2935話
「もっと霧の深い場所まで行きます」
ここで待つか、それとも先に進むか。
その二つの選択肢で、ボブが選んだのは先に進むというものだった。
自分の身の安全を考えれば、もしかしたらここに残った方がいいのかもしれない。
だが、レイやセトがいない状況で一人ここに残っても、それこそ自分を狙ってやってくる動物やモンスターに対処出来るかと言われれば、ボブには正直なところ自信がなかった。
ボブが腕利きの猟師なのは間違いない。
だが、それでも冒険者ではなく猟師なのだ。
その上、ボブはここが辺境であるというのもレイに聞いて知っている。
そうである以上、今は少しでも自分が助かる方法を……と、そう考えた結果、やはり奥に進む方がいいと思ったのだろう。
勿論、自分の安全以外にも妖精郷に少しでも近付きたいという好奇心があったのは事実だ。
今の自分の状況を思えば、それこそすぐにでも妖精郷の中に入りたい。
そうすれば安全になるのは間違いないし、同時に自分の中にある好奇心も満たすことが出来る。
そんな最善の選択肢を、ボブが選ばない訳がない。
……もっとも、それは霧の中で狼と一緒にいなければならないということでもあるのだが。
「そうか。お前がそのつもりなら話は分かった。俺もその言葉を受け入れる」
「グルルゥ」
「頑張ってね」
レイ、セト、ニールセンがそれぞれボブに声を掛ける。
そんな風に改めて声を掛けられたボブは、正直なところ不安な思いを抱いてしまう。
レイやニールセンの性格を完全に把握した訳ではない。
しかし、それでも二人の性格をある程度理解しているだけに、今のこの状況でこのようなことを言われると不安になってしまうのは当然だった。
「その、レイさん。一応聞いておきますけど、本当に大丈夫なんですよね?」
「そうだな、問題はないと思うぞ。ただ、それはあくまでもボブが狼達に攻撃をしたり、あるいは無意味に霧の中を歩いたりとか、そういう真似をしなければの話だが」
「も、勿論そんな真似をするつもりはありませんよ! それは……まぁ、妖精郷が気になるのは事実です。けど、今の状況を思えばそんな真似をしても相手に警戒させるだけですし」
「なら問題はないと思う。……とはいえ、それはあくまでも俺がそういう風に思ってるだけだがな。妖精郷を治めている長がボブを気に入らないと思ったら……それこそ、どうなるのかは分からない」
「ちょっ、レイさん!? あまり脅かさないで下さいよ!」
レイの言葉に、ボブはそんな声を上げる。
好奇心の強いボブだったが、それでもやはりこの状況で脅されると怖いと思うこともあるのだろう。
とはいえ、これはレイにとって脅しという訳ではない。
実際に妖精郷についての判断は長がするもので、もし長がボブを妖精郷に入れるのを嫌がった場合、それだけですめばいいが……場合によっては、何らかの処置をされることがあってもおかしくはない。
それでもレイの知り合いということを考えると、長も無茶な真似はしない可能性の方が高かったが。
「とにかく……ん? どうやら来たみたいだな」
霧の濃くなっている方に進みながら話をしているレイだったが、不意にそう告げる。
来たって一体何が?
そうボブは考えたものの、レイが何を言ってるのかはすぐに分かった。
何しろボブの耳にも複数の何かが走ってくる音が聞こえたのだから。
腕利きの猟師のボブは、足音や現在の状況から何が近付いてくるのかを理解する。
同時に、先程レイやニールセンから聞いた話も近付いてくる相手について予想するのは難しくはない。
それはつまり……狼。
「うわっ!」
霧を突き破るように出て来た狼の姿に、ボブの口からそんな驚きの声が漏れる。
それでも咄嗟に弓を手にしなかったのは、レイやニールセンが側にいたからだろう。
やってきた狼達は、ニールセンやセトを見て落ち着いた様子を見せた。
なお、レイは特に気にしている様子はない。
妖精のニールセンは自分達が守っている妖精郷の住人なので問題はない。
そしてセトは、自分達との間に圧倒的な差がある存在であると知っていた。
それがニールセンとセトに対して狼が感じた事だった。
……なお、本来ならセトだけではなくレイに対しても格の差というのを知って、怖がってもおかしくはないのだが、その辺はセトの存在でレイには気が付いていないのだろう。
あるいはこれがモンスターやもっと本能の強い存在であれば、レイの存在にも気が付いたかもしれないが……生憎と、この狼達はそこまでの存在ではない。
それでもレイに対して何もしないのは、長からその辺をしっかりと言い含められているからなのだろう。
しかし、そんなレイ達と違ってボブは初めてここに来た者だ。
見知らぬ相手に、狼達が警戒してもおかしくはない。
狼の群れは、唸りながらボブの周囲を歩き回る。
それは明らかに警戒を意味しており、もしここでボブが何か怪しい行動をした場合、即座に攻撃を開始してもおかしくはなかった。
今この状況でそのような真似をしていないのは、ニールセンが一緒にいるからだろう。
ボブはそのニールセンに助けを求める視線を向ける。
レイではなくニールセンに助けを求めたのは、やはりここが妖精郷だからか。
その為に、ここで頼るべきはレイではなくニールセンであると、そう判断したのだ。
頼られたニールセンは、少し得意げな視線をレイに向けてから狼達に話し掛ける。
「この人はボブ。妖精郷の中に入る予定の人よ。今から長に許可を貰ってくるから、それまではここで待たせておくわね。言っておくけど、攻撃をしたりとかはしないようにね」
ニールセンがそう言うと、狼達は理解した様子で唸り声を止める。
そんな狼達の様子に安堵するボブだったが、それでも狼達は完全にボブに対する警戒を解いた訳ではない。
唸り声は上げていないし、円を描くようにしてボブの周辺を移動したりはしていないものの、それでも視線はボブに向けられたままだ。
もし……万が一にもボブが何か妙な行動をした場合、すぐに噛みつくのは間違いないだろう。
唸り声や自分を中心に歩くのを止めたことに安堵したボブだったが、それでも自分がまだ狼達に完全に気を許されている訳ではないというのは、理解出来た。
「で、出来るだけ早く戻ってきて下さいね」
そんな声を聞きつつ、レイ達は妖精郷の中に入っていく。
妖精郷の中に入ると、待ってましたと言わんばかりに多数の妖精達がやって来る。
「あー! ニールセンだ! レイもいる! ねぇ、ねぇ、何かお土産ないの? お菓子とか、お菓子とか、お菓子とか!」
「別にお菓子じゃなくて果物でもいいよ!」
「私は干し肉がいい!」
妖精達の中に干し肉を食べたいと言ってる相手がいるのに、レイは驚く。
以前来た時にも妖精からはお菓子や果物をちょうだいと言われたことはあったが、その中に干し肉はなかった。
もちろん妖精の性格を考えれば、どこかで悪戯をしたついでに干し肉を勝手に盗み食いをしたりといった真似をしてもおかしくはない。
だが、それでも妖精達の好みを考えれば、干し肉よりもお菓子や果実の方を好む筈だった。
(とはいえ、人の好みも千差万別。それが妖精ともなれば、好奇心が強いだけに干し肉に興味を抱くような奴がいてもおかしくはないか)
そう判断したレイは、適当に果実やお菓子を渡していく。
干し肉を欲しがった妖精には、きちんと干し肉を渡す。
本来なら、レイが妖精郷に来る度にお菓子や果実を渡すような真似をする必要はない。
それでもこうしてそれらを渡すのは、渡さないとかなりつきまとわれると思ったからだ。
勿論、妖精が調子に乗ってもっともっとと言ってくれば、話は別だったが。
幸いなことに、妖精達はその辺りの見極めは上手い。
もし何かあった場合、長に叱られることになると理解しているのだろう。
「ほらほら、私達は長に用事があるんだからその辺にしなさい。ここで私達の邪魔をしたら、それこそ長に怒られてしまうわよ!」
ニールセンからそう言われると、他の妖精達も反論することは出来ない。
もしここで自分が何かを言って、それが理由で長に怒られたりするのはごめんだと、そう思っているのだろう。
妖精達はそれぞれ自分の貰った戦利品を手に、レイから離れていく。
当然だが、レイが渡したお菓子や果実の数には限りがあるので、全ての妖精に行き渡る程ではない。
妖精達はレイから食べ物を貰った相手に、自分にもわけてと追い掛ける。
当然ながら、お菓子や果実を持った妖精はそれを自分だけで食べたいと思って逃げるのだが……そうして追いかけっこをしているうちに、お互いに何が理由でそのような真似をしていたのかといったことを完全に忘れてしまう。
追いかけっこに夢中になって……そうなると、当然だがお菓子や果実を持ってる方がその重量の分だけ遅くなる。
邪魔だとその辺に持っていたお菓子や果実を捨て……すかさず、それを別の妖精が受け止め、自分の物にしようとする。
それを追って、また別の妖精が追い掛け始め……そんなやり取りが延々と続いていた。
「さ、レイ。今のうちに行きましょ」
ニールセンの言葉にレイも素直に従う。
このままここにいては、追いかけっこに飽きた妖精達が再びやって来るかもしれないのだから。
そうして妖精郷の中を進むと、妖精の中には先程レイのいる場所までやって来なかった妖精達もいる。
こちらは好奇心は強いものの、ある程度は落ち着いた妖精達。
あるいはレイよりもっと興味を惹く何かがあり、そちらに意識を集中していた者達だ。
それでも少しは興味深いといった様子でレイを見てくる者もいたが、先程のように突っ込んでくる相手はいない。
(ニールセンもそうだったけど、別に妖精が寝る時は木の中でなくてもいいんだな)
花の上で丸まって眠っている妖精を見ながら、レイはそんな風に思う。
花の上で眠っている妖精というのは、非常に絵になる光景だ。
眠っている妖精には自分がそんな風に見えるとは思わないのだろうが。
その光景に目を奪われながら妖精郷を進み……やがて妖精郷の一番奥、長のいる場所に到着する。
尚、セトは途中でまたもや狼の子供がやってきて、その相手をする為にレイから離れていった。
レイも長と話している時に騒がれるよりはと、納得する。
「戻ってくるのが随分と早かったですね」
長はレイとニールセンを見ると、そう告げる。
最初、レイはその長の言葉を皮肉か何かかと思った。
スモッグパンサーの魔石を入手してから、川のある場所で野営をして、それから妖精郷に戻ってきたのだから。
しかし、長の様子を見ると特に皮肉を言ったつもりはなく、本当に心の底からレイ達が戻ってくるのが早かったと思っている様子だった。
事実、長はレイ達が上手い具合にスモッグパンサーの魔石を入手しても、戻ってくるまではもっと長く……それこそ十日くらいは掛かってもおかしくはないと思っていたのだ。
しかし、実際には十日どころか数日で戻ってきた。
これは長にとっても素直に驚くべきことだった。
そんな長の様子を見て、レイは少し戸惑ったように言う。
「そうか? てっきり遅いと言われるかと思ったんだが」
「そんな、遅いなど……ただ、途中で余計な物を……いえ、者を拾ってきたようですね」
不意に話題を変える長。
レイはすぐの長が何のことを言ってるのかを理解する。
「ボブ……妖精郷の前で待たせている奴のことか?」
「はい。その人物です。何らかの穢れを負っています」
「……穢れ?」
穢れという言葉の意味が分からず、最初は身体が汚いという意味で穢れと言ってるのかと思ったが、生憎とそれは違うというのは長を見れば分かる。
「ええ。恐らく何かそのような存在に接したのでしょう。それに……その穢れを通して、何者かと繋がっている様子」
「あ……なるほど。そういうことか」
「レイ? どうしたの?」
レイの思いつきが理解出来なかったのだろう。
ニールセンは不思議そうな様子で尋ねてくる。
「ボブは別に尾行とかをされていなかったのに、俺達が野営をしていた場所まで敵がやって来たって言ってただろう? その理由は、多分その穢れによる繋がりだ。具体的にはどうやってるのかは分からないが、何らかの方法でボブのいる場所を知ることが出来るんだろう」
「ああ、だから……でも、セトに気が付かれないで近くまで来たっていうのは?」
「さぁ? 正直なところ、その辺は俺にも分からない。ただ、その穢れというのを使っているのかもしれないな。……実際にはあの連中を捕らえるなりなんなりして聞き出す必要があるけど」
こうして、レイはようやくどうやってボブが追われているのかを理解するのだった。
……あくまでも、それは予想でしかなかったが。