2929話
「グルゥ?」
ボブが眠ってから少しして、セトは不意にそんな鳴き声を上げる。
そうして鳴き声を上げた後、寝転がっていた状態から起き上がる。
何かこれと分かるような異常があった訳ではない。
しかし、それでも何故か気になったのだ。
だが、こうして起き上がって周囲の様子を見ても、特に何かがあるようには思えない。
思えないのだが……それでもセトのどこかが何かおかしいと、そう告げていた。
「グルルルルゥ……」
自分の中で何かがおかしいと思う。
しかし、それでこうして周囲の様子を見ても、特に何かがあるようには思えない。
それでも何かがおかしいと思う。
そんな矛盾した状態にあるセトだったが、そんなセトの姿がある河原には蝋燭を持ったリーダーを中心にして、二十人近い男達の姿があった。
本来なら、ここまで近付くよりも前にセトに察知されてもおかしくはない。
おかしくはないのだが、それでもリーダーの顔には冷や汗が流れている。
リーダーが手に持つ蝋燭は、強力な認識阻害の効果を発揮すマジックアイテムだ。
それがどれだけの効果を発揮するのかは、今まで何度も使ってきた事で十分に理解している。
だというのに、今リーダーの視線の先にいるセトは、まだ何らかの確証がある様子ではなかったが、明らかに何らかの異常を察知していた。
(どうなっている? この蝋燭の効果があれば、こちらの存在に気が付くといったようなことはない筈なのに)
そう確信出来るのは、今まで何度もこの蝋燭を使い、自分たちの目的を達成してきた為だろう。
その実績があるからこそ、この蝋燭を使っている間は自分達の存在に気が付かれないと思っていた。
しかし……今この状況では、その確信を完全に信じたままといったことは出来ない。
男達も、立ち上がって周囲を落ち着かないように歩き回っているセトの様子を見れば、このまま先に進むことも出来なかった。
今はまだセトがこうして歩いているだけだが、これ以上進めばセトに本格的に見つかるのでは?
どうしても自分の中にそのような思いがあった為だ。
そう思っているのはリーダーだけではなく、他の面々も同様だった。
本来なら蝋燭を使っているのだから心配はいらない。そう思ってはいるのだが、それでも現在こうして視線の先で歩き回っているセトを見れば、混乱するなという方が無理だ。
(どうする? ボブのいる場所まではそんなに離れていない。だが……ここで行動すれば、グリフォンが何らかの行動に出る可能性は否定出来ない。なら……一旦退くべきか? いや、俺達にそのような無様な真似は許されない)
蝋燭を手にしたリーダーは、この状況でどうするべきかと悩む。
今のこの状況において、一体どうするのが最善なのか分からなかったのだろう。
まさかこの蝋燭を使っているのに、自分達の存在を悟られるとは思っていなかったのだ。
……実際には、まだ完全に悟られたという訳ではない。
もし本当にセトがこの男達の存在について気が付いているのなら、それこそ可能な限り素早く攻撃をしているだろう。
しかし、セトは何かが怪しい、どこか妙なところがあると理解していても、実際にそれがどのような意味を持つのかというのまでは分かっていない。
……ある意味、それこそが蝋燭の効果を現していた。
その辺の普通のマジックアイテムで同じような効果を発揮するものがあっても、セトならそのような効果を見破ってマジックアイテムを使っている者を攻撃してもおかしくはない。
そんな……感覚の鋭さだけではレイすら上回るセトが、まだ男達の存在に気が付いていないのだ。
(どうするんだよ? このままここでじっとしてもしょうがないだろ?)
止まっていた男達のうち、一人が……ニールセンの心臓を奪おうと言っていた男が、今の状況に不満を抱いて行動を起こす。
とはいえ、その行動はそこまで大きなものではない。
一歩……本当に一歩進み出ただけだ。
だが、まだセトが何も疑っていない状況でならまだしも、今のセトは周囲が何かおかしいと、そんな風に思っていたのだ。
そのような状況で行動を起こした場合、当然ながらセトが素早く異変を察知するのは当然だった。
「グルルルルゥ!」
何かがある、何かが動いた。
そう感じたセトは、即座にスキルを発動する。
放たれたのは、ウィンドアロー。
何かがあると思ったのは間違いないが、それはあくまでもセトの確信だ。
もしそうである以上、間違っていた時のことを考えれば派手なスキルは使いたくない。
そんな中で、ウィンドアローその名の通り風の矢を飛ばすスキルで、その数は最大二十本まで増やすことが出来る。
また、風の矢だけに威力そのものはそこまで高くないものの、射出された風の矢の速度という点ではかなり優秀だった。
そうして放たれた矢は、真っ直ぐにセトが違和感があると思った方向にむかう。
「ぐ……」
「うお……」
「ぬぅ……」
セトが違和感を抱いた理由は、男達の中の一人が原因だった。
しかし、放たれたウィンドアローの数は二十本。
それもセトにしてみれば、違和感はあるものの、具体的に何がどうなって違和感を抱いているのかというのは分からない。
そうである以上、周辺一杯に広がるようにウィンドアローを放つのは当然だった。
とはいえ、それでも結局のところウィンドアローは最大二十本までしか出せない。
そう考えるとそこまで広範囲に攻撃は出来ないのだが……それでも、男達に命中するには十分だった。
蝋燭の効果は、あくまでも認識阻害。
透明になっていて攻撃が命中しても効果がなくなるといったような効果ではない。
あくまでもそこにいるのを相手に気が付かせないだけで、何らかの攻撃が命中すれば当然のようにダメージを受ける。
結果としてそれなりの人数の男達にウィンドアローは命中し、悲鳴を上げさせることに成功する。
……実際には、ウィンドアローは鋭利な斬れ味こそ持っているものの、威力そのものはそこまで強力という訳ではない。
もし男達が我慢強ければ、ウィンドアローが命中しても悲鳴を口にすることはなかっただろう。
だが、蝋燭が使われているのをセトが何となく疑問に思っていた状態であっても、今のこの状況を思えばまさか攻撃をしてくるとは思わなかったらしい。
ある意味で意表を突かれたからこそ、こうして男達の口からは悲鳴が出たのだ。
そして、男達の口から出た悲鳴は、当然ながらセトの耳にしっかりと届いている。
「グルルルゥ、グルルルルルルルルゥ!」
セトは一際大きく鳴き声を上げると、周囲に霧が生み出される。
川が近くにあるので、霧が出るのは普通……というようなことは、当然ながら男達も考えない。
今この場にいる者の多くは、既にセトが自分達の存在に気が付いたので、それに対処する為に攻撃をしてきたのだと、そう認識した。
「ボブを殺せ!」
リーダーが叫ぶと、こうなっては既に蝋燭の効果を当てに出来ないと判断したのだろう。
何人かの男が、霧でボブの姿が覆い隠されるよりも前に……それに乗じて逃げられるよりも前にボブを殺そうと行動に移す。
幸運にもウィンドアローに命中しなかった男たちは、即座に短剣を手にボブのいる方に向かって駆け出すが……
「グルルルルゥ!」
「うぎゃっ!」
「くそっ、一体何が!?」
セトが鳴き声を上げた瞬間、周辺に満ちつつあった霧が牙や爪となって男達の先頭を走ってきた二人に向かって牙や爪を突き立てる。
霧の爪牙。
まだ習得したばかりでレベル一だし、スキルや自然現象で周囲に霧がないと使うことが出来ないという厄介なスキルではあるものの、それでもこの状況下では十分以上に有用なスキルだった。
霧の爪牙によって怪我を負った者達は地面に倒れ込み……しかし、当然ながらそうして地面に倒れた者の後ろには別の男達がいる訳で、その男達は倒れた者達を跳び越え……
「グルルルルルゥ!」
その瞬間、再び霧の爪牙のスキルが発動すると、襲ってきた相手に霧が物質化した牙や爪が突き刺さり、引き裂かれる。
レベルが一の霧の爪牙は、一度で二つの爪や牙しか生み出すことは出来ない。
だが、それはあくまでも一度に生み出せる数であって、生み出された霧の爪や牙が再び霧に戻れば、再度スキルを使うことによって生み出すことが可能だった。
そうして次々と生み出された爪と牙は、突然姿を現した――正確には認識阻害の効果のある蝋燭が使えなくなったせいで姿を現したのだが――男達を攻撃していく。
そして男達にとって悲惨だったのは、敵がセトだけではなかったということだろう。
「どうした、敵か!?」
「うわっ、ちょっと、何これ!? 霧で周囲が見えないわよ!?」
外での騒動を聞き、マジックテントから飛び出してきたレイとニールセン。
……実際にはニールセンがこの場にいてもあまり役に立つようなことはないのだが、それでも今の状況で自分だけがマジックテントの中にいるといった真似は出来なかったのだろう。
「くっ!」
そんなレイの声を聞き、男達のリーダーが予想外の事態に呻く。
分かってはいたが、外でこれだけ大きな騒動を起こせばテントの中にいるレイ達にその音が聞こえるのは当然だったのだから。
「どうする!?」
集団の一人がリーダーを見ながらそう叫ぶ。
そのような視線を向けられたリーダーの反応は早かった。
「俺の周囲に集まれ!」
そう告げると、懐に手を入れ何かを取り出すと地面に叩き付ける。
瞬間、周囲に漂ってい霧よりも濃い煙が爆発的といった表現が相応しい勢いで生み出された。
一種の煙玉。
そう判断したレイは、半ば反射的な動きで自分の顔のすぐ横を飛んでいたニールセンを掴むと、ドラゴンローブの中に入れる。
「ぎゃっ! ちょっ、レイ!?」
ニールセンは一体何故レイがこのようなことをしたのか分からず、それもいきなりの行動だった為に叫び声を上げる。
しかし、レイにしてみればニールセンは妖精だ。
そして何者かの襲撃を受けたとなれば、その狙いが妖精のニールセンである可能性は否定しきれない。
……実際、男達の狙いの一つに妖精の心臓があったのは間違いないのだから、レイのその判断そのものは間違っていない。
とはいえ、この煙幕はニールセンの心臓を奪う為に行われたものではなく、男達がこの場から逃げ出す為に使われたものだったが。
ニールセンをドラゴンローブの中に匿ったレイは、煙幕で周囲の状況が理解出来ないままながら口を開く。
「セト、ボブ、いるか!?」
「グルルゥ!」
「は、はい! います!」
即座に二つの返事が返ってきたことに安堵しながら、レイは改めて周囲の気配を探る。
この煙幕に紛れて、まだ自分達を狙っている者がいるのではないか。
そう思っての行動だったのだが……
「は? 気配がない……え?」
レイの口から戸惑いの声が漏れる。
周囲の様子を確認しながら、改めてレイは敵の気配を探り……セトやボブの気配も察知出来ないことに、改めて気が付く。
先程の声を考えれば、自分からそう離れた場所にいるとは思えないのだが。
「セト、ボブ、そこにいるな?」
「グルゥ」
「え? さっき返事しましたよね? もしかして聞こえてませんでしたか?」
再度聞こえてきた一人と一匹の声に、レイは安堵しながら口を開く。
「いや、聞こえていた。ただ、この煙幕の影響で気配を察知出来ない。ボブも気配は感じないか?」
腕利きの猟師なら、獲物の気配を感じる為にその手の能力があってもおかしくはない。
そう思って尋ねたレイだったが、すぐにボブから返事がある。
「そう言われてみれば……気配を感じませんね。これ、一体どうなってるんでしょう?」
「多分、さっきの煙幕の効果だ。セト、敵は逃がしてしまったか?」
「グルルルルゥ」
レイの言葉にセト残念そうに喉を鳴らす。
レイより鋭い五感を持つセトが敵の気配を察知出来ずに逃がしたということは、それだけ煙幕の効果は高かったということなのだろう。
(けど……気配だぞ? どうやって気配を察知出来ないようにしたんだ?)
これが嗅覚なら悪臭を、聴覚なら轟音を、視覚なら眩い光を……といったように対処は出来るものの、一体どうやれば気配を察知されないように出来るのか。
気配というのは、それこそ五感とはまた違った意味で特殊な感覚だ。
レイにはどうすれば気配を察知出来ない煙幕などといったようなものが作れるのかは分からない。
分からないが、それでも警戒するには十分であり……今は何があってもいいように周囲を警戒する。
だが……煙幕が消えた時、そこにはレイ達以外の姿は完全に消えていたのだった。