2869話
セトが何とか救出した男だったが、当然のようにその身体にはレイの放った一撃によってネクロゴーレムの身体から漏れ出た腐液が付着しており、それが触れた場所……それこそ一滴でも触れた場所からは、身体が溶け始めていた。
「グルゥ!」
腐液が溶けた場所から緑色の毒煙が生み出されたのを見て、セトは鋭く鳴き声を上げる。
今はセトが素早く飛んでいるので、その毒煙は生み出されてもセトやレイに効果を発揮していない。
しかし、それはあくまでもセトが素早く飛んでいるので生み出された毒煙が後ろに吹き飛んでいくからこその話で、もしセトが飛ぶのを止めれば……あるいは飛ぶ速度を落とすようなことがあれば、その毒煙はセトやレイにも被害を与えるだろう。
後ろに流れる緑の毒煙を見て、セトが何を言いたいのか理解したレイは、少し考えてから口を開く。
「セト、あの馬車の近くにその男を置いていくぞ。今のままだと、どのみちこの男は助からない。なら、この男が乗っていた馬車の近くに下ろした方がいい」
今のこの状況では、とてもではないがポーションを使うような真似は出来ない。
だが、この男が乗っていた悪趣味な馬車なら、恐らくこの男以外にも乗っていた者がいる筈だとレイは予想する。
あるいはもう馬車に乗っていた者も逃げ出してしまった可能性も否定は出来ないものの、そうなったらそうなったでそれは仕方のないことだと思う。
セトが掴んでいる男が部下に慕われるような性格であれば、助かる筈だった。
(まぁ、この男が貴族で、それも他人の指示に従わずにエグジニスの中に突っ込んできたと考えると、多分そこまで慕われてはないと思うけど)
それでも、今こうしている間にもセトの前足に掴まれて移動していては、いずれ腐液によって死んでしまう可能性が高い。
それよりは、少しでも助かる可能性の高い選択をした方がいいのは間違いなかった。
レイの考えを理解したセトは、翼を羽ばたかせながらネクロゴーレムの周囲を飛び回る。
幸いにも、ネクロゴーレムは自分が殺そうと思っていた男をセトによって横から奪われたことから再びその狙いをセトに向けていたので、街中の被害はそこまで大きくはない。
(後の問題は、この男を馬車の近くに放り出した時にどうなるか、だよな。ネクロゴーレムの狙いが俺達のままならいんだが、地上に放り出された男の方に狙いを向けた場合、色々と面白くないことになる。それでも、このまま死ぬよりはそっちの方がいいだろうけど)
そんな風にレイが考えている間に、セトは地上に……馬車の突っ込んだ建物に向かって降下を始めた。
見る間に近付いて来る地上。
十分に地上に近付いたところで、セトは掴んでいた男を離す。
「ぐ……が……」
男に意識があったのか、それとも痛みや恐怖で気絶していながら無意識に上げた悲鳴だったのか。
それはレイにも分からなかったが、それでも無事に男を地上に降ろすことが出来たのは間違いない。
一応、セトは可能な限り男に衝撃を与えないように考えて足を離したのだが、それでも毒煙によって被害を受けないように速度を出しながらの行動であった以上、どうあっても男の受けた衝撃はかなりのものだったのだろう。
「よし、後はネクロゴーレムの意識をこっちに向けるぞ!」
「グルルルゥ!」
レイの言葉を聞いたセトは、雄叫びを上げながらネクロゴーレムに向かっていく。
男を地上に降ろしたことにより、ネクロゴーレムの注意がそちらに向かないようにする為の行動だった。
目の前を飛ぶセトに向かい、触手の一撃を放つネクロゴーレム。
その攻撃を回避しつつ、セトはネクロゴーレムの目の前を通りすぎる。
自分の方に向かって近付いて来るセトに対し、ネクロゴーレムは口を開き……
「セト、上に!」
「グルゥ!」
素早く指示を出すレイにセトは従い、瞬時に上空に向かって飛んでいく。
そんなセトの動きに釣られるように、ネクロゴーレムの口は真上を向き……紫のブレスが放たれる。
ネクロゴーレムに対して、見える場所で飛んでいる場合はレイとセトがブレスを回避しても、街中に大きな被害が出る。
実際、今まで何度か放たれたブレスによって、エグジニスが受けた被害はかなりのものだ。
だからこそ今度は可能な限り被害を受けないようにと考え、レイはセトに指示を出してネクロゴーレムの真上に向かわせた。
そんなレイの狙い通り、放たれた紫のブレスがエグジニスに与えた被害は今までよりも明らかに小さい。
とはいえ、それはあくまでも小さいのであって、被害が皆無だった訳ではないのだが。
何しろ真上にブレスを放ったということは、そのブレスはいずれゆっくりとではあるが街中に降り注ぐことになるのだから。
ブレスの威力を皆無にするなどといった真似は、少なくてもレイには出来なかった。
(出来れば触手の攻撃だけをしてくれればいいんだけどな。……それならセトも十分に回避出来るし、街中に与えるダメージも決して多くはないんだから)
そう願うも、触手の攻撃はかなりの速度で、セトだからこそ未だに一撃も当たらずにいるのだ。
もしエグジニスにいる冒険者がネクロゴーレムを引き付けようとした場合、触手の一撃を回避するのがそもそも無理だろう。
ブレスの攻撃を無事回避したセトは、そのままネクロゴーレムを引き付けるようにして移動し……やがてそのままあっさりと正門に到着する。
正門の前でネクロゴーレムが来るのを待って待機していると、やがてネクロゴーレムがその姿を現す。
だが、空を飛ぶセトを追っていたからだろう。ここに来るまでの間に、大通りにある建物をかなり破壊し、それによって腐液を垂れ流していた。
「本当に厄介だよな。けど……ようやくだ。ようやくここまで到着した。後はエグジニスの外に出るだけだ。……正門、というか正門の枠は破壊されるだろうけど」
レイが抱いていた、嫌な予感。
それはネクロゴーレムが時間が経つに連れて大きくなっているというもので、もしかしたらネクロゴーレムが正門を通れないくらいに大きくなるのではないかというものだったのだが、その予想は見事に的中してしまう。
大通りを移動している時のネクロゴーレムの大きさは十五m程だった。
しかし、大通りに入ってから正門のある場所までやって来るまでの間に破壊された建物や腐液や毒、あるいは単純に踏みつけて殺した死体を吸収した影響もあってか、現在のネクロゴーレムは二十m程にまで巨大化している。
その大きさは、明らかに正門の枠よりも上だった。
「正門が崩れるぞ! 周辺にいる奴は注意しろ!」
一応といった様子でレイは叫ぶ。
周辺の様子を見る限り、そこに誰かがいるようには思えない。
だが、何かあった時の為に近くに隠れているだろう可能性は決して否定出来ない。
……いや、否定出来ないどころか、間違いなく正門の周辺に誰かが隠れているのは間違いないだろう。
具体的にどのくらいの人数が隠れているというのは、レイにも分からない。
あるいはもっとしっかりと周囲の気配を探れば、何人隠れているのかは分かるかもしれないが……今の状況ではとてもではないがそれを探しているような余裕はなかった。
もしこの辺に隠れている者がいても、今の声で事情は理解しただろう。
そのように判断しながら、レイはセトの首の後ろを軽く叩く。
それを合図として、セトは近付いてくるネクロゴーレムを挑発するように空中で身体を左右に揺らしつつ、正門を通り抜ける。
「よし、来い。後はお前がその正門からエグジニスの外に出れば、それで全てが終わりだ。今までの鬱憤を晴らすように攻撃してやるから、そのつもりで……何?」
門を通り抜けたセトが、少し離れた場所でネクロゴーレムがエグジニスから出て来るのを待っていた。
レイの予想では、あっさりと正門の枠を破壊してネクロゴーレムがエグジニスを出るだろうと思っていたのだが……何故かネクロゴーレムは正門のすぐ前で動きを止めて、それ以上外に出て来る様子はない。
「おいおい、せっかくここまでやったんだぞ? なのに、ここでお前が出て来ないってのは、一体どういうことだ? さっさと出て来いよな」
セトの背の上で動きを止めたネクロゴーレムに対し、苛立ちを見せるレイ。
しかし、そんなレイの思いとは裏腹に、ネクロゴーレムが動く様子はない。
(何でだ? 何であそこで動きを止める? 今までは、それこそ建物を破壊してでも俺達を……というかセトを追ってきたのに。考えられる可能性としては……ダイラスか!?)
ネクロゴーレムの核となっているダイラスの目的は、エグジニスの発展だった。
そのエグジニスの街並みを普通に破壊していたり、聖なる四会合を開く為の建物を破壊したりといったような真似をしていたので、レイの中にはネクロゴーレムの核となったダイラスは既に意識がないのだろうと思っていたし、その気持ちは今でも変わらない。
だが……それでも今の状況を考えると、エグジニスから出ないのはダイラスの意識がまだ微かに残っていて、それによってエグジニスから出ないのではないかと思ってしまう。
それが実際に正しいのかどうかは、生憎とレイには分からない。
しかし、そうでも考えないと何故この状況でネクロゴーレムが動かないのかが分からなかったのだ。
「セト、エグジニスの中に入らなくてもいいから、近付いて挑発してみてくれ。もしかしたら、セトが近づけばまたセトに対して攻撃をするようになるかもしれない」
「グルルルゥ」
レイの言葉を聞いたセトは、すぐにエグジニスに向かって近付いていく。
何があってもすぐ対処出来るように準備はしているものの、エグジニスの正門近くまでやって来てもネクロゴーレムが動く様子はない。
今となっては、既に正門を挟んでネクロゴーレムと向かい合っている状態だ。
一体何がどうなってそのようなことになったのかは分からないが、それでも攻撃をしてくる様子がないのは、レイにとっても疑問だった。
「グルルルルルルルルルルゥ!」
正門の向こう側にいるネクロゴーレムに向かい、雄叫びを上げるセト。
王の威圧のように、特に何かスキルを使った訳ではない。
しかし、それでもセトの雄叫びであるというだけで十分な威力があったのは間違いないらしく……ピクリ、とネクロゴーレムの指先が動くのをレイは見た。
ネクロゴーレムにしてみれば、セトは散々自分にちょっかいを掛けてきた相手で、非常に不愉快な相手なのは間違いないだろう。
そうである以上、今ここで攻撃をするといったような真似をしてもおかしくはないし、レイは寧ろそれを望んでいた。
しかし……セトの鳴き声を間近で聞いても、未だにネクロゴーレムの反応は薄い。
「セトを見てもこの程度の反応か。そうなると……この場合は一体どうしたらいいんだ?」
迷うレイ。
そんなレイの視線の先で、ふとネクロゴーレムの足元に数人の人影を見つける。
またか。
一瞬そう思ったレイだったが、よくみればネクロゴーレムの足元にいるのは見覚えのある人物だった。
(クロウ? 一体何でここに? そもそも風雪の暗殺者がこうして堂々と表舞台に出て来てもいいのか?)
ダイラスの屋敷を襲撃した件を考えると、あるいは暗殺者が堂々と表に出てもいいのかもしれない。
ふとそんな風に思うが、それでも今の状況を思えば危険なことに変わりはなかった。
クロウは間違いなく腕利きの暗殺者だし、風雪の中でも上位に入る強さを持つだろう。
だが、その強さとネクロゴーレムの腐液というのは、全く違う種類の強さなのだ。
幾らクロウが強くても、ネクロゴーレムを傷付けるとそこから出て来る腐液に触れた場合、間違いなく死ぬ。
あるいは腐液に触れなくても、腐液によって生み出された毒煙を吸い込めば、それもまた死ぬだろう。
実際、レイが聞いた話では緑の毒煙を吸った者は血を吐いて死ぬといったように聞かされているのだから。
そうである以上、今のこの状況でクロウがネクロゴーレムに対して何か出来るとは思えなかった。
(何をする気だ?)
そんな風に思うレイの視線の先で、クロウはネクロゴーレムの足に向かって短剣を投擲する。
ダメージを受ければ腐液を垂れ流すという状態のネクロゴーレムだけに、遠距離から攻撃するというのは決して悪い選択ではない。
……もっとも、二十m近いネクロゴーレムを相手に短剣の投擲でダメージを与えることが出来るのかと言われれば、それは否なのだが。
しかし、その一撃はその場で動きを止めていたネクロゴーレムを我に返らせ、動き出させるという意味では効果があり……ネクロゴーレムの肉塊のような顔はクロウに向けられるのだった。