2964話
領主の館の前で起きた面倒の後は特に何か問題が起きるようなこともなく、レイは街中に戻ってきた。
増築工事をしている者達の数が多く、こうして見ている限りでは歩く隙もあまりないように思える。
(いや、本当に以前よりも人の数が多くなってないか? ……まぁ、秋だからしょうがないのかもしれないけど)
多くの商人にとって、冬になる前にギルムで商品を仕入れるのが目的なのだろう。
商品の仕入れに手間取ると、ギルムにいるうちに雪が降ってくる可能性も高い。
勿論、雪が降ってきたからといってすぐにギルムから出られなくなる訳ではない。
それでも雪が降れば寒いし、何より街道にも雪が積もる。
本格的に雪が積もれば馬車で移動するのは不可能ではないが、難しい。
あるいは薄らと積もった程度であれば馬車はそれなりに楽に移動出来るが、雪によって車輪や馬車を牽いている馬が足を滑らせる可能性がある。
そのようなことにならないように、今は少しでも早くギルムから商品を仕入れ、他の場所に行きたいのだろう。
あるいは増築工事の仕事をしている者が、冬の間に故郷に戻る時のお土産を購入していたりもする。
もしくは、ギルムで冬越えをする者のうち、少し早めに色々と必要な物を購入しておこうとしている者もいるのか。
(うん、こうして見ると皆が忙しそうで何よりだ。……穢れの件で王都から人が派遣されてくるのは間違いないらしいけど、その辺はどうなるんだろうな)
雪が降れば、当然ながら移動はしにくくなる。
ましてや、ギルムのある辺境では冬特有のモンスターが出没することも珍しくはない。
であれば、王都から誰かがやって来るのであっても、雪が降る前にギルムに到着する必要があり、人選に時間を掛ける訳にはいかない。
(自分の利益になる可能性が高いからこそ、自分がギルムに来たいという人が多いと思うけど。その中で誰が選ばれるのか。それこそ駆け引きとか取引とか、そういうのが多そうだよな)
そんな風に思いながら街中を歩いていたレイだったが……
「おい、レイがギルムに戻ってきてるってのは間違いないのか!?」
そんな声が耳に入り、レイの歩く速度が一瞬鈍る。
幸いなことに、そんなレイの様子に気が付く者はいなかったが……それでも腕利きの冒険者の多いギルムだ。
もしかしたら、今の一瞬の動きだけでレイをレイだと認識した者がいてもおかしくはない。
……もっとも、そういう者にしてみればドラゴンローブの隠蔽効果も大して意味はなく、フードを被っている顔やドラゴンローブでレイだと分からなくても、身体の動かし方でレイだと見破ることが出来てもおかしくはない。
そういう人物がもしかしたら今のレイを見ていて、レイのことを見抜くといった可能性があったが、今はそういう相手に見つかっていないだろうと思いつつ、レイは耳を澄ませる。
「本当らしい。何でも貴族街に大きめなモンスターが降下していくのを見たって話だ。今のこの状況でそんな真似をするのはレイだけだろ?」
「ちょっと待った。それってクリスタルドラゴンを倒した深紅だよな? 俺は最近ギルムに来たばかりなんだが、何で従魔とはいえ、モンスターが手続きもないままで街中に入ってくることが出来るんだ?」
「ん? 最近来たのなら知らないか。レイは……というか、レイとセトは色々と特殊な存在だからな。この増築工事も最初はレイに頼り切りだったって話だし。その関係で街に入る手続きをしなくてもよくなったって話だ」
違う。
会話を聞いていた者達に対して反射的にそう言いそうになったレイだったが、もし今ここで自分がそのようなことを口にした場合、自分がレイだと知られてしまい、間違いなく面倒なことになる。
先程領主の館の前でも少し危ないところがあったので、口出しするのは止めておく。
……実際には手続きをしないで直接ギルムに入ることが出来るようになったのは、クリスタルドラゴンの一件があったからこそだ。
勿論、増築工事でかなり働いたのが大きな理由になったのも間違いではないが。
聞こえてきた話に突っ込みたい思いを抱きつつも、周囲にある店の商品を眺めるようにして話を聞く。
「貴族街か。出来ればドラゴンの素材を売って欲しいと思っていたんだが……それは無理そうか」
「無理だな」
「いや、そんな容赦なく言わなくても……」
もしかしたら何らかのヒントくらいはあるのではないか。
そんな思いで話していた相手に尋ねた商人だったが、尋ねられた方もそれに対しては首を横に振るしかない。
「無理なものは無理だ。今までも結構な数の連中がレイに交渉を持ちかけようとしてるが、まだ成功したという話を聞いた事がない。本人もそうして交渉を持ち込まれるのを嫌がってか、なかなかギルムに戻ってこないしな」
「そうなのか。出来れば一度会って話して見たかったんだが。ドラゴンの素材の件を抜きにしても、異名持ちの冒険者というのは面識を持っておいて悪いことはないし」
「それはそうだが……それなら、レイじゃなくて他の奴にした方がいいと思うぞ」
「え? 何でだ? 深紅の異名を持つレイは、ここ数年でかなり有名になってきている。それだけに、出来れば早いうちに会っておきたいんだが」
「けど、レイは商人としての常識が通用しないからな。気に入らない相手にははっきりと気に入らないと言うし、そう簡単に取引は成功しない。本人が高い戦闘力を持っているだけに、脅しとかも通用しないし。ああ、勿論俺はそんなことをするつもりはないけどな」
誰に聞かれているのか分からない以上、慌ててそう訂正する男。
実際、その判断はある意味で正しかった。……同時に、ある意味で間違っているとも言えるのだが。
何しろ、レイはその場で話している言葉を聞いていたのだから。
その言葉を聞いていたからこそ、その商人の顔はしっかりと覚えておき、取引をしないようにしようと考え……その場から立ち去る。
その場に残ったのは、ギルムに来たばかりの商人と、訳知り顔で説明する商人のみ。
自分が致命的な間違いをしたとは知らず、物知り顔で説明を続けるのだった。
(やっぱりセトの件が知られるのは早いな。もう結構動き回ってる奴も多いし)
レイが見たところ、いつもより街中を忙しく歩いている者が多い。
もちろん、その全てがセトが降下してきたということでレイを捜している訳ではないだろう。
だが、それでも今の状況を思えば、結構な人数がレイを捜す行動に回されているのは間違いなかった。
それでもこの人混みの中からドラゴンローブの隠蔽の効果で一般的なローブしか着ていないレイであると認識される可能性は少ないので、そう簡単に見つかるつもりはなかったが。
(けど、どうするかな。これだと迂闊に動く訳にもいかないし。……いっそマリーナの家に帰るか? そうすれば面倒には巻き込まれなくてすむし)
マリーナの家は精霊魔法によって悪意のある者は入れないようになっている。
とはいえ、悪意がなければ入れるということになるのだが……幸い、ギルムにおいてマリーナの名前というのはかなり知られていた。
そうである以上、何の約束もなくマリーナの家の敷地内に入るというのは、後々問題になるのは間違いなかった。
エレーナが現在拠点としている関係で、実はそれなりに多くの者がマリーナの家に入っていたりはするのだが。
それでもマリーナの家に入ってしまえば、レイに向かってどうこう言ってくる者は……全くいない訳ではないだろうが、かなり減る。
ましてや、マリーナの家にある自分の部屋にいれば、さすがにそのような状況でレイに取引を持ちかけてくるといったような者はいないだろう。
それもいいか。
そう考えたレイだったが、すぐにその意見を却下した。
それはそれで問題ないのだが、その前にレイには確認しておく必要があることを思い出したのだ。
それは、ギルドで行われているクリスタルドラゴンの解体がどこまで進んだかを確認すること。
以前ギルドに顔を出してから、まだそれ程時間は経っていない。
そういう意味では、まだあまり解体は進んでいない可能性もあったが……次、いつギルムに来ることが出来るか分からない以上、その辺は自分でしっかりと確認しておいた方がいいのは間違いない。
ドラゴンローブの中で、もぞりと動くニールセン。
レイの考えを察した訳ではないだろうが、それでも好奇心が強いニールセンとしては、出来るだけ面白い状況になって欲しいと思うのだろう。
……もっとも、ニールセンの存在はまだ人に知られる訳にはいかない。
もしレイがクリスタルドラゴンの解体を見に行っても、そこにギルド職員がいる限りニールセンがその光景を見ることは出来ないだろう。
それでも、周囲に見つからないように少し見せる程度なら。
そう思いながら、レイはギルドに向かう。
街中を進むと、やがてギルドの建物が見えてくる。
ギルドに近付くと、それに比例して冒険者の姿が多くなっていく。
もっとも、その冒険者は多くが本当の冒険者……増築工事前からギルムにいた者という訳ではなく、増築工事が行われるので、その仕事を欲してやって来た者達が大半なのだが。
(これ、まさに木を隠すのなら森の中って奴だよな)
本物の冒険者ではなく、増築工事をする為に臨時的に冒険者になった者の多くは当然ながら防具を特に使ったりといった真似はしないので、動きやすい格好をしている者が多い。
そのような者達の中には、秋になったということで寒さ対策の為にローブを着ている者も多い。
当然ながら、そのような者達が着ているローブは本当の冒険者が着ているような防御力が高い高級なものではなく、その辺に売っているような物だろう。
そんな中でレイの着ているドラゴンローブの隠蔽能力は周囲に溶け込むという意味で、ギルドの周囲においては非常に有効だった。
とはいえ、ギルドには増築工事前からギルムで行動していた冒険者もいる。
そんな中にはレイのドラゴンローブの能力を見抜くといった者もいるので、その結果としてレイをレイであると認識する者もいるのかもしれないが。
(今は安全だけど、いつまでもここにいれば俺を見抜く奴に出くわすかもしれないから、さっさと倉庫の方に行くか)
そう判断し、レイは倉庫のある方に向かう。
幸いなことに、ギルドの近くには多数の者達がいたので、レイが移動しているのを気にするような者はいなかった。
……あるいはレイが移動している先について知っていても、その先にいる者達に追い返されると思って放っておいたのかもしれないが。
現在、ギルドの倉庫ではクリスタルドラゴンの解体が行われている。
当然ながら、それを知っている者は何とかしてその情報を欲しいと……あるいは上手くいけばクリスタルドラゴンの死体を入手出来るかもしれないと、そんな風に考えて倉庫に向かう者も多い。
そのような者達が解体をしているギルド職員と会うのを断る為に、あるいは倉庫に忍び込んでクリスタルドラゴンの素材を盗もうとするのを防ぐ為に、ギルドは腕利きの冒険者を倉庫の護衛として置いていた。
それこそ、本来なら倉庫の護衛はしないような者達を。
ギルドにとっても、もしここでレイから預かっているクリスタルドラゴンの素材が……いや、素材ではなく、肉片程度ですら盗まれるようなことがあれば、完全に面子が潰れる。
だからこそ、本来ならトレントの森に回してもいいような人材を倉庫の護衛に使っているのだ。
そうしてレイが進むと、ギルドからの腕の立つ冒険者と判断された者達がその行く手を遮る。
「ちょっと待ってくれ。ここから先……というか、向こうの倉庫は許可がある者以外は立ち入り禁止となっている」
真剣な視線をレイに向けてくる冒険者達。
ドラゴンローブの隠蔽を見破っている訳ではないのだろうが、それでもレイの身体の動かし方から腕が立つというのは理解出来たのだろう。
そんな相手に向け、レイはドラゴンローブのフードを脱ぐ。
そうして顔が露わになれば、レイをレイと認識して冒険者達は安堵した様子を見せた。
この場にいる者達はレイの顔を当然のように知っている。
元々ギルムでも有名な人物であるし、何より倉庫の護衛をギルドから頼まれた時にレイが来たら通してもいいと言われていたのだから。
「何だよ、レイか。驚かせないでくれ」
「そうそう、いきなり近付いて来たから……それも間違いなく強そうな奴だったから、もし敵だったらどうしようかと思ったぜ」
そう言ってくる冒険者達に、レイは悪いなと謝るのだった。