿の魔法でもどうにも出来なかったらどうします? そちらの方の竜言語魔法でどうにかしますか?」
長の視線はレイからエレーナに変わる。
長が竜言語魔法について知っていたことを、レイは驚く。
元から竜言語魔法について知っていたのか、それともトレントの森の中でエレーナが竜言語魔法を口にしていたので知ったのか。
その辺りは生憎とレイにもよく分からなかったが、とにかく長が竜言語魔法について知っているのだけは明らかだった。
「周囲の被害を考えないと、それもいいのかもしれないけどな」
竜言語魔法のレーザーブレスは、極めて強力な威力を持つ魔法だ。
しかし、この場合問題なのはどうしても広範囲に攻撃してしまうということだろう。
レイ達がギルムからトレントの森に戻ってきた時も、そこで黒いサイコロかどうかはともかく、何かがあったと判断したのはレーザーブレスを見た為だ。
そしてレイが見たレーザーブレスは、当然のように穢れである黒いサイコロを倒すだけではなく、周辺にもかなり大きな被害を与えていた。
そうである以上、エレーナがレーザーブレスを巨大なスライムに使った場合、周辺に大きな被害を与えてしまうのは間違いない。
(研究者達が知れば、絶対に反対するだろうな)
レーザーブレスの影響によって、湖にどんな変化が起こるのか分からない。
研究者達にしてみれば、異世界からやってきた湖を研究しているのに、その湖の環境を大きく変えるようなことは絶対に許容出来ない筈だった。
もっとも、だからといって研究者がそれを行ったエレーナに不満を言うかとなれば、それはまた別の話だが。
例え研究者であっても、敵にしていい相手かどうかというのは判断出来るだろう。
貴族派を率いているケレベル公爵の娘にして姫将軍の異名を持つエレーナに不満を言う者は少ない筈だ。
……少ないというだけで、少数はいるというのが研究にしか興味がなく、世情を知らない研究者らしいのだが。
ともあれ、不満を言う研究者達の矛先はギルドマスターのワーカーに向かいやすい。
領主のダスカーはこのギルムにおいて絶大な権力を持っており、それでいて国王派や貴族派よりも規模は小さいものの、それでも三大派閥の一つである中立派を率いているので、ダスカーが噛みつかれるといったことは基本的にない。
「色々とレイ殿にも事情があるのは分かります。ですが、穢れは倒せる時に倒さなければどのようになるのか分かりません。そうである以上、ここであの巨大なスライムを黒い塵にして吸収して強化されるよりも前に倒して欲しいのです」
「レイ、私も長の意見には賛成だ。穢れと戦った身としては、非常に危険だと判断した。それに……巨大なスライムはレイに魔法によって燃やされ続けている間は動かなかったのだろう? であれば、相応にレイの魔法は効果があった筈だ。ならば、もし黒いサイコロで倒さなくても、改めてレイが魔法を使えばどうにかなる。……違うか?」
エレーナにもそう言われ、レイは少し考え……やがて頷くのだった。