0298話
時は戻り、丁度レイが奇襲部隊の成功を伝えるべくミレアーナ王国の国王派へと向かっている頃、撤退を開始したベスティア帝国軍はテオレームに率いられて移動していた。当然ミレアーナ王国軍側も追撃をしようとしたのだが、殿を任されていたのが魔獣兵であった為に追撃を行うどころか逆にミレアーナ王国軍側に被害が続出し、結局追撃の指揮を執っていた貴族はより大きな被害が出るよりは、と追撃を諦めるのだった。
そしてテオレームに率いられたベスティア帝国軍がどこに向かったかと言えば、当然真っ直ぐに故郷であるベスティア帝国へ……とはならなかった。既に本陣が落ち、カストム将軍の戦死を知っていたテオレームは、戦場となっていた場所から本陣のあった場所を迂回するようにして移動したのだ。それも、少しの遠回りではない。むしろ広大なセレムース平原の端を移動するかのように大きく迂回して、だ。
補給物資を積み込んだ輜重部隊がいるとは言っても、食料にそれ程余裕がある訳では無い。数万の兵士の糧食や軍馬に対する餌を考えると、相当に節約しなければならないのは明白であり、当然それに対して不満を口にする者も多かった。だが、それもテオレームの次の言葉に沈黙せざるを得なくなる。
「私の情報ではカストム将軍は敵奇襲部隊に討たれた。そして討った奇襲部隊の中にはあの炎の竜巻を作り出した、深紅と呼ばれている者がいる。それに空を飛べるグリフォンを従えている彼がいるのなら、かなりの確率でカストム将軍を討ったという報告は彼が行うことになるだろう。このまま全軍で撤退をしている時に、密集している場所に再びあの炎の竜巻を作り出されでもしたらどうなると思う?」
撤退している部隊の大多数は本隊の所属であり、先陣部隊の密集地帯に現れた火災旋風をある程度離れた場所からとはいっても、直接その目で見ている。まるで人を木の葉のように持ち上げ、空中に放り出し蹂躙していくその光景を。幸い火災旋風が人を焼くような凄惨な光景は距離が離れていたおかげで見ることは無かったが、それでも十分以上に火災旋風の恐ろしさをその目で確認していた。
そして、本隊に吸収された先陣部隊の生き残りがどう考えるのかは言うまでも無いだろう。自分達が撤退している時に再びあの火災旋風が姿を現したら。それを想像するだけで歯を噛み合わせることも出来ずにカタカタと鳴らし、自分の身体を抱きしめるようにして震えを押さえ、立っていられず地面にしゃがみ込むような者が続出した。
あるいはそこまで行かずとも、顔を蒼白にする者も出てきておりベスティア帝国軍にとっては……否、この戦争に参加した者にとって深紅という異名は死神と同義となっていた。姫将軍の異名に関してはエレーナの美貌があり、恐怖以外に憧れといったものを抱く者も多いのだが、圧倒的な力を見せつけたレイに関しては恐怖や畏怖以外の感情を抱く者は極少数だけしか存在していなかったのだ。
そのことをまざまざと見せつけられた帝国軍の指揮官達は、テオレームの言葉に従いカストム将軍のいた場所を大きく迂回するような形でベスティア帝国へと戻ることに賛成した。
「それにしても……これからミレアーナ王国との戦いはやりにくくなりますね。グリフォンといい、本人の化け物のような強さといい」
セレムース平原を進みながら、シアンスが周囲に聞こえないように隣を進むテオレームへと声を掛ける。
2人共軍馬に乗ってはいるが、基本的に歩兵が主力である為にその速度に合わせて移動している。その為、軍馬もゆっくりと移動しており、全力疾走している時に比べて疲れを気にしなくてもいいというのはシアンスにしてもありがたかった。
「そうだな。こちらに入っている情報によると、竜騎士の殆ど全てを奴に倒されたらしい。軍の最精鋭ともいえる竜騎士を纏めてぶつけても時間稼ぎすら出来ないとなると、正直今はまともに対抗する手段が思いつかないな。一番確実なのは戦わないということだろうが、戦いになる場所から何らかの手段を使って引き離したとしてもグリフォンという存在がいる以上、距離は殆ど問題にならないしな」
テオレームやシアンスとしても、グリフォンという存在の実物を見たのはセトが初めてだがベスティア帝国の歴史でグリフォンとの遭遇記録は幾つかある。書物として残されているその情報を知っているだけに、グリフォンの飛行速度というのは2人にとっても容易に想像が付いた。
レイとセト、どちらか片方だけならまだ何とかなるのだ。だが、その1人と1匹が常に行動を共にしているというのが頭を悩ませる原因となっていた。
「ベスティア帝国に……いや、第3皇子派の私達にとって最も有益な選択肢としては寝返らせることだが……」
「寝返らせるにしても、どうやって寝返らせるかですね。普通に考えれば、地位や金。あとは女といったところですけど」
シアンスの言葉に少し考え、すぐに首を振るテオレーム。
「こちらの入っている情報によると、これまでに幾つも冒険者として大きな仕事を達成して金には困ってないらしい。それ以前に本人がそれ程金に執着していないというのもある。地位は……これもどうだろうな。あれだけの力を持っているのだから、望めばラルクス辺境伯に取り立てられるのはそう難しく無いだろうし、あるいは国王派や貴族派にしてもレイ本人が雇って欲しいと要望を出せば、断るどころか競って自分が雇おうとするだろう。残るは女だが……」
そこまで口にして脳裏にレイの情報を思い出すが、すぐに首を横に振る。
「駄目だな。女好きという報告は一切無い。それどころか、恋人がいるという報告も無い以上は女で釣るというのも難しいだろう。敢えていうのなら、ギルムの街にある冒険者ギルドの受付嬢と仲がいいらしいが、それにしてもあくまでも仲がいい程度でしかない。レイの好みが分かれば、まだ女で釣るということも出来るのだが」
この時、運が良かったのはヴェルがエレーナとレイの関係を知らなかったことだろう。もちろんエレーナがレイに対して好意を抱いていたのをヴェルは知っていたが、その好意は男女間のものよりも友人に対するものだと判断していたのだ。更にその好意に関してもレイに対して恨みを抱いていたヴェルは、いずれ自分で何かに利用出来るかもしれないと思いベスティア帝国へと情報を漏らしていなかった。
「好みの女、ですか。ですが今回の戦争であれだけ活躍したのですから、レイはこれから嫌でも目立ってしまうのでは? そうなれば英雄色を好むとも言いますし、嗜好がはっきりすれば引き抜くことは可能かもしれません。それに年齢は15歳だとか。そのくらいの年齢なら女の身体に対して強い興味を持っても不思議ではありませんし」
そう言葉を返すシアンスに、ふとテオレームが視線を向けてじっと顔を覗き込む。
「……何ですか?」
さすがに不躾に顔を覗き込まれるのは不快らしく、シアンスはじっとテオレームへと視線を返す。
「いや、意外とお前が誘惑をすればレイもコロッと引っ掛かるんじゃないかと思ってな」
「私がですか?」
表情を変えずに見返すシアンス。
本人としては、自分は騎士であるという認識を持っているだけにテオレームの言葉は予想外だったのだろう。
だが、無表情に近いという欠点はあるが、シアンスの顔立ちそのものはどちらかと言えば整っているのは間違い無い。本人に着飾るという意識が無い為に華やかとは言えない装いを好んでいるが、その辺も人の好み次第だろう。訓練によって引き締められた身体は無駄な贅肉が殆ど無く、俊敏な猫科の獣の様な身体付きをしている。スレンダーといってもいい身体付きだが、その辺もあくまでも好みになるとテオレームは考えていた。
もっとも、だからと言って本気でシアンスにレイを誘惑してこいと言っている訳では無いのだが。
「冗談だ。俺としても頼りになる副官にいなくなられるのは困るからな。本気にするな」
「……はい」
テオレームの言葉にどこか不満そうな顔をしながらも頷き、軍馬の歩みを少しだけ早めるのだった。
「おう、レイ。こっちに戻って来たってことは、やっぱり奇襲部隊は敵の総大将を討つのに成功したんだな」
ダスカーの天幕から出て、いつの間にか姿を現していたアーラにエレーナの件を説明していると、唐突に後ろからそう声が掛けられる。
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには当然のようにエルク率いる雷神の斧が勢揃いしていた。
「そっちもどうやら無事だったらしいな」
「へっ、敵は所詮兵隊で人間だからな。ランクCモンスターやランクBモンスターを相手にするよりは断然マシだよ。それよりも、そっちの姉ちゃんは確か……」
エルクから視線を向けられたアーラは、腕の中のイエロをセトの背に置いて頭を下げる。
「お久しぶりです、エルク殿。エレーナ様の護衛騎士団のアーラです」
「そうそう、アーラとか言ったか。ギルムの街の前で会って以来だな。……ん? お前さんの武器は剣じゃなかったか? そのバトルアックスは……」
アーラに背にあるパワー・アクスに目を止め、尋ねるエルク。自分が雷神の斧というマジックアイテムを使っているだけにやはり斧の武器は気になるのか、興味深そうに背負われているパワー・アクスへと視線を向けている。
この時、不運だったのはパワー・アクスを熱心に見つめているエルクが、アーラの身体――特にパワー・アクスを背負っている胴体、つまりは胸――を熱心に見つめているように見えたことだろう。本人としては全くそのつもりはなかったのだろうが、端から見ると若い女騎士の胸を凝視している中年の男にしか見えず、当然周囲からの視線は厳しくなり、あるいは自分がどう見られているのかに気が付いたアーラの頬も羞恥で赤く染まる。
「こら」
そんな軽い声とは裏腹に、まるでメイスの如くエルクの後頭部へと叩きつけられる杖。周囲に鳴り響いた音は、とても人の頭部を殴ったような音ではなかった。
「痛っ!? おい、ミン、いきなり何をするんだよ!? 折角戦争を生き残ったってのに、頭を潰して俺を殺す気か!? 俺はヒュドラじゃないんだから、頭を失っても生えてこないんだぞ!」
「そうかな? エルクなら生えてきても不思議はないんだけど。……じゃなくて、今の自分の格好を思い出してみるといい。若い女騎士の胸を凝視しているランクA冒険者が周囲からどう見えるのか」
その言葉で、ようやく自分の視界の中にハーフプレートで包まれたアーラの胸があるのに気が付いたのだろう。頬を赤くして首を振るエルク。
「ちっ、違う! 別に俺は胸を見ていたんじゃなくてだな、アーラの背負っているバトルアックスが気になっただけだよ! ほら、ミンも見てみろよ。多分マジックアイテムだぜ?」
慌てたようにアーラを指差して叫ぶのだが、混乱と焦りでその指がバトルアックスではなくアーラの胸に向かっている状態では説得力がなかった。
「……キュ!」
セトの背から飛び立ったイエロが、その小さい足でエルクの顔面目掛けて蹴りを放つ。
……が、さすがにエルクがそんな攻撃を食らう訳もなく、あっさりと受け止めてから首を傾げる。
「何だこの小さいの。……竜?」
「あ、はい。その、エレーナ様が魔法で作り出した使い魔ですので、竜のような生き物というのが正しいかと」
「ふーん、まあいいや。それよりもだ。いい加減話を進めたいんだが」
「いや、お前が来て早々アーラの胸を凝視していたんだろうが」
「じゃなくてだ!」
レイの声を遮るエルク。そう叫びながらもエルクの額に冷や汗とも脂汗ともつかないものが滲んでいるのは、人目の多い場所で変な噂を立てられたくないというのもあるのだろう。
「これから俺達がどうするかって話だよ。戦争は終わったが、このまま現地解散って訳にはいかないだろう?」
「それは当然だ。ここで解散なんてしてみろ、騎士や軍隊ならまだしも冒険者の中には色々と素行に問題のある奴もいる。そいつらが徒党を組んで盗賊になったりしたら、色々な意味で拙いことになる。特にこの戦争に参加しているのはランクD以上で、実力はある程度保証されたものになる。そんなランクの者達が徒党を組んで盗賊団の類にでもなったとしたら、それを討つのに消耗する戦力も馬鹿にならないだろう。そうなるのを防ぐ為、基本的には自分達の街に戻ってから解散となっている」
「へぇ、そうなってるのか」
ミンの言葉に頷くエルクだが、その様子に思わず首を傾げるレイ。
「お前達は高ランクだろう? 戦争に参加したのは初めてなのか?」
「あー、そうだな。今までは機会が無くて、小競り合いならまだしもここまでの大規模な戦いに参加したことは無かったな」
「エルクの言う通り、基本的に高ランクの者は戦争には余り参加しない傾向がある。もっともあくまでも傾向であって、その人物の性格であっさり変わるがな。今回はまぁ、私達に手を出してきた相手に対する意趣返しも含まれていたから参加となったんだけどね」
自業自得だ、とばかりに意地の悪い笑みを浮かべるミンだった。