2982話
「それにしても、レイは本当に忙しいな」
そう言いつつ、エレーナは紅茶をレイの前に置く。
コトリ、と音を立ててテーブルに置かれた紅茶は、エレーナが自らの手で淹れたものだ。
基本的に貴族の令嬢……それも爵位的には王族に次ぐ公爵を父に持つ令嬢ともなれば、紅茶を淹れるのはメイドの仕事だろう。
しかし、現在ここにメイドはいない。
普段はアーラが紅茶を淹れたりしているが、アーラはメイドではない。
正式にはエレーナの護衛騎士団の団長という地位にある。
もっとも、エレーナに心酔しているアーラだからこそ団長という地位にいるものの、実際にはそれはお飾り……というのは表現が悪いが、そんな状況だ。
実質的に騎士団の運営を行っているのは、アーラの部下達となる。
純粋な戦闘力という点では、団長に相応しい実力を持っているのだが。
そんな状況だけに、エレーナのお付きはアーラだけで、そのアーラも現在はダスカーにレイの件を報告する為に領主の館に行っていていない。
だからこそ、エレーナは自分の手で紅茶を淹れたのだ。
エレーナは渋々ではなく嬉々として紅茶を淹れたのだが。
エレーナはアーラから紅茶の淹れ方を習っており、今までにも何度かレイにご馳走してきた。
自分の淹れた紅茶をレイが飲むのは、エレーナにとって幸福なのだろう。
「美味いな」
「そう言って貰えると、私も嬉しい」
言葉少なに会話をしつつ、レイはとある方向に視線を向ける。
そこでは、イエロと一緒に中庭を走り回っているセトの姿があった。
セトやイエロにしてみれば、少し前に別れたばかりなのだ。
次に会えるのは暫く後になるだろうと思っていたのが、その日のうちにまた会えたのだから、喜びも当然のように大きくなる。
「エレーナと一緒に紅茶を飲みながら、セトとイエロが遊んでいる光景を見る。……これだけを見ると、随分と平和な光景だな」
「ふふっ、そうかもしれないな。だが……この穏やかな時間は今だけなのだろう?」
「だと思う。穢れが変化しそうな死体なんて代物を持ってるんだから。それをダスカー様に渡すか、あるいはそのまま処分してしまうか。それが具体的にどういう風になるのかは分からないが、とにかく色々と忙しくなるのだけは間違いないだろ」
レイの言葉には反論する要素がないので、エレーナは黙って頷く。
元々が騒動の女神に愛されているレイなのだ。
そんなレイを愛してしまったのだから、レイの性格……いや、性質や特性とも呼ぶべきものであっても、自分は受け入れる。
レイを見ながらエレーナはそんな風に考え……すぐに自分が今何を考えていたのかを理解すると、頬を薄らと赤く染めた。
「どうした?」
「いや、何でもない。レイの言う通りこれから忙しくなると思っただけだ」
自分が何を考えていたのかを悟られないように、エレーナは黄金の髪を掻き上げながらそう言う。
そうしながらレイに知られないようにゆっくり、大きく深呼吸することにより、何とか頬の赤さは消える。
自分でもそれが分かったのか、エレーナはゆっくりと紅茶を口に運ぶ。
その紅茶は自分で淹れたものではあるが、なかなかのものだと内心で嬉しくなる。
それを表情に出すような真似はしなかったが。
「それにしても……レイは本当に騒動に巻き込まれるのが好きだな」
「いや、別に俺も自分から進んで騒動に巻き込まれている訳じゃないぞ? 騒動の方からやってくる……今回は自分から関わったようなものだけど」
森の中でボブと遭遇したのはいい。
道に迷っているボブと一緒に野営をしたのもいいし、襲ってきた穢れの関係者を撃退したのも問題はないだろう。
だが、ボブを妖精郷に連れていくといったような真似をしたのは、間違いなくレイだ。
正確にはニールセンが連れていきたいと言ったのに反対をしなかっただけだが。
とはいえ、もしボブを妖精郷に連れていかなければどうなっていたか。
ボブは腕利きの猟師ではあるものの、純粋な戦闘力といった点ではそこまで突出した存在ではない。
穢れの関係者に襲われるようなことがあった場合、ほぼ間違いなく殺されるだろう。
そうなれば、レイも穢れについて何も知ることは出来なかった。
最悪の場合、何も知らないまま穢れによってこの大陸が滅びていた……といったことになっても、おかしくはなかったのだ。
その辺りの事情を考えれば、ニールセンがボブを連れていきたいと思ったのは間違っていなかったのだろう。
具体的にはどういう理由でそのように思ったのかは、生憎とレイには分からなかったが。
その方が面白そうだったからと言われても、ニールセンの言葉なら納得してしまうのも事実。
「これだから、レイと一緒にいれば退屈はしないのだろうな。……もっとも、レイと一緒にいるとはいえ、私は基本的にマリーナの家にいるのだが」
少しだけ拗ねた様子を見せるエレーナ。
そんなエレーナに何かを言おうとしたレイだったが、そのタイミングで不意に今までイエロと遊んでいたセトが顔を上げ、門の方を見る。
ただ顔を上げただけなのだが、それでもレイはセトが何かに気が付いたのだろうと理解し、セトの見ている方に視線を向け……エレーナもそれに続く。
(セトの様子からすると、俺達がまだギルムに戻ってきたのを見て監視してる奴が侵入しようとした……って訳じゃないと思うが)
監視をしている者達も、マリーナの家に侵入すればどうなるのかは分かっている筈だ。
そうである以上、そのような馬鹿な真似はしないだろうというのがレイの予想だった。
そして実際、レイのそんな予想を裏付けるかのように、姿を現したのはアーラ。
それ以外にも数人連れているのを見れば、恐らくアーラと一緒に領主の館から来た者なのだろうというのは容易に予想出来る。
予想出来るのだが……ふと、レイは妙なことに気が付く。
具体的には、アーラが何故か困ったような表情を浮かべているということ。
「うん? アーラ、マリーナはどうしたのだ? 途中で寄ってくるという話だったが」
「治療院には寄ってきましたが、もう数人治療して、それが終わったら引き継ぎをしてから来るとのことでしたので、私達だけが先に来ました」
エレーナはアーラのその言葉に少し疑問を抱く。
普通なら、その引き継ぎを終えるまで待っていてもおかしくないのではないか、と。
話を聞いていたレイもまた、当然ながらエレーナと同じ疑問を持つ。
しかし、それを実際に口にしようとした時、ふとアーラと一緒にやって来た数人のうちの一人と視線が合い……その視線に既視感があった。
別にそれは不思議な話ではない。
領主の館からやって来たということは、当然ながらダスカーの部下となるのだ。
そしてレイは頻繁にといった程ではないにしろ、それなりに領主の館に行くこともある。
それだけに、ダスカーの部下と接する機会そのものはそれなりにあるのだから、顔や名前はしっかりと覚えていなくても、以前どこかで会ったことがあってもおかしくはなかった。
しかし、視線が合ったレイはそれは違うと判断する。
自分に向けられる視線にはどこか覚えがある……そう思って記憶を探ると、すぐにその視線の主が誰なのかを理解する。
「ダスカー様?」
「何?」
アーラと話していたエレーナだったが、レイの呟きを聞き逃すといったことはなかった。
あるいはレイ以外の者の呟きであれば、聞き逃していた可能性もあったが。
そしてレイの呟きを聞いたのは、エレーナだけではなくアーラもだ。
そのアーラは、レイを驚きの視線で見ている。
そんなアーラの様子を見れば、レイの口から出た言葉が決して嘘ではないと理解出来てしまう。
ダスカーと呼び掛けられた人物は、やがてカツラと付け髭を取る。
行動としてはそれだけだったが、不思議な程にダスカーとは思えなかった相手の顔が、レイやエレーナも知っているダスカーの顔へと変わってしまう。
「驚いたな。これでも少し変装には自信があったんだが……何で分かった?」
ダスカーはレイに向かってそう尋ねる。
その表情に浮かんでいるのは、まさに心の底からの疑問といったところか。
ダスカーにとって、自分の変装が見破られるのはそれだけ予想外だったのだろう。
「いや、何でと言われても……そもそも仕事で忙しい筈のダスカー様が、何でここに来てるんですか」
「穢れの件で重要な話があるって話だったからな。お前から穢れについての話を聞いたその日のうちにだぞ? 何があったのかと疑問に思うのは当然だろう」
「それは……まぁ、そうかもしれませんけど」
ダスカーの立場にしてみれば、レイとニールセンから穢れの一件について聞いたその日にうちに再び穢れの件で話があると言われたのだ。
しかもその穢れは、下手をすれば大陸を滅ぼしてもおかしくはないと教えられていた。
そのような状況では、馬車をマリーナの家に向かわせてそこからレイを連れて領主の館に戻ってくるよりも、自分が直接マリーナの家に行って話を聞いた方が早い。
そのように認識してもおかしくはない。
レイもそう言われると納得するしかないが、現在のダスカーがどれだけ忙しいのかを知っている身としては、そのような状況でもまさかダスカーがここに来るというのはかなり予想外だった。
(ああ、だから治療院でマリーナを待たずにここに来たのか)
そういう意味では、納得出来る面があったのも事実だが。
ダスカーが領主という立場だからか、それとも少しでも早く穢れについての話を聞くべきだと思ったのか、その辺り正確な理由はレイにも分からなかったが、とにかくダスカーがこうしてマリーナの家にやって来たのは納得出来た。
「それで、俺の変装をどうやって見破ることが出来た? 今まで変装を見破られたことは……ないとは言わないが、それでも見破った者はかなり少ないのは間違いない」
「俺に向けてくる視線が強かったので、その視線に覚えがあったかもしれないと思って……で、思い出されたのだがダスカー様でした」
「ふむ、なるほど。視線か。それはちょっと気が付かなかったな。今度は注意しよう」
今度って、また変装をするんですか?
そう突っ込みそうになったレイだったが、もしその答えがその通りだと言われたら、どう反応すればいいのか困ってしまう。
そうである以上、取りあえずその辺について突っ込むのは止めておく。
「それで、ダスカー様が来たのなら早速ですけど、穢れを……」
「いや、待て。実際にその件について話すのは、マリーナが戻って来てからにしよう。ここがマリーナの家である以上、その辺はしっかりとしておいた方がいい」
「なら、何でマリーナを治療院に置いてきたんですか」
少しだけ呆れた様子のレイ。
とはいえ、ダスカーとしてはここで話を進めるようなことをしてマリーナの機嫌を損なうと、黒歴史を公開されてしまいかねない。
小さい頃の自分を知っているだけに、マリーナには色々な黒歴史を握られている。
それこそ小さい頃は真剣だったことであっても、大人になった今は何故あそこであのようなことを言ったのかと、そんな風に疑問を抱き……身悶えしたくなるような黒歴史を。
これが少しでも……それこそ一秒でも早く話を聞かなければギルムに大きな被害が出るといったようなことであれば、ダスカーも自分の黒歴史など関係なくレイから話を聞くだろう。
しかし、穢れの件ということで重大事なのは間違いないが、同時にそれはそこまで急いで話を聞かなければならないといったようなことでもない。
なら、マリーナが戻ってくるまで待っておいた方がいいというのがダスカーの判断だった。
そんなダスカーの考えの全てを理解した訳ではないだろうが、レイもダスカーに説明した後でまたマリーナに説明するといったようなことをするのは面倒だったので、そういう意味ではダスカーの言葉に特に反対といったことはない。
「じゃあ、話はマリーナが帰ってきたらということで。……でも、いいんですか? ダスカー様がいるから、治療院でマリーナを待たず先に来たんでしょうけど、もしマリーナがそれを知ったら、一体どうなるか分かりませんよ?」
「その辺は大丈夫だろう。マリーナは色々とある奴だが、それでも公私混同はしない。……今のマリーナはギルドマスターではなく冒険者だから、公私混同という説明は正しくないのかもしれないが」
「それでもマリーナなら、その辺はしっかり考えてくれると思いますけど」
「ダスカー殿、いつまでも立って話をするのもなんでしょう。こちらにどうぞ」
エレーナにそう言われ、ダスカーは中庭のテーブルに座るのだった。