3025話
妖精郷にて、レイはまだエレーナ達と対のオーブで話していた。
話そのものは、黒い塊に対してであったり、ガメリオンの料理についてであったり、妖精郷でどのような暮らしをしているかといったようなものだったり、雑談が多くなってきていた。
そうして話していると……やがて対のオーブの向こう側にマリーナが姿を現す。
『ただいま。ダスカーに会ってきたわよ』
本来なら、夜にいきなり領主に会いたいと言っても却下されるだろう。
しかし相手がマリーナということもあって許可されたらしい。
もしここでダスカーがマリーナに会いたくないと口にしようものなら、恐らくは自分の黒歴史とも呼ぶべき過去を口にされると、そう思ったのかもしれないが。
あるいはマリーナが来たことで何か重要なことがあったと判断し、会うことにしたのかもしれない。
とにかくマリーナが戻ってきたということはダスカーと無事に会うことが出来たということを意味しており、それはレイにとって非常に助かることだったのは間違いない。
「それで、どうだった?」
『私が行ってからダスカーも色々と情報を集めていたみたいだけど、何かあったというのはなかったわね。ちょっとした喧嘩騒ぎとかは多発してるらしいけど、それは今更でしょう?』
「そうだな。喧嘩騒動はギルムだとそう珍しいものじゃないし」
元々多くの冒険者が集まっていたギルムでは、普通に喧嘩はあった。
ちょっとした小競り合い程度であれば、それは日常茶飯事だ。
もっとも、周辺に被害を出すような大きな喧嘩になった場合は、警備兵が呼ばれることになっていたが。
以前であってもそのような状況であったのに加えて、今は増築工事の仕事を求めて多くの者達が集まっている。
そのような者達の中には当然だが気の強い者もいる。あるいは見知らぬ場所にやってきたので、侮られないようにする為というのもあるのかもしれないが。
とにかく、現在のギルムでは毎日のように小さな喧嘩騒動がある。
ただし、今はもう秋も深まってきているので、早い者は既に故郷に戻っているのでギルムにいる人数は減ってきているのだが。
それでも毎日のように結構な喧嘩騒ぎがあるのは違いなかった。
『でしょう? ただ、そういう意味ではやっぱり特に騒動らしい騒動がなかったのは事実よ。もっとも、あくまでも今の状況で動かせる人員を動かしただけだから、実はダスカーやその部下も認識していないような場所に何かある可能性は否定出来ないけど』
「その辺は仕方がないだろ。日中ならまだしも、今はもう結構な時間だし」
しっかりと時間を確認してないので正確な時間は分からないが、体感的には既に午後十時をすぎているように思える。
日本人にしてみれば、まだ宵の口といったところで小学生ですらまだ起きていてもおかしくはない時間帯だ。
しかし、このエルジィンにおいて午後十時ともなれば既に真夜中に近い。
夜が早く、朝も早いのがこの世界なのだから。
「ちなみに、ダスカー様は何をしていた? もしかして、もう眠っていたところを起こしたとかじゃないよな?」
『そんな訳ないでしょ。ダスカーはまだ起きていたわよ。もっとも、まだ仕事中だったけど』
「それは……」
ダスカーが色々と忙しいのはレイも理解している。
増築工事以外にも緑人の香辛料の件や、リザードマン、湖、異世界に続く空間、レイの倒したドラゴンの一件、妖精郷、穢れ……この時期になるとガメリオンも含まれる。
ざっと思いつくだけでこれだけあり、他にも地上船についての計画も勧めている筈だった。
それらの仕事を片付けているのだ。
勿論、それ以外にも領主としての通常業務であったり、面会を希望する者であったりと、非常に忙しい日々が続いている筈だった。
だからこそ、レイとしては正直なところ仕事をしすぎではないか? と思ってしまう。
それでもダスカーがやらなければならない仕事である以上、その仕事をやらないという選択肢はないのだが。
これが無能な貴族であれば仕事を放り出すといった真似も出来るのかもしれないが。
しかし、生憎とダスカーは有能な貴族だ。
それもただ有能なだけではなく、ミレアーナ王国に存在する三大派閥の一つ、中立派を率いるくらいに有能だった。
だからこそ、今のこの状況でも仕事をこなし続けることが出来ているのだろう。
(ダスカー様の体調、大丈夫なんだろうな? いやまぁ、冬になれば仕事も大分減るから、その時にゆっくりしてもらえばいいだけなのかもしれないけど)
今の状況では、もしダスカーが何らかの病気……それこそ風邪でも引いたりした場合、仕事が一気に滞る。
この時間まで仕事をして、それで何とか一日分の仕事をこなしているのだから。
そのように忙しい日々を送っている中で、冬になればようやく一段落つくのだ。
……もっとも、それはつまり春になればまた忙しくなるということの証明でもあるのだが。
(平和というのは次の戦争の準備期間だって何かにあったけど、ダスカー様の状況も間違ってはいないんだよな)
ダスカーの状況を思えば、レイにはそのように思えてしまう。
『とにかく、今の状況では穢れがギルムに何かをしてきたという訳ではないから、安心してもいいわよ。……もっと詳細な情報は、明日にならないと分からないと思うけど』
「そうか。ダスカー様やその部下達には色々と迷惑を掛けてしまったな」
こちらの世界では真夜中と呼ぶべき時間にいきなり呼び出され、このようなことになったのだ。
不満を抱く者もいるだろうとレイには思えた。
『あら、そこまで気にしなくてもいいと思うわよ。ダスカーの部下はダスカーに好意を持ってる者が多いし。それにダスカーも、いきなりの用事で呼び出したんだから相応の報酬は渡すでしょうし』
「それ……もしかして俺が渡した方がいいのか?」
自分の持ってきた案件でダスカーが部下を動かし、それによって何らかの報酬が必要となったとすれば、その報酬は自分が出した方がいいのではないか。
そう尋ねる例だったが、マリーナは首を横に振る。
『この程度のことは問題ないわよ。レイはあまり実感がないかもしれないけど、ダスカーはこのギルムの領主なのよ?』
ミレアーナ王国唯一の辺境である、ギルム。
ここでしか入手出来ない素材を始めとした諸々は、それこそ幾らでもある。
それを欲して多くの者がやって来て、そのような者達によってもたらされる税金は莫大な金額になる。
とはいえ、今はギルムの増築工事に大量の金を使っており、今まで貯め込んでいた金は盛大に消費されているのだが。
建築資材として優れている木材のあるトレントの森があっても、ギルムという街を都市という規模まで拡張する為には莫大な金額が必要となる。
そういう意味では、現在のダスカーは資金的に余裕がある訳ではない。
増築工事が終われば、その損失分を取り戻すのはそう難しくはないのだろうが。
「そうか? マリーナがそう言うのなら信じるけど……俺が言うのも何だが、ダスカー様にあまり無理をさせるなよ?」
『大丈夫よ。さっきも穢れの件を聞いていたついでに、回復魔法を使ってきたから』
「なら安心か」
マリーナの使う精霊を使った回復魔法は、非常に効果が高い。
ダスカーの中に疲れが溜まっていても、それをどうにか出来るのは間違いない。
『ええ。疲れも吹っ飛んだと思うから、今日はぐっすり眠ることが出来ると思うわよ』
マリーナの言葉に納得し……そして話題を元に戻す。
「とにかくギルムの方で何か特に問題がなかったのはよかった。よかったけど……なら、トレントの森に姿を現した黒い塊は一体何だったんだろうな」
もしギルムで何らかの騒動がなかったのなら、一体何の為に黒い塊がトレントの森に姿を現したのか。
何の意味もなくそのようなことをするとは、レイには思わない。
『例えば……本当に例えばの話だが、穢れの関係者達が黒い塊を使えるようになったので、その運用試験といったことではどうだ?』
「エレーナの言いたいことも分かるけど、運用試験なら別にわざわざトレントの森でやる必要はないと思うが?」
『黒い塊の能力はかなり厄介だったのだろう? それに転移能力もある。だとすれば、その黒い塊と本気で戦うには、レイのように本気で戦ってくれる相手が必要だったのでは? それに、向こうにしてみればレイは邪魔者だ。死んでも問題はない。いや、寧ろ喜ぶだろう』
「それは……」
エレーナのその言葉は、レイにも納得出来るところがあった。
しかし、それでも完全に納得するといった訳にはいかない。
もし本当に穢れの関係者達が使えるようになったばかりの新戦力なら、その性能試験は別にレイ達でやらなくてもいい筈だ。
それこそ黒い塊がどういう能力を持つのか、そしてどのように運用すればいいのかをしっかりと確認してからレイ達にぶつけた方がいい。
(実際、あの黒い塊が自由に動けるようになって、その数が今回程度じゃなくて百匹とかだったら……ちょっと洒落にならなかっただろうし)
勿論レイは、そのようなことになった場合でも対処する自信はある。
だが、今のところ黒い塊を倒すことが出来るのはレイの魔法だけだ。
一定の範囲内に纏まっているのならともかく、そうでない場合はそれこそトレントの森を広範囲に焼くことになっていたかもしれない。
そうなればそうなったで、レイを倒すということは出来ずとも嫌がらせをすることは出来る。
いわゆる、ハラスメント攻撃的な感じで。
そのくらいのことはレイでもすぐに思いつくのだから、穢れの関係者達でも思いつくのは間違いない。
「やっぱり総合的に考えると、試験と考えるのはちょっと疑問だな。それに……恐らくだが、黒い塊を転移させてきた場所ではかなりの被害が出ている筈だ。具体的にどのくらいなのかというのは分からないが」
大きな黒い塊は転移の出入り口だった。
そこに向かってレイ達は結構な威力の攻撃を放ったのだ。
もし人がいれば間違いなく死んでいるだろうし、何らかのマジックアイテムがあっても破壊されているだろう。
(あ、もしかしてギルムで何も起きなかったのは、それが理由だったりするのか?)
陽動と本命の行動を行う場合、陽動の方が先に行われるだろう。
しかし、最初に行われた陽動においてレイ達の攻撃を大きな黒い塊を通して行われて被害を受けた場合、本命の行動をする前に大きなダメージを受けて、それに対処出来ない。
あくまでも予想だったが、そう考えると納得出来るのも事実。
「俺達が行った攻撃で穢れの関係者達に被害が出て、それで本命の攻撃を出来なかった。……どう思う?」
『可能性としてはあると思うわ』
マリーナが即座にそう言ってくる。
恐らくレイと同じようなことをマリーナも考えていたのだろう。
いや、正確にはマリーナ以外の他の面々も同様のことを考えていてもおかしくはない。
レイの考えは別に突飛なものではないのだから。
「だとすれば、もし穢れの関係者達の方で今回の痛手から復帰したら、今度は陽動とかじゃなくて本命の攻撃をしてくるかもしれない。……それこそ、日中に街中に黒い塊を大量に放つとか」
レイが口にしたのは、最悪の考え。
もしそれが実際に行われたら、ギルムが受ける被害はかなり大きくなるだろう。
黒い塊に触れて黒い塵となって吸収されるのは、建物だけではなく、ギルムの住人達となる。
その際の被害は、下手をすればギルムの増築が中止になる……それどころかギルムという辺境に唯一ある街が廃棄されるといったことになってもおかしくはない。
今までの増築工事も無駄になるという面で、かなり危険な行動だった。
『ダスカーもその辺については十分に承知してると思うわよ? 今頃はその辺について指示してるんじゃないかしら』
マリーナの言葉はレイを安堵させるのに十分だった。
今のこの状況において、ダスカーがそのような指示をするのはレイにも十分に理解出来る。
……とはいえ、同時にそれはダスカーがまだ眠れないということを意味しているのだが。
「領主って本当に大変なんだな」
『うむ、父上もダスカー殿程ではないが、忙しそうにしているのを見ることが多かったな』
レイの呟きにエレーナが対のオーブの向こう側でそう言う。
辺境を治めているダスカーとは違い、エレーナの父親であるケレベル公爵は公爵領という広大な領地を治めている。
辺境ならではの大変さとはまた違った大変さがあるのは間違いない。
「つまり、貴族ってのが大変なんだな。……その割には自分からそういうのを望む奴も多そうだけど」
自分はそういう立場になりたくない。
そう思うレイだった。