2970話
喫茶店の中で、レイとマリーナ、それとニールセンの会話はまだ続いていた。
マリーナの精霊魔法によって、その会話が周囲に聞こえることはない。
店員が注文した品を持ってきた時は、風の精霊の結界の中に入ってきたので、会話を誤魔化すことは出来なかったが、店員は別に気配を消して近付いてくる訳ではない。
そうである以上、店員が近付いてくるのはレイ達にも理解出来るので、その時だけは別の会話をすればよかった。
……店員としては、レイとマリーナがどういう関係なのか気になり、その会話を少しでも聞こうとしていたので、寧ろ誤魔化す為の会話を聞けて喜んでいたのだが。
今頃はカウンターの向こう側でレイとマリーナの会話を思い出しながら、一人で悶々としているだろう。
誤魔化す為の会話では、マリーナが女ですら目を奪われるような笑みを浮かべ、意味ありげな言葉を口にしていたので。
「さて、穢れに関してだけど……何で長だけが知っていたのかが気になるわね」
「それを私に聞かれても困るわよ。私は別にそういうのに詳しい訳じゃないし」
ニールセンはマリーナの言葉にそう返す。
実際、ニールセンにとって穢れというのは知らなかったし、長から聞かされて初めて知ったのだ。
あるいは以前長から聞いたことがあったのかも? と思わないでもなかったが、妖精に小難しいことを覚えておけという方が無理だろう。
……長のお仕置きを思い出せば、忘れるということはないように思えたが。
「うん、そうね。やっぱり長から聞いたのが初めてだわ」
お仕置きを思い出したのか、ニールセンはそう言う。
ドラゴンローブから顔だけ出しての会話なので、レイにはニールセンが震えているのが理解出来る。
それが武者震い……などとは、さすがにレイにも思えない。
間違いなく長のお仕置きを思い出し、それを怖がっているのだろう。
「そう。だとすると……長だけに伝わっている秘伝とか、そういう感じかしら? でも、それはそれでちょっと疑問ではあるんだけど」
そのような一子相伝――正確には若干違うが――のようにして伝わるものがあるというのは、マリーナも知っている。
世界樹の巫女であるマリーナも、ある意味でそのような存在ではあるのだから。
「多分……いえ、絶対にそうね!」
ニールセンとしては自分が聞いて忘れていたというのは、絶対に避けたい。
だからこそ、長だけに伝わる内容だと主張したのだろう。
それが実際に正解なのかどうかは、生憎とレイにも分からない。
ただ、そんなニールセンの言葉を聞いたレイは、以前セレムース平原で遭遇した妖精達……正確には、その妖精達の長を思い出す。
あの長も、トレントの森の妖精郷にいる長とはまた別の妖精の群れを率いる長だ。
そうである以上、もしかしたらあの長も穢れについて知ってるのではないか、と。
(穢れによって最悪大陸が壊滅するというのなら、あの長の力も借りることが出来れば……いや、そもそもあの長と接触出来ない以上、意味はないか)
一瞬、ナイスアイディアと思ったレイだったが、連絡が出来ないのならとすぐに却下する。
あるいはトレントの森の妖精郷の長なら、別の妖精郷の長に連絡が出来るかもしれないと思うが……今は取りあえず置いておくことにする。
「ともあれ、穢れね。……出来ればそういうのは、ギルムの増築工事が終わってから起きて欲しかったけど」
「それを俺に言ってもな。寧ろ早い段階で見つかったんだから、悪い結果ではないんじゃないか? ……具体的に本当に早いのかどうかは分からないけど」
レイにしてみれば、ボブの一件が早いのか遅いのか、理解は出来ない。
だが、もしボブに遭遇しなければ、穢れというものの存在に気が付くことはなかったのだ。
もっとも、レイが気が付かなかったからといってこの世界の誰もが気が付かない訳ではない。
レイが気が付かなければ、また別の誰かが気が付いていたのは間違いないだろう。
それが具体的に誰になるのかというのは、生憎とレイにも分からなかったが。
ともあれ、何も知らない状況で事態が進むよりはレイが関わったことによって穢れの一件を知ることが出来たというのは、間違いなく悪い話ではなかった。
実際に今回の一件に巻き込まれたレイがどのように思っているのかというのは抜きにしての話だが。
「そうかもしれないわね。けど、そう考えるとレイがギルムの外にいたというのは、悪い話じゃなかったといったところかしら」
「嬉しいやら悲しいやらといったところか」
「ふふっ、やっぱりレイはそういう体質なのね」
「……あまり嬉しくないけどな」
トラブルに愛される体質、あるいはトラブルの女神に愛される体質。
どちらでもそれなりに納得出来る話ではあるし、レイもまた自分がそういう風なのは理解している。
しかし、理解しているからといってそれに納得出来るかと言われれば、その答えは否だ。
出来れば今回の件は面倒がないままで終わって欲しい。
そう思うも……穢れという話の大きさや、その厄介さを考えれば、とてもではないが自分が関わらずにいる間に誰かが解決してくれるとは思えなかった。
(とはいえ、俺が関わるにしても話がちょっと大きすぎるのは間違いないんだよな)
レイにしてみれば、出来るのなら面倒なことはごめんだという思いもある。
ただでさえ、現在の自分の状況は色々とトラブルに巻き込まれ続けているのだから。
……中には自分からトラブルに関わっているという一面もあるのだが、本人にそこまで自覚はない。
「そうなると、レイはすぐにでも妖精郷に向かうの?」
「そうなるな。本来ならもう少しこっちでゆっくりしていたいという気持ちはあるけど、そうなるとマリーナの家に結構な連中が集まってくる可能性が高いし。それに……今回こうしてギルムに来たのは、長からの要望というのが大きい。そうである以上、用件が終わったら出来るだけ早く帰った方がいいし」
「えー……」
レイの言葉に、ニールセンが不満そうな様子を見せる。
ニールセンにしてみれば、妖精郷に戻るとまた長に色々と仕事を任されたりするのが面倒なのだろう。
……穢れを花の形をした宝石に隔離したのはともかく、それの処理をしようとしてニールセンが失敗したのを、レイは知っている。
そのお仕置きをされているニールセンの姿も見ているのだ。
それを知っているだけに、ニールセンが妖精郷に戻りたくないというのは、レイも分かる。
分かるのだが……だからといって、その言葉に素直に頷く訳にいかないのも事実だった。
「長のことだから、一体どういう手段で今回の一件を知るかは分からないぞ? もしかしたら、今この場を何らかの手段で見ている可能性も否定は出来ない」
「え……そんな、まさか……でも、長なら……」
レイの言葉を信じたくないといった様子のニールセンだったが、冗談のつもりで言ったレイもまた、長の能力を考えればもしかして……と、そう思ってしまう。
実際に長がそのような真似を出来るかどうかは分からない。
しかし、長に話を聞いて自分にはそのような真似は出来ないと言われても、長の言葉であると考えれば素直に頷くことが出来ないのも事実だった。
それだけの何かを長が持ってるのは間違いないのだから。
幸い、レイは長から恩人として認識されており、馬鹿な真似をしない限りは長と戦うといったようなことをする心配はない。
そういう意味では、レイはまだ安全だった。
長の後継者と目されているニールセンはともかくとして。
「取りあえずここで話が終わったら戻るよ。ギルドの倉庫に行った時、一応分からないように酒場とかある場所を通って出て来たんだが、それでも俺を追ってくる奴がいたからな。この店に来る途中で撒いてきたし」
知られると困ることがあるからこそ、尾行を撒くといった真似をしたのだ。
そうである以上、尾行していた者達がレイをレイであると認識してもおかしくはない。
そのような真似をしたのだから、もうレイの正体は知られていると考えてもおかしくはない。
「何でそんな真似をしたの?」
「いや、マリーナと会うのにああいう連中がいたら、色々と不味いだろ。向こうにしてみれば、俺をレイと疑ってるのにマリーナと会ったらどう判断すると思う?」
マリーナが冒険者と騒動を起こすような真似をせずにいれば、そこまでする必要もなかったかもしれない。
もっとも、その場合はマリーナと会わずにマリーナの家に戻っていた可能性も高かったのだが。
「それもそうね。だとすれば、やっぱり今回の一件は仕方がなかったということでしょう。せいぜい、レイが妖精郷に戻る前に一緒に楽しみましょう」
「あのー……ねぇ、一応言っておくけど、私がいるのも忘れないでね」
何となく二人の空気を作られそうだったということもあってか、ニールセンはレイとマリーナの会話に割り込む。
レイは一体何を言ってるんだとニールセンに疑問の視線を向けるだけだったが、マリーナの方は満面の笑みを浮かべて視線を向けるだけだ。
マリーナが一体何を考えているのか、それを見ていたレイには分からなかった。
ただ、ここで何か言えば面倒なことになりそうな予感だけはしていたので、黙り込む。
(セト、大人しくしてるかな。まぁ、イエロも一緒にいるんだし、寂しくなるようなことはないか)
セトとイエロが遊んでいる様子を想像するレイだったが、それは半ば現実逃避に近い行動だった。
もっとも本当にセトを心配している一面があるのも、また事実だったが。
「レイが戻ってきたのを知ってるのは、私とエレーナだけなのよね? だとすれば、ヴィヘラも呼んだ方がいいんでしょうけど……今日、ヴィヘラは生誕の塔に行ってる筈だから、レイと行き違いだったみたいね」
「そういう意味だと、何気に俺は一番会う可能性が高いのはヴィヘラとビューネなんだよな。……こっちに来る前に生誕の塔に顔を出してくればよかったか。今更遅いけど。でも、何でヴィヘラが生誕の塔に?」
これで、トレントの森の中央にある地下空間に行ってるというのなら、レイもそこまで驚くようなことはなかっただろう。
あるいは樵の様子を見に来たといったことでもそこまでは驚かなかった。
しかし、それが生誕の塔となると疑問がある。
ヴィヘラとリザードマン達の間には、そこまで繋がりはなかったのだから。
転移してきたリザードマンの中で最強のガガは、ヴィヘラと模擬戦を行ったことはあったので、それが理由なのかもしれないが。
「何だかギルドの方から依頼があったみたいよ」
「そうなると、荷物の護衛とか? ……けど、わざわざヴィヘラを護衛に雇う必要があるか?」
生誕の塔や湖を守る為に派遣されている冒険者達に、食料や酒、その他の生活物資を毎日のように届けている。
その荷物の運搬にヴィヘラに護衛を頼むのは一体どのような理由からなのか。
生憎とレイにはその理由は理解出来なかった。
「それを私に聞かれても、分かる訳がないでしょう? 私は元ギルドマスターだけど、今はただの冒険者でしかないんだから」
マリーナの後継者としてギルドマスターの地位を継いだワーカーは、当然ながら前ギルドマスターだからといってマリーナに情報を流すとは思えない。
であれば、マリーナが今回の一件の理由を知らなくてもおかしくはない。
「ワーカーだし、話をしたりはしないか」
何気に、レイとワーカーの付き合いはそれなりに長い。
ワーカーは、元々ギルムからそう離れていない場所にあるダンジョンにあった、ギルドの出張所の責任者だった人物だ。
エレーナからの依頼によってダンジョンに向かった時に顔を合わせたのが最初となる。
そういう意味では、エレーナやアーラと同じくらい古い付き合いなのは間違いなかった。
もっとも、古いとはいえレイがギルムに来てからまだ数年しか経っていないのだから、そういう意味では実際にはそこまで古い知り合いではないのだが。
ただし、そのダンジョンの騒動の後もレイはエレーナと顔を合わせることが多かったのに対し、ワーカーとは殆ど顔を合わせてはいない。
そういう意味では、同じくらいに知り合ったとはいえ、付き合いそのものはそこまで深いものではなかったのだろう。
「ワーカーは真面目だもの。勿論、何かあった時は柔軟に対応出来るけど」
ワーカーを褒めるマリーナ。
自分の後継者としてギルドマスターにしただけに、ワーカーという存在はマリーナにとってそれなりに信じられる相手なのだろう。
もっとも、だからといって今回のようにワーカーがマリーナに対して情報を流すようなことは基本的にないのだが。
そんな風に考えつつ、レイはマリーナやニールセンと会話を続けるのだった。