2973話
「レイ、タイミングが悪かったようだな」
サーガイル子爵が帰ったのを見たエレーナが中庭に出て来て黄金の髪を掻き上げながらそう言う。
エレーナにしてみれば、レイがもう十五分……いや、十分遅く帰ってきていれば、サーガイル子爵と会うようなことはなかったという思いがあるのだろう。
「そうだな。もう少し遅く帰って来ればよかった。ただ、あの男とは領主の館で会った時にちょっと話したけど、その時は貴族にしてはそこまで嫌な相手ではなかったから構わないけど」
ギルドの倉庫の前で絡んで来た貴族を見ていたので、余計にサーガイル子爵に対する点数が甘くなったのかもしれない。
レイにしてみれば、その辺りはどっちでもいいのは事実だ。
しかし、どうせ話さないといけないのなら友好的な相手と話した方が楽なのは間違いなかった。
そういう意味では、エレーナと面会していたのがサーガイル子爵だったのは、レイにとって幸運だったのだろう。
……もしサーガイル子爵ではなく、ギルドで絡んで来た相手がエレーナと面会をしていたら、間違いなく大きな騒動になっていただろう。
もっとも、そのような相手とエレーナが面会するかどうかは、また別の話だが。
エレーナ以前に、そのような者はアーラが面会を断る。
アーラにとって、エレーナに不利益となるような相手との面会は許可出来ない。
勿論そのような相手は本心を表に出さないようにしているのだが、エレーナに心酔しているアーラはどうやってかそんな相手の狙いを見抜くといったことが出来る。
正確にはそのようなことが出来ることもあるというだけで、確実にそうなるといった訳ではないのだが。
「うむ。サーガイル子爵は貴族派の貴族として私も知っている。レイの嫌うような貴族でないのは間違いない。そういう意味では、レイにとって運がよかったのかもしれないな」
「いや、その辺を運で片付けるのはどうなんだ?」
そんな疑問を呟くレイだったが、そうしながらもエレーナの言葉は決して間違っている訳ではないと理解出来る。
ここでサーガイル子爵に会ったことにより、レイは今まで避けてきたクリスタルドラゴンの素材の売却について打診されてしまったのだから。
それはすぐに断り、ギルドの方に押し付けることには成功したものの、最初に交渉出来たというのはサーガイル子爵の評判を高めることになるのは間違いなかった。
(まぁ、ギルドで絡んで来たような奴の評価が上がるよりはマシか。……あ、でも一応あの男も俺と接触したことはしたんだし、そういう意味では俺を相手に交渉をしたということになるのか? あれを交渉と言えるかどうかは別だが)
レイの認識では、あれは交渉ではなく脅迫、言い掛かり、難癖といった行為に近い。
とてもではないが、自分と交渉したといったようには思えなかった。
それを向こうが認識するかどうかは別だが。
そのことに気が付くような頭があるとは思えなかったが、あるいは部下からの進言によってレイと最初に交渉した人物……という風に言い出す可能性も否定は出来なかった。
「取りあえず、これからレイはどうするのだ?」
尋ねるエレーナの言葉には、出来れば今夜は泊まっていって欲しいという思いがある。
それはレイにも理解出来たが、申し訳なさそうに首を横に振る。
「悪いが、穢れの件は出来るだけ早く長に知らせた方がいい」
穢れの件については、簡単にではあるが説明してある。
もっとも、その説明はあくまでも簡単にだったので、エレーナにしてみれば穢れの件が最悪大陸の滅亡に繋がるといったようなことになるとは考えていなかっただろうが。
「そうか。レイがそう言うのであれば、これ以上無理を言うことは出来ないな」
レイの言葉にそう告げるエレーナだったが、口調とは裏腹にエレーナの表情には寂しげな色があった。
それに気が付いたアーラは、本当にどうにか出来ないのですか? といった視線をレイに向けるが……レイはそんなエレーナやアーラの様子に気が付き、理解しつつも、マリーナの家に泊まるといった選択肢はない。
夕食くらいは食べていってもいいのでは?
そう思わないでもなかったのだが、レイがマリーナの家に入る時は全速力で走ってきた。
マリーナの家の前にいた見張りがそんなレイの様子を確認している以上、もしここでゆっくりとしていると、場合によっては事前の約束も何もなしに、強引にマリーナの家にやってくる者が出ないとも限らない。
マリーナの家に戻ってくる時に、ローブ越しとはいえ自分の姿を見せるような真似はせず、馬車か何かで帰ってくるといった真似をしていれば、見張っている者達も疑いはするものの確信はないので、そのようなことにならなかったかもしれないが。
とはいえ、今こうしてここに来た時のことを思えば、今更の話だが。
「悪いな」
「構わんよ。レイがそう言うのであれば、そのようにしなければならないのだろう」
そんなエレーナの言葉を聞いていると、不意にドラゴンローブの中からニールセンが飛び出してきた。
「ちょっと、レイ。このまま妖精郷に帰るのなら、私は思う存分遊んだり出来ないじゃない!」
サーガイル子爵がいる時は当然ながらドラゴンローブから出られなかったニールセンだったが、サーガイル子爵が帰った後も何故か出てこなかった。
それが何故今になって出てきたのか。
その辺りレイは分からなかったものの、もしかしたら寝ていたのかとも思う。
レイがサーガイル子爵と話をしている時は特にやることもなく、そしてドラゴンローブの中は快適な温度だ。
そうである以上、思わず寝てもおかしくはなかった。
「そう言ってもな。用事は終わらせた以上、出来るだけ早く帰ってた方がいいのは間違いないだろ? 長が処理しようとしていた穢れの件もどうなったか気になるし」
ニールセンがちょっとしたミス――それが本当にちょっとしたものなのかどうかはレイには分からなかったが――によって、花の形をした宝石に封印した穢れの処理をするのにある程度時間が必要になったのは間違いない。
具体的にそれがどれだけの時間が必要なのかは、生憎とレイにも分からなかった。
しかし、それでも今の状況を思えば出来るだけ早く妖精郷に戻った方がいいのは間違いない。
「長のことだから、やることが終わった後ですぐに帰ってこないで、ゆっくりと遊んでいたというのを見抜いている可能性もあるかもしれないぞ?」
「そ、それは……」
長の力を知っているからこそ、ニールセンはレイの言葉を即座に否定出来ない。
もしかしたら、長なら。
そんな風に思ってしまうこともあるのだ。
「もし長がそんなことを知ったら、妖精郷に戻った時にどうするだろうな」
「戻りましょう、レイ。仕事をしっかりとこなした以上、私達はここで遊んでいられるような余裕はないのよ!」
レイの言葉に、即座に前言を引っ繰り返すニールセン。
それだけ長からのおしおきが怖かったのだろう。
「また……随分と長というのは怖いのだな」
ニールセンの様子を見ていたエレーナは、あのニールセンにここまで言わせるとはと驚く。
エレーナもニールセンの全てを知っている訳ではない。
しかし、それでもニールセンは以前マリーナの家に泊まったことがあったのだ。
そうである以上、それなりにニールセンの性格は理解出来ている。
ニールセンの性格はそれだけ分かりやすいのだから、当然だろう。
そんなニールセンがここまで怖がるということは、それだけ長は怖いのだろう。
そのように考えたのだろうが、レイはそれに対して首を横に振る。
「別に特に厳しいって訳じゃないぞ? 俺にはそれなりに丁寧に接してくれるし」
「それは、レイだからでしょ!?」
ニールセンはレイの言葉に納得出来ないといった様子で叫ぶ。
長のレイとニールセンに対する態度では、明確に違いがある。
ニールセンにはそれが納得出来なかったものの、レイにしてみればそういうものだという認識の方が強い。
特に大きいのは、やはりレイの場合は妖精郷にとって恩人であるということだろう。
妖精郷に攻めてこようとした相手を倒し、スモッグパンサーの魔石を多数渡した。それ以外にも結構な量の素材を長に渡している。
そんなレイに対し、ニールセンは悪戯好きな妖精そのものの性格だ。
それでいながら、長の後継者として教育をされているというのも、この場合は大きいのだろう。
そんな訳で、レイとニールセンで長の態度が違うのは当然だった。
(多分、それ以外にも身内とそれ以外という認識があったりするんだろうけど)
幾らレイが妖精郷に利益をもたらしているとはいえ、それでもレイは妖精ではない部外者だ。
それに対し、悪戯好きで困った性格をしているものの、ニールセンは長の後継者という身内としか言いようがない存在だ。
そんな訳で、レイとニールセンとの間で対処が違うのは当然のことでもあるというのがレイの認識だった
実際にそれが正しいのかどうかまでは、レイにも分からなかったが。
「じゃあ、そんな訳で俺とニールセンは行くよ。長がこっちについて何か知ってるかどうかは、生憎と分からない。けど、今の状況を思えば、少しでも早く進んだ方がいいのは間違いない」
「うむ。レイがそう考えたのなら、私もこれ以上は何も言わん」
エレーナにとってレイがすぐに帰るのが残念なのは間違いないが、それなりに頻繁に対のオーブで会話をしていることもあり、すぐにそう告げる。
何よりも、別にこれが今生の別れといった訳ではない。
それこそまたそう遠くないうちに戻ってくるのは間違いないのだ。
そうである以上、レイがここで帰っても残念ではあるが、我慢出来ない訳ではない。
「じゃあ、セト」
「グルルゥ」
レイの言葉にセトが喉を鳴らしながら立ち上がり……そして友達がまた出掛けてしまうのを残念そうにしているイエロに向かって喉を鳴らす。
具体的にそれが何と言ったのは、レイにも分からない。
ただ、セトの鳴き声を聞いたイエロが少し元気になったのは間違いのない事実だった。
(俺がエレーナ達と対のオーブで会えるように、セトもイエロと対のオーブで会えるんだしな)
そう納得したレイは、イエロとの別れを終えたセトの背に乗る。
「あ、ちょっと待ってってば!」
セトの背に乗ったレイを見たニールセンは、置いて行かれたくないとレイの肩の上までやってくる。
ギルムの中を移動する時はドラゴンローブの中にいる必要があるものの、セトはマリーナの家から直接飛んでギルムを脱出するのだ。
つまり、ドラゴンローブの外に出ていても問題はないのだが……
「いや、それは不味いだろ。問題大ありだ」
呟くレイの言葉通り、別の意味で問題がある。
現在レイがマリーナの家にいるというのは、当然ながらマリーナの家を見張っている者達は知っている。
そうである以上、当然ながら能力の高い者が追加として派遣されてきてもおかしくはない。
空を飛んで移動するレイとセトと見つける必要がある以上、単純に視力の高い者や、あるいはスキルやマジックアイテムで視力を上げるといった能力がある者がいてもおかしくはないだろう。
そんな時に、レイの肩にニールセンが立っているのを見ればどうなるか。
ニールセンは性格はともかくとして、外見だけなら妖精らしい妖精だ。
そんなニールセンがレイの肩に乗っているのを見れば、レイが妖精を連れていると問題になることは間違いない。
そう説明すると、ニールセンは渋々といった様子でドラゴンローブの中に入る。
……ニールセンはそれでも最初嫌がっていたのだが、長の名前をそれとなく出したのが勝因だろう。
そうして嫌々ではあったが、ニールセンはドラゴンローブの中に入る。
「全く、結局ほとんど遊ぶことが出来なかったじゃない」
「そうか? 領主の館でダスカー様が来るまで、結構自由に部屋の中を飛び回ったり、屋台で買った料理を食べたりしてただろ? なら、それなりに満足してもいいと思うけどな」
「あのねぇ……本当ならもっとしっかりと遊ぶことが出来ていたのよ? なのに、レイが帰るって言うから……あ、でも早く長に事情を説明する必要があるし、急いで帰らないといけないわね、うん」
喋っている途中で、もしかしたらこの光景を長に見られているかもしれないと思ったのだろう。
ニールセンは慌ててそう付け加える。
「そうだな。長も待ってるだろうし。……じゃあ、エレーナ。また今度」
「うむ」
そうして短く言葉を交わすと、アーラは何も言わないがレイに向かって小さく頭を下げる。
それに頷いたレイは、そのままセトに乗って空に飛び立つのだった。