2967話
ネブラの瞳によって生み出された鏃により、散々に攻撃された貴族。
幸いなことに……というか、レイがそのように狙っていたからなのだが、放たれた鏃の一撃は敵に対して放たれるものより大分威力が落とされていた。
レイにとって、兵士達に命令をした貴族は敵という認識で間違いないのだが。
ともあれ、放たれた鏃は威力が抑えられていたこともそうだし、何より攻撃が命中したのはあくまでも服の上からだったということもあって、痛みは与えるが骨を砕いたり折ったりといった致命的なダメージは与えず、せいぜいが打撲といった程度でしかなかった
……ただし、そうして攻撃の威力が弱まったからこそ、放たれた攻撃の数は三十を超えている。
中途半端な痛みではあるが、それはあくまでもレイにとっての認識だ。
戦いというのは自分がやるのではなく、部下がやるもの。
自分は貴族である以上、攻撃されるということはない。
そのように思っていた者だけに、まさか自分が攻撃されるとは思っていなかったのだろう。
そのあまりの痛みに、間違いなく二十代の貴族は泣き声を上げる。
「うわああああああああん! よくも私にこんなことをしたなぁああああああ! 許さない、絶対に許さないんだからなああああああああっ!」
そう泣き叫びながら、痛みで立てないその身体を兵士達に支えられながら倉庫の前から逃げ出した。
「うわぁ……」
まさか立派な男がああも露骨に泣き叫ぶというのは、レイにとっても予想外だった。
レイの口からは、そんな呆れの声が漏れる。
そしてそれは、倉庫の護衛の冒険者達も同じだった。
「えっと……その、何だ。レイもちょっとやりすぎだったのかもしれないな」
先程までは偉そうにしていた男が泣き喚きながら連れられて立ち去った光景を見ていた冒険者の一人が、何とかそれだけを口にする。
レイとしてはそれに反対の言葉を口にしたかったものの、今のこの状況を考えるとそんな風に言われてもおかしくはないと思えてしまう。
「手加減はしたんだけどな」
これは決して嘘ではない。
レイはしっかりと手加減をしている。
それこそもしレイが本気で先程の貴族の男を攻撃していれば、ああして泣き叫ぶ程度のダメージではすまなかっただろう。
だが、やりすぎだったかもしれないと口にした男は、レイに対して首を横に振る。
「手加減をしたって、それはあくまでもレイの基準でのことだろ? ああいう風に、見るからに甘やかされて育った貴族にとっては、それでも厳しい一撃だったんだと思う」
「……あれでか」
もしレイがネブラの瞳によって生み出された鏃を本気で投擲していた場合、そのダメージは皮を裂き、肉を抉り、骨を砕くといったようなことになってもおかしくはない。
そんな中で、そこまでのダメージにはならないように投擲したのだ。
これが相応の強さを持つ冒険者であれば、レイの攻撃によってダメージを受けても、痛みはするが我慢して次の行動に移すといったようなことも出来ただろう。
少なくても、痛みに泣き叫ぶといったようなことはしない。
「あれでもだよ。レイも貴族と揉めたことはあるんだから、ああいう奴が一体どういう性格をしてるのかってのは、分かるだろう? いわゆる、世間の荒波ってのは何も知らねえ連中なんだから」
そう言われると、レイも少しやりすぎたか? と思わないでもない。
先程の貴族は、面子を完全に潰されたのは間違いない。
何よりも面子を重要視する貴族が、泣き叫びながら部下に背負われて街中に姿を現したのだ。
貴族ということは、恐らくギルドの近くには馬車を用意していただろうとは思うものの、その馬車に乗るまでの間に見られたことを思えば、逆恨みしてレイに報復しようとしてきてもおかしくはない。
もっともそのようなことをしようとした場合、間違いなく返り討ちに遭ってしまうだろうが。
「取りあえず、ああいう面倒な奴が来るというのは分かった。……ここの護衛もそれなりに大変な仕事なんだな」
「いやまぁ、それは否定しないけど。ただ、最近はああいう奴も来なくなってたんだよ。今日は多分、レイが来たからというのが、最大の理由だろうな。もしレイがいない時にああいうのが来ても、ただ倉庫の中に入れる訳にはいかないと言えばいいんだし」
「それで、諦めるのか?」
レイが見たところ、あの貴族は自分が世界の中心にいるとでも思っているかのような態度だった。
冒険者のレイ達は、自分の命令に素直に従って当然だと、そう思っているように思えたのだ。
レイにしてみれば、向こうがそのように思っているのは別に構わない。
だが、だからといって自分がそれに従う必要はないだろうというのが、素直な気持ちだ。
「そうだな。諦めて貰う。中にはどうあっても倉庫の中に入ろうとした奴もいたが、その時は力ずくで止めたらしい。俺がいた時にそういうことが起きたりはしなかったけどな」
そう告げる冒険者の男に、そうだろうなとレイは返す。
レイが見たところ、そのような相手とのやり取りは冒険者もあまり好まないのは明らかだ。
レイの場合は貴族を相手にしても力を振るうのに躊躇はしない。
先程の貴族に対する攻撃は、かなり手加減をしての行動だったのは間違いなかった。
デスサイズを使ったりせず、黄昏の槍も使っていない。
ネブラの瞳を使っての攻撃で、しかもその攻撃は大分手加減をしての一撃だった。
そういう意味では、先程の貴族は運がよかったのは間違いない。
場合によっては、ネブラの瞳の一撃によって先程よりももっと酷い怪我をした可能性が高い。
そうなった場合は、ここがギルドということもあって大きな騒動になっていた可能性は否定出来なかった。
「取りあえずこの件についてはギルドに報告しておくよ。多分、ギルドの方からあの貴族……もしくはその貴族の上にいる存在に連絡がいく筈だ。そうなれば、基本的には向こうがギルドに謝罪してきて話は終わりになる」
基本的にはとしたのは、貴族の中には自分が悪いということを絶対に認めないような者もいる為だ。
とはいえ、そのような貴族も上……自分よりも爵位の高い貴族が仲介をすると、それを断るような真似は出来なかったが。
自分の我が儘で派閥に迷惑を掛けるというようなことになれば、当然ながら多くの者がそのような真似をした貴族に嫌悪感を抱く。
その貴族のとばっちりが自分にも来るかもしれないと、そう思うのだろう。
貴族社会は広いようで狭い。
どこからどのように噂が広まるか分からず、そうなると間違いなく面倒なことになる。
そうならないようにと考えれば、迂闊な真似は出来ない……筈だった。
あくまでも理屈上ではの話だが。
(あの貴族が俺に恨みを抱いて、その恨みを晴らすような真似をしてきたら、こっちとしても色々と面倒なことになるのは間違いない。だからといって、こっちが特に何かをしたりするつもりはないけど)
ここにいれば、また他の面倒がやってくるかもしれない。
そう判断したレイは冒険者達に声を掛ける。
「俺がここにいると面倒なことになるかもしれないから、そろそろ帰る」
「そうした方がいい」
倉庫の護衛をしている冒険者にとっても、このままレイがここにいるといったようなことをした場合、先程の貴族とはまた別の面倒がやってくる可能性が高かった。
そうならないようにする為に、レイには出来るだけ早くここから立ち去って欲しいと思うのは当然だろう。
レイも当然ながらその考えは理解していたものの、それでも今の状況を思えば少しでも早くここから離れた方がいいと判断し、そのまま立ち去る。
……ただし、それは来た方向にそのまま帰るのではなく、一度ギルドの建物の中に入ってから外に出るという形でだが。
先程の一件がある以上、ギルドの倉庫から直接外に続いている道には、何らかの見張りがいる可能性が否定出来ない。
であれば、わざわざそのような場所に自分から向かうといったようなことをするつもりはない。
それに比べると、ギルドの建物……特にレイが向かった、依頼を受けたり、酒場のある場所にはこの時間でもまだ結構な人数が集まっている。
そのような場所を経由して外に出れば、見張っている全員を誤魔化せる……とは思えないが、それでもある程度の人数を誤魔化すことは出来る筈だった。
そうである以上、レイとしては自分のこの行動は決して間違ってはいないと思える。
(どうやら、間違ってはいなかったみたいだな。……それでもある程度の視線はあるけど)
ギルドから出ると、やはり視線は感じる。
それでもそこまで多くの視線は感じていない。
ギルドを経由することで、間違いなくある程度の数は減らすことが出来たのだろう。
(それでも俺を見ている奴がいるというのは厄介だな。……俺と同じようにローブを着ている奴は結構いるけど、それでもあまり誤魔化しが出来ないのか)
自分が見られているからとはいえ、自分がここで何か行動を起こすつもりはない。
ここで自分が無意味に動けば、それこそ自分を見ている相手に自分がレイであると認識させてしまうことになるのだから。
「さて、後は……適当に見て回るか。戻るにしても、誰かを連れていくことになるかもしれないし」
マリーナの家に戻る時は、出来るだけ早く戻ってしまえばいい。
マリーナの家の敷地内に入ってしまえば、そう簡単にレイを追ってくることは出来ない。
もしその状況でレイと接触が出来る者がいるとすれば、レイがマリーナの家に戻った時に偶然エレーナと面会している者がいた場合だろう。
レイがマリーナの家の敷地内に入ったからとはいえ、すぐにエレーナに会いたいといっても、当然ながらすぐにそれが聞き届けられることはない。
ミレアーナ王国の三大派閥の一つ、貴族派を率いているケレベル公爵の令嬢にして、姫将軍の異名を持つ貴族派の象徴とも呼ぶべき人物だ。
もしそんな相手と接触するのなら、前もって……それこそ数日、場合によってはそれよりも前に約束を取り付けておく必要がある。
そういう意味では、やはりマリーナの家の敷地内に入るのが一番手っ取り早い。
(とはいえ、そうなるともう完全に出掛けることは出来なくなるんだよな)
街中を歩きつつ、今まで買ったことのない屋台から色々と購入していく。
これで十人分、二十人分といった量を購入すれば、レイであると見破られる可能性もあった。
その辺はレイも警戒しているので、普通に一人分、あるいは二人分くらいしか購入していない。
(あ、マリーナの働いている治療院にちょっと顔を出してみるか?)
勿論、レイが来たと分かれば問題になるので、治療院に行ってマリーナと会うといったことは出来ないだろう。
だが、問題なく仕事が出来ているのかどうかを見ていくくらいなら問題ないだろうと判断した。
屋台で買った串焼きを食べながら、治療院に向かう。
ギルドの一件で視線を感じたものの、進むにつれてレイに向けられる視線は少なくなってくる。
レイを怪しいと思った者にしても、絶対の確信があった訳ではない。
これでレイがどこかに急いで移動するといった真似をすれば、レイをレイであると確信を持ったかもしれないが……今のレイは、特に急いで移動するようなこともなく、屋台に寄っては料理を購入するといったようなことしかやっていない。
もしレイであれば、そんな行動はしない。
そう思った者達が、レイの尾行から離れていったのだ。
レイにしてみれば、それは別に狙ってやった訳ではない。
まだ何かやることが決まっていなかったので、適当に寄り道しながら進んでいただけでしかない。
そんな状況で自分を尾行している者が減ったのだから、ある意味で幸運だったのは間違いない。
「ん? あれは……」
治療院が近付いて来たのはいいのだが、何故か治療院の方に人が集まっているのに気が付く。
一体何があったのか。
それはレイにも分からなかったが、治療院の方で何かがあったとなれば、それは当然ながらマリーナにも関係してくるのは間違いない。
マリーナが力――物理的な力ではなく、総合的なという意味で――を使えば、大抵のことは何とか出来るだろう。
マリーナの使う精霊魔法には、それだけの力がある。
そういう意味では、マリーナが何か危険に巻き込まれるとは思っていない。
それでも気になるのは間違いなく、治療院に向かう足が少し速まる。
マリーナは腕利きの治癒術士でもある。
もしかしたら、そんなマリーナでもどうしようもない怪我をした人物が運び込まれたのでは?
そんな風に思っていたのだが……人が集まった中をすり抜けて移動したレイが見たのは、水の中に数人の男達が閉じ込められて、息が出来ずに必死になって暴れている光景だった。