2985話
「エレーナ様!?」
セト篭に乗ってギルムから出るというダスカーに、何かあったら危ないからとダスカーの部下が反対していた。
それを聞いていたエレーナが唐突に自分も行くと言い出したのだから、エレーナの護衛を任されているアーラが驚きの声を上げるのも当然だろう。
もっとも、ダスカーの部下とは違ってアーラにはエレーナが何らかの危害を加えられるとは思っていない。
そもそもエレーナの護衛としてアーラがいるのは間違いないが、その護衛のアーラよりもエレーナの方が圧倒的に上の実力を持っているのだ。
アーラはエレーナの実力をよく知ってるし、レイやセトも一緒にいるということもあり、それこそドラゴンが姿を現しても何とか出来るのではないかと思ってしまう。
そういう意味では問題ないのだが、それでも心配そうな様子を見せるのは穢れに侵された死体を見るというのに、エレーナが一緒に行くと言っているからだろう。
ましてや、先程マリーナが操る精霊の様子を見ただけに、尚更不安に思ってしまう。
しかし、自分を止めようとするアーラに対してエレーナは落ち着かせるように言う。
「落ち着け、アーラ。穢れの件はギルムだけの話では収まらない。ダスカー殿も王都に連絡をしたと言っていただろう? であれば、貴族派の私も少しでも多く情報を集めておいた方がいい」
「それは……」
エレーナの口から出た言葉は、アーラにも納得出来る。
基本的にエレーナは自分が貴族派の人間であるという自覚はあまり強くない。
それでも父親が率いている派閥だからということで、貴族派として動いてはいるが。
そんな状況ではあるが、それでも自分がギルムにいるのは貴族派を暴走させないようにする為という理由が強いというのは理解している。
また、情報を集めて父親に知らせることで自分がギルムに……正確にはレイの側にいられるのだというのも自覚していた。
そんなエレーナだけに、穢れについての情報は自分が知らせた方がいいと思ったのだ。
……少しでもレイと一緒にいたいという乙女心がそこにあるのも、間違いなかったが。
「分かって貰えるな?」
「……分かりました。ですが、セト篭で行くのでしたら私も一緒に行きます。エレーナ様なら何があっても大丈夫だとは思いますが、万が一がありますし」
「でしたら、私もダスカー様と一緒に行きます」
アーラの言葉を聞いていたダスカーの部下の一人が、そう告げる。
すると他のダスカーの部下達も自分が行くと口にした。
「俺は構わないが……レイ、大丈夫か?」
「このくらいの人数なら問題はないかと。ただ、セト篭に乗るということは空を飛ぶということです。その感覚が苦手な人は辛いかもしれませんが」
この世界において、人が空を飛ぶといったことは非常に少ない。
ワイバーンに乗った竜騎士が空を飛ぶ中でも有名な存在だろう。
それだけに、空を飛ぶという行為そのものに嫌悪感を持つ者がいてもおかしくはなかった。
(それでもセトの飛ぶ速度を考えれば数分といったところだろうし、そのくらいの時間なら嫌悪感があっても我慢して貰いたいな)
飛ぶ時間は少ないのだから、嫌悪感があっても我慢出来るだろう。
どうしても行くと言っている者達を見て、レイはそんな風に思う。
そして当然のように、ダスカーの部下達はそんなレイの言葉を聞いても一緒に行くと言い張る。
「レイ」
どうする? と、少し困ったようにレイを見るダスカー。
ダスカーにしてみれば、今回移動するのはセト篭を使ってなのだから、どうするのかというのはレイに聞いてみる必要があったのだろう。
「ダスカー様が問題ないなら、俺は問題ありませんよ。セト篭はそれなりに広いので、このくらいの人数なら問題ないですし」
「そうか。……悪いな」
感謝の言葉を口にするダスカーに、レイは問題ないと告げて、ミスティリングからセト篭を取り出す。
「これに乗るのか」
ダスカーも、セト篭を見るのはこれが初めてという訳ではない。
だが、これからこのセト篭に自分が乗るので、目の前にあるセト篭を見て思うところがあったのだろう。
「ほら、感心していても仕方がないでしょう。早く乗りなさい」
セト篭に乗るようマリーナに急かされ、ダスカーを含めて穢れに侵された死体を自分の目で見る者達はセト篭に乗り込む。
珍しいことに、イエロもセト篭に乗り込んだ。
(あ、でも別にそこまで珍しいことじゃないのか? 主のエレーナや友達のセトも一緒に移動するんだ。そう考えれば、寧ろこの結果は当然なのかもしれないな)
そんな風に思いつつ、レイはマリーナに声を掛ける。
「じゃあ行ってくるから、こっちの方はよろしく頼む」
「ええ、精霊に頼んでセト篭は追わせたり出来なくしておくわ」
マリーナのその言葉は、レイにとっても非常に助かるものだ。
セトの移動速度を考えれば、そう簡単にレイを追ってくるといった真似は出来ないだろう。
それでも貴族の中には何らかの手段……それこそマジックアイテムや厳しく訓練された馬によって追ってくる相手がいないとも限らない。
その辺の状況を考えると、マリーナの精霊魔法が非常に頼りになるのは間違いなかった。
「ああ、頼む。……じゃあ、ダスカー様を含めて行く人はセト篭に。……セト、どこか適当な場所まで飛んで貰うけど、大丈夫か?」
「グルルゥ、グルルルルルゥ」
レイの言葉に、大丈夫と喉を鳴らす。
レイと一緒に行動するだけでセトにとっては嬉しいのだが、今回はそれ以外に友達のイエロも一緒に来るのだ。
それでセトが喜ばない筈がない。
「ほう、これが……実際に乗るのは初めてだな」
興味深げにセト篭に乗り込むダスカー。
ダスカーの部下達は、当然のようにダスカーよりも前にセト篭に乗り込んでいた。
これはレイを信用していないといった訳ではなく、万が一にでも何かあったらということを考えてのことだろう。
実際にセト篭が安心なのは、今まで何度も使っているので明らかではあるのだが……それでも、今の状況を考えると念の為にと警戒してしまう。
当然のように、特に何も危ないことはなかったので問題なく全員が乗り込んだのだが。
(イエロならセトと一緒に空を飛ぶのかと思ってたけど。……まぁ、それならそれでいいか)
そう判断し、レイはマリーナに向かって声を掛ける。
「じゃあ、行ってくるからよろしく頼む」
「ええ。気を付けて……というのは、この場合はちょっと相応しくないのかしら」
マリーナのその言葉に、レイは確かにと同意する。
一応、やることは穢れに侵された死体を観察するだけだ。
そういう意味では特に危険はないように思えるのだが、同時に穢れという存在を目の当たりにするという意味では、十分に危険があるのも事実だった。
「エレーナもいるんだし、何とか出来るだろ」
出来れば、ニールセンがいてくれればもっと楽だったんだが。
レイはそのように思いながら、セトの背に乗る。
もしニールセンがいれば、何かあっても植物を操る魔法で動きを止めたりといったことが出来る。
あるいは光を放つという新たな力を身につけていたので、穢れに侵された死体にダメージを与えることが出来る。
フォローをするという意味では、ニールセンは大きな実力を発揮するのは間違いない。
また、最近はニールセンと行動を共にすることが多かったのも影響してるのだろう。
それでも今の妖精郷の状況……ボブから分離した穢れを処分するのにニールセンの力が必要であると言われている以上、レイとしてはここにニールセンがいないのも仕方がないと思ってしまうが。
レイがセトの背に乗ると、セトは数歩の助走で空に向かって駆け上がる。
そのままマリーナの家の上を旋回すると、中庭に向かって降下してセト篭を前足で掴むと、再び高度を上げていく。
すぐにギルムから出ると、人のいない方……ということで、街道のない方に向かって飛び始めたのだが……
「結構こっちに来てる奴がいるな。……ガメリオンか?」
秋に出没する巨大なウサギのモンスターたるガメリオンは、ギルムにおいてこの季節の名物だ。
しかし、それでもまだ冒険者がガメリオンを倒すにはまだ早いのでは? とレイは思う。
基本的にガメリオンが姿を現すのは、秋ではあってもその中頃から冬に近くなるような季節だ。
それに比べると、現在の季節はまだ秋になってそれ程時間が経っていない。
そう考えると、ガメリオンが姿を現すにしてもまだ早いのだ。
だからといってガメリオン以外にこちらの方に冒険者がやって来る理由となると、思いつかないのも事実。
これが数人、あるいは数組のパーティでの行動であれば、ガメリオンではなく何か他のモンスターでも狩りに来たのだろうと納得出来るだろう。
「いるんだから、その辺りについてどうこう考えても意味はないか。……セト、本来の予定とはちょっと違うけど、もっと離れた場所に向かうとしよう」
「グルゥ!」
レイの言葉に、セトは鋭く鳴き声を上げると翼を羽ばたかせてその場から移動する。
普通なら離れるといったようなことをするのなら、それなりに時間が掛かるだろう。
だが幸いなことに、セトの飛行速度はこの世界でも最高峰だ。
それこそ数分も経たずにガメリオン狩りか何かだと思しき相手が誰もいない場所に到着する。
「よし、じゃあ……あの辺りでいいだろ」
下に広がっているのは、一面の緑ではなく茶色混じりの緑。
これが春や夏なら、地面には緑の絨毯と呼ぶに相応しい草原が広がっているのだろう。
しかし、現在の季節は秋だ。
春や夏には緑だった草も、枯れて茶色になっているものが多い。
それでもまだ緑色の草もある辺り、それらの草の生命力が強いのだろう。
レイが降りようとしたのは、そのような場所だ。
やるべきことは穢れに侵された死体を取り出して見せるだけなので、何かあった時……具体的には、何らかのモンスターが襲ってきた時に素早く把握出来るように視界の広い場所の方がいいという判断からの選択。
「降りてくれ」
「グルゥ!」
レイの言葉を聞き、任せてと喉を鳴らして地上に降下していくセト。
まず十分に高度が下がったところで、セト篭を離す。
この時、どれだけセト篭に衝撃を与えずに離すことが出来るかというのが、セトの腕の見せどころだった。
その技量を十分に発揮し、セト篭を置いたところでセトは再び上空に向かい、旋回して地上に降下していく。
(やっぱり秋になると草の臭いとかはしてこないな。今更の話だけど)
セトの背から降りて地面に足を付けると、レイは周囲の様子を見ながらそんな風に思う。
どことなく物寂しいような思いを抱きつつも、今はまず自分のやるべきことをやらなければと、セト篭の方を見る。
そこでは既にエレーナとアーラがセト篭から出ており、ちょうどダスカーと部下達が降りてくるところだった。
ギルムから数分の旅路ではあるが、その数分で馬に乗っても数時間……地面の状況やモンスターとの遭遇によってはもっと時間が掛かるだろう距離を移動出来たのだ。
そういう意味では、レイやエレーナ、アーラにとってはともかく、ダスカーにとって初めての経験だったのは間違いないだろう。
周囲の様子を見ながら、驚きつつもダスカーは部下を伴ってレイの側までやってくる。
「凄いな、これは。……セトの移動速度は知っていたものの、実際に自分で体験すると驚きだ」
「俺はいつもセトと一緒に行動しているので、この移動速度には慣れていますけどね」
レイの言葉に、呆れの視線を向けるダスカー。
これだけの移動速度を普通だと考えているのは異常だと、そう思っているのだろう。
レイにとっては普通であっても、他の者から見ればとてもではないが普通ではない。
そのように思われてもおかしくはなかった。
「正直なところ、もしセトのような移動速度を好きに出来るのなら、それこそいくらでも有効な使い方があると思うぞ」
ダスカーのその言葉に、部下達も同意するように頷く。
それはダスカーに仕えているから、主人の言葉を考えてそのように言った……という訳ではない。
本当に心の底から、セトの移動速度を考えると幾らでも使い道があるというのに納得出来たのだ。
ましてや、レイはセトを従魔にしているだけではなくミスティリングも持っている。
今でも十分ギルムに貢献しているとは言えるのだが、もしそれが自分達の手にあったら……そう思ってしまうのは、仕方がないことなのだろう。
部下達の視線で何となくそんなことを感じつつも、取りあえず何かあったら不味いのでセト篭をミスティリングに収納しておく。
「さて、では準備も整ったようですし。出しますよ」
そう告げ、レイは再度穢れに侵された死体を取り出すのだった。