2926話
「う、うわああああああっ!」
不意に聞こえてきたその叫びに、レイはマジックテントの扉に視線を向ける。
『レイ? 今の声は一体?』
対のオーブの向こう側にいるエレーナが、不思議そうに尋ねてくる。
夕食が終わって暇になったレイが対のオーブを使ってエレーナと話していたのだが、そこで突然叫び声が聞こえてきたのだから、当然だろう。
「分からない。ちょっと見てくる。……ニールセンの悪戯じゃないといいけど」
「ちょっと、私が何をしたっていうのよ。何でもかんでも私のせいにしないでよね」
レイの言葉が聞こえたのか、不満そうな様子でニールセンが言ってくる。
そのニールセンがいたのは、レイが対のオーブを使っていたテーブルから少し離れた場所。
そこで干した果実を食べていた。
「ニールセンなら何かそういうのをやってもおかしくはないと思ったんだよ。……とにかく、今の状況を思えば外で何かあったみたいなのは間違いないし、見てくる。ニールセンはどうする?」
先程の悲鳴が、何らかの手段によってニールセンが仕掛けた悪戯ではない。
そうである場合は、確実に何かのトラブルが起きたということになる。
問題なのは、そのトラブルが一体どういうトラブルなのかということなのだが……レイにしてみれば、一体この状況で何か起きた? というのが疑問だった。
『レイ達が泊まっている河原には、肉食の魚のモンスターがいるのだろう? そのモンスターの存在を知らず、何らかの理由で誰かが川に足を踏み入れて、その結果囓られた……という可能性もあるのではないか?』
エレーナのその推論には無理があるとレイには思えた。
だが、事実は小説よりも奇なりという言葉があることを思えば、その通りであってもおかしくはない。
「どうだろうな。取りあえず対のオーブは切るぞ。何かあったらまた連絡する」
『うむ。レイも気を付けてな』
その言葉を最後に、対のオーブからエレーナの姿が消える。
レイが切るよりも前に、エレーナの方で対のオーブを切ったのだろう。
レイは対のオーブをミスティリングに収納すると、すぐにマジックテントから出る。
当然のようにそんなレイを追うニールセン。
そうしてマジックテントから出ると……そこで見たのは、セトを見て腰を抜かしている一人の男。
その男を見て、一瞬盗賊か? と思ったレイだったが、すぐにそれを否定する。
盗賊らしい外見でなかったのも大きいし、何より男の雰囲気はとてもではないが盗賊のそれとは思えない。
勿論、盗賊だからといって必ずしもそのような雰囲気を持っている訳ではない。
中には盗賊になったばかりの者であったり、あるいは人を殺すのではなく雑用の類だけをやっている……といった者がいてもおかしくはないのだから。
何よりもセトが敵意を剥き出しにするといったような真似をしていないというのが、その相手が盗賊……もしくは何らかの敵意を持った相手ではないということを示していた。
「ちょっと、何よ? 一体何があったの? 見た感じ、そこまで大きな出来事じゃないみたいだけど」
レイの顔のすぐ側を飛んでいたニールセンが、一体何があったのかといった疑問を口にする。
レイにしてみれば、そんな相手の様子には色々と思うところがあるものの、敵ではないと判断する。
「どうやらここに迷い込んできたみたいだな。この周辺には村とか街とかもなかったみたいだし、それで迷って明かりを見つけて……といったところか?」
そうニールセンに言いながら、レイの視線が向けられたのはマジックテントから少し離れた場所にある焚き火。
夜だけに、焚き火の明かりは当然のように目立つ。
「そ……そうです。そうです、そうなんですよ! 道に迷っていたところで明かりが……って、ああああああああああっ! よ、妖精!? 妖精ですよね!?」
レイの言葉に我に返った男は、慌てたようにそう言う。
このままセトの前にいると危険だと判断してのことなのだろう。
そしてレイに言葉を返すと同時に、レイの頭の横を飛んでいるニールセンの姿を発見すると大きく叫ぶ。
レイにしてみれば、セレムース平原で遭遇したり、ニールセン達に遭遇したりしたことで普通に妖精が存在するというのは認識している。
また、レイと関わり合いのある者であれば妖精と接したことがあるので、妖精の存在に驚くことはない。
しかし、それはあくまでもレイやその周辺にいる者達の場合だ。
この男のように妖精を間近で見るのが初めてという者は多い。
それだけに、こうして男がニールセンの姿を見て驚きの声を上げるのはそこまでおかしくはない。
おかしくはないが、だからこそこうしてニールセンの存在が見つかったのは色々と不味いのは間違いなかった。
「何でニールセンが普通に出て来てるんだよ」
「しょうがないじゃない。まさかこんな場所に誰か人が来るとは思っていなかったんだから」
なら、あの悲鳴は何だと思ったんだ?
そう言おうとしたレイだったが、その前に男が口を開く。
「あの! その……別に俺は妖精を捕まえたり、食べたりするつもりはないので、安心して下さい!」
「食べ……ちょっとあんた、一体妖精を何だと思ってるのよ! 愛らしいから側に置きたいとか、そういう風に言うのなら私も納得出来たけど、食べるって何よ、食べるって!」
ニールセンにとっては、まさか自分が食材といった風に見られるとは思っていなかったのだろう。
混乱した様子で叫ぶ。
……それはレイも同様だったが。
妖精を見世物にしたいといったことを考える者がいるのなら、納得出来る。
あるいはペットのような感じか。
妖精というのは、ニールセンもそうだが非常に愛らしい外見をしている。
それだけに、自分の手元に置いておきたいと思う者は多い。
だというのに、まさか食べるという選択肢が出て来るとは。
男も自分が口にした食べるという言葉がニールセンを怒らせたのに気が付いたのだろう。
慌てたように叫ぶ。
「す、すいません! 最初からそんなつもりはありません! ただ、僕の故郷ではそういう言い伝えがあったんです!」
必死になって叫ぶ男。
もしここでニールセンを怒らせるようなことがあったら、それは自分にとって間違いなく面倒なことになると理解しているのだろう。
実際、その判断は正しい。
元々妖精は悪戯を好むのだが、その悪戯というのは悪戯をされる者にしてみれば致命的なものも多いのだ。
そんな悪戯をされるよりも前に何とか誤解を解いておく必要があった。
ましてや、ニールセンはスモッグパンサーとの戦いで新たな力に目覚めている。
その力が具体的にどのような効果を発揮するのかは、レイには分からない。
レイが見たのは、スモッグパンサーの統率個体を霧の状態から無理矢理物質化させるといったものだった。
それを人に使ったらどうなるのか。
そこに興味がないと言えば嘘になるものの、まさか偶然迷い込んできた男を相手にそれを試してみろなどといったようなことはいえない。
「ほら、落ち着けニールセン。この男も別に本気でお前を食べるなんてつもりじゃなかったのは、様子を見れば分かるだろう? この男はお前を相手にそんな真似を出来る奴じゃないって。……それよりも、言い伝えとはいえ、妖精を食べるってのはちょっと驚きだな。話を聞かせてくれるか?」
「え? あ、はい。僕の話でよければ。ただ、その……グリフォンに僕を襲わないように言ってくれますか?」
レイの言葉に、恐る恐るといった様子で男が言う。
男にしてみれば、グリフォンなどという、高ランクモンスターといきなり遭遇するとは思わなかったのだ。
そのような存在と遭遇するのは、それこそ冒険者であっても一生に一度あるかないかだろう。
……もっとも、遭遇する相手がセトではなく野生のモンスターの場合は、その一生に一度というのは自分が殺されてしまうという意味で一生に一度となってもおかしくはなかったが。
「安心しろ。セトは俺の従魔だ。妙な真似をしたりしない限りは、攻撃するといったようなことはない」
「グリフォンが……従魔? え? ちょっと待って下さい。今更、本当に今更の話ですけど、もしかして貴方は深紅の異名を持つレイさんですか?」
「何だ、気が付いてなかったのか? 暗がりの中でいきなりセトに遭遇してしまえば、そんなことを考えるよりも前に混乱してしまうのは仕方がないかもしれないけど」
セトを見て、すぐにそれをレイと繋げて考えるといったような真似は、そう簡単ではない。
いや、あるいは街中でレイと一緒にいるセトを見てそのように思うのなら、まだ理解は出来るかもしれないが、今レイ達がいるのは川……もっと言えば林以上森以下といったようなくらいに木々が生えているような場所だ。
そのような場所で道に迷い、明かりを見つけてやって来てそこでセトと遭遇して、深紅のレイの従魔だと認識出来る方がおかしい。
「その……そうなんですか? ですが、一体その、何でこんな場所に? あ、妖精が一緒にいるからでしょうか?」
男にしてみれば、妖精がいるから普通の街中に泊まったり出来ないと思ったらしい。
その考えそのものは、そこまで間違っていない。
実際に人のいる前でニールセンが姿を現したりといったようなことは、事情を知らない者がいる場所では出来ないのだから。
だが、それはあくまでも人前に姿を現さなければいいというだけだ。
つまりドラゴンローブの中にいれば、全く問題はない。
そうやってニールセンはギルムに入ったりもしたし、あるいは双頭のサイの討伐を依頼された村にも入ることが出来た。
そのような真似をすれば、当然ながら自由に街中を移動したりといったような真似は出来ないのだが、それでも街や村の中に入ることが出来るのは事実。
とはいえ、ここで下手に何かを言うよりは男の言葉にそうだと言っておいた方がいいだろうと判断し、素直に頷く。
「大体、そんな感じで間違いない」
「ちょ……むぐ……」
レイの言葉を聞いたニールセンが不満そうに何かを言おうとしたものの、レイはそれを押さえる。
当然だがそのような真似をすれば男も疑問を抱く。
とはいえ、この状況でレイに無理に話を聞くといったような真似をした場合は藪蛇になりそうだというのは理解したのだろう。レイがニールセンを押さえた件については話す様子がなかった。
それでもあくまでも追及を諦めたのは、ニールセンを押さえた件だけだ。
妖精そのものについては、まだしっかりと聞きたそうにしていた。
しかし、レイはそんな男の話を聞くよりも前にやるべきことがある。
「それで、俺達がここにいる理由はいいとして、お前は何でここに来たんだ?」
「え? ですから、僕は迷っている最中に明かりを見つけてってさっき……」
「そうじゃない。この周辺には村や街がないのは知っている。そんな中で、何でお前はわざわざここに入ってきたんだ? 当然だが、何か狙いがあって入ってきたんだろう?」
「あ、それですか。お恥ずかしながら、狩りの最中に道に迷ってしまって……」
そう言った男は、少し離れた場所にある弓と矢筒に視線を向ける。
セトに驚いた際に、持っていたそれらは落としてしまったのだろう。
「猟師か? ……なるほど。なら、ここに来てもおかしくはないか」
レイが見たところ、モンスターは多少いるものの、普通の動物の方が多い。
もっとも、川の中にいた魚のモンスターがいるのを考えると決して気を抜けるような場所ではないのだが。
もし足を滑らせるなどして川に落ちてしまった場合、すぐ魚に襲われるだろう。
「ええ、そうなんですよ。それも旅の猟師なので、ここには何かいい獲物がいるかもしれないと思ったんですけど……残念ながら、特にそういうのはなかったみたいですね」
はぁ、と。見るからに落ち込んだ様子を見せる男。
そんな男を見て、レイは少しだけ興味を抱いた。
妖精を食べるという話についても興味深かったが、それ以外にも旅の猟師というのはレイにとっても初めて遭遇する存在だ。
行商人なら分かる。あるいは冒険者であっても理解は出来る。だが……それが猟師となれば、一体どんな生活をしているのかが気になって当然だろう。
「何だってそんな真似をしてるんだ? 猟師ってのは基本的には自分の知っている森や山で行動するだろう? その方が獲物を追うにも楽だし。そんな状況で旅をしながら猟師ってのは、かなり面倒じゃないか?」
「そうですね。旅の途中で寄る林や森、山……そういう場所なので、当然ながら初めての場所だから、なかなか獲物を見つけることは出来ません。でも……それでも、僕はこの暮らしを苦しいと思ったことはありませんよ」
そう言い、男は笑みを浮かべるのだった。