2820話
セトと十分に遊んだ――実際にはセトはまだ遊びたそうだったが――レイは、ニナと共に部屋の前まで戻ってきた。
部屋の前にいた護衛兼見張りの男二人は、レイとニナを見ると頭下げて扉を開ける。
「では、レイ様。食事の方はこちらで用意しますので、レイ様は夜までゆっくり休んで下さい。何かあったら、すぐに使いの者を寄越しますから」
「分かった。そっちも今の状況では色々と大変だと思うけど、頑張れよ」
そう声を掛け、部屋の中に入ったレイだったが……
「レイ……よく戻ってこられたわね……」
部屋の中に入ったレイを真っ先に見つけたのは、レイが寝る時に使っているソファで横になって寝転がっているリンディ。
恨みがましい視線をレイに向けつつも、寝転がったままでろくに身体を動かすことが出来ない。
レイとの模擬戦で限界以上に身体を動かした結果、全身が酷い筋肉痛になっているのは明らかだった。
レイにしてみれば、ある意味で予想通りではあったが。
「ん? 何のことだ? 今は一応ここが俺の部屋なんだから、戻ってくるのは当然だろう?」
「ぐぐぐ……よくも……」
リンディが何を言ってるのか全く分からないといった様子のレイに対し、寝転がって身動き出来ないリンディは唸るように不満を言う。
とはいえ、当然ながらレイは何故リンディがここまで怒ってるのかは理解出来た。
全身筋肉痛で、少しでも身体を動かせば痛みを感じる状態でカミラにちょっかいを出されたのだから。
ただでさえ元気で行動力のあるカミラが、この狭い部屋に閉じ込められていたのだ。
どのような勢いでリンディにちょっかいを出したのかは、考えるまでもない。
レイが部屋を出た時に聞こえてきた悲鳴を思い出しながら、レイは知らない振りをする。
「リンディが何を言ってるのかは分からないが、身体中筋肉痛なんだから、注意した方がいいぞ」
「覚えてなさい」
地の底から聞こえてくるかのような声を発するリンディ。
ちょっとやりすぎたか? とレイも思わないでもなかったが、あのまま放っておけばカミラは部屋から出ようとしていただろう。
実際には、もしカミラが部屋を出ようとしても扉の前にいる護衛兼見張りがそのような真似を許すとは思わなかったが。
「というか、そのソファは俺が使ってるソファなんだが……何でそれを使ってるんだ? 俺はちょっと眠いんだけど」
「あら、ごめんなさい。身体が筋肉痛で思うようにうごけないのよ。残念だけど、移動するのはちょっと無理ね」
先程の言葉の仕返しだといったように、わざとらしく笑みを浮かべるリンディ。
筋肉痛で動けないのなら、何故自分の部屋からここまで移動したのかと思うレイだったが、カミラの一件を考えるとここはリンディの言うことに従っておいた方がいいかと判断する。
そうしてレイはリンディの使っているソファを諦めると、少し離れた場所にあるソファに向かう。
昨夜怪我をした護衛兼見張りは二人いて、ソファは二つ使ったのだ。
当然ながら、オルバンがクロウを通してレイに渡してきたソファも二つになる。
そこにはイルナラの部下の錬金術師が一人いたが、レイが近付いてくるのを見るとレイよりも前に口を開く。
「このソファを使いますか?」
「ああ、頼む。今夜ドーラン工房の黒幕の屋敷に襲撃に行くんでな。出来ればいまのうちにゆっくりと休んでおきたい」
「え……ちょっと、それを早くいいなさいよ。それを最初に言ってれば、私だってソファを譲ったのに」
レイの言葉が聞こえたのだろう。不満そうにリンディが言う。
リンディにしてみれば、カミラの件に対する仕返しのつもりだった。
だが実際にはレイは今夜の仕事の為に身体を休めておこうとしており、自分はそれを邪魔した形なのだ。
「別に気にしなくてもいい。リンディが筋肉痛なのは間違いないんだろ? なら、そのままソファにいればいいと思う。……本当にゆっくりするのなら、ソファじゃなくてベッドの方がいいと思うけど」
幾ら高級なソファであろうとも、ソファはソファだ。
寝るのに適した寝具という訳ではない。
(というか、アンヌはどうしたんだろうな? 部屋の中にいないってことは、まだ寝てるのか? カミラもいないけど……って、おい?)
部屋の中に入ってきてから静かだと思っていたレイだったが、その理由に思い当たって改めて周囲の様子を確認する。
だが、やはりそこにカミラの姿はない。
「カミラはどうしたんだ?」
「ん? ふふふ……カミラなら、自分のやったことを反省する為に部屋にいるわよ」
満面の笑みを浮かべたリンディの様子を見て、レイは安堵する。
今のリンディの顔を見て安堵するのもどうかと思わないではなかったが、カミラがいつの間にか部屋の中からいなくなっているよりは、部屋に閉じ込められている方が断然マシだろう。
「カミラの件は分かったけど、アンヌは?」
「カミラにお説教」
端的に言ってくるその様子から、リンディもアンヌの説教は勘弁して欲しいのだろう。
(リンディが部屋じゃなくてリビングにいるのは、その辺も関係してるのかもしれないな)
リンディとアンヌは仲がいいが、だからといってリンディがアンヌの説教を聞いていたくはないと思ってもおかしくない。
レイもそんなリンディの気持ちは何となく分かったので、それ以上突っ込むような真似はしなかったが。
「カミラが無事ならいい。カミラの行動力を考えると、それこそ風雪のアジトを見て回っていてもおかしくないし」
これが昨日の日中くらいなら、まだ許容も出来たかもしれない。
だが昨夜の一件があった以上、今は風雪の者達も神経質になっており、場合によっては昨夜侵入してきた者達の中で置いていかれた者がいる可能性も否定は出来なかった。
「そうね。……ちょっと心配だから、誰かカミラがアンヌと一緒にいるのか見てきてくれない?」
リンディの頼みに最初に動いたのは、違法奴隷としてアンヌと一緒に捕まっていた男の一人。
その男が何故リンディの言葉にすぐに反応したのかは、この場にいる者の何人かは理解している。
アンヌに好意を、それも友情ではなく異性に向ける好意を持つ……つまり恋をしているのだと。
レイはそんな男の様子には全く気が付いていなかったが。
実際、アンヌは可愛いという表現が似合うくらいには顔立ちが整っている。
また精神的にも強く、ドーラン工房に捕まっていた時もその明るさで皆を励ました。
ドーラン工房から助け出されたと思えば、次に自分達がいるのは暗殺者ギルドのアジト。
ましてや、昨夜は自分達を狙ってか、あるいはもっと別の目的なのかは分からなかったが、このアジトに多数の侵入者がいたのだ。
それを思えば、普通なら怯えたり落ち込んだり、場合によっては情緒不安定になってもおかしくはない。
そんな中で、自分も不安を覚えているだろうに、アンヌはそんな様子を一切見せず明るく振る舞っている。
そんなアンヌに救われた者も多いだろうし、それが理由で若い男なら恋をするようになってもおかしくはなかった。
「お願い。多分大丈夫だと思うけど。……何なら、少しくらいはアンヌとゆっくりしてきてもいいわよ」
「な……な……ふんっ!」
男が心の中で思っていたことをリンディに指摘され、それを誤魔化すように鼻を鳴らしてリビングから出ていく。
「全く、リンディも……こういう時は、ゆっくりと様子を見るものだぞ?」
出ていった男よりも少し年上の男が、リンディに注意する。
部屋から出られない以上、ここにいる者達にとってアンヌに片思いしている男の様子は格好の娯楽なのだろう。
その恋が叶うかどうかは分からないが、男の様子を見るだけで甘酸っぱい思い出が蘇ってくる。 ……ただし、その辺についてはあまり理解していないレイは、リビングの中の様子に首を傾げながらも錬金術師に譲って貰ったソファに寝転がる。
リビングにはそれなりに人が集まっているので、空いているベッドを使おうと思えば使えるのだろうが、人の臭いがついているベッドはあまり使いたいとは思わない。
そうしてソファに横になり……やがてレイの意識は闇に落ちていくのだった。
「兄ちゃん、レイ兄ちゃん! 夕食が来たよ! 起きてってば!」
「ん? ……ああ、カミラか」
眠っていたレイは、自分を呼ぶ声で眠りから目覚める。
声のした方に視線を向けると、そこではカミラの姿があった。
普段と違い、寝惚けるといった様子もなくすぐに目覚める。
「もう説教の方はいいのか?」
カミラを見てそんな風に尋ねたのは、レイが寝る前にカミラがアンヌに説教をされているという話を聞いていたからだ。
そんなレイの言葉を聞いたカミラは、不満そうにレイを見る。
「レイ兄ちゃんの言う通りにしたから、説教されたんだけど」
「リンディには怒られなかっただろ?」
「……可哀想にって言われたよ」
複雑な表情でそう言うカミラ。
リンディにちょっかいを出した自分が、まさかそのリンディに哀れまれるというのは完全に予想外だったのだろう。
「そうか、可哀想にか。……取りあえず、現在の風雪のアジトは色々と危険だ。カミラが好き勝手に出歩いた場合、最悪死ぬようなこともあるかもしれないんだ。それを思えば、こうして部屋の中にいるのが一番いいんだよ」
「だって……暇だもん……」
カミラも、部屋の外が危険だというのは分かっている。
それでも我慢出来ないのが、子供であることの証なのだろう。
これが大人なら、外が危険だというのを実際に自分達の経験から分かっているので、自分から危険に突っ込んで行くような真似はしない。
護衛兼見張りの男二人が自分達を守る為に大怪我したのを、直接自分の目で見ているのも大きいだろう。
しかし、それは大人だからであって、子供のカミラはそこまで我慢強くはない。
……いや、これが大人であっても中にはこのような現状を認められずに部屋から飛び出るような者がいてもおかしくはないのだが。
幸いなことに、この場にいる者達の中にはそんな馬鹿な真似をする者はいなかった。
実際に違法奴隷として扱われたり、あるいはドーラン工房がどのようなことをやってるのかを知ってしまったのだから、ここで迂闊な行動をすればどうなるのかというのは容易に予想出来ているのだろう。
そんな中、夕食だと起こしに来たカミラは、深刻そうな様子で口を開く。
「ねえ、レイ兄ちゃん。俺達……いつまでこういう生活をしないといけないの?」
子供だけに……あるいは子供だからこそか、カミラは今の生活に対して不安を抱いているのだろう。
それはレイにも十分に理解出来た。
とはいえ、それが理解出来たからといってレイに言えることは多くはない。
(いっそ、今夜の襲撃でこの一件は片付くかもしれないと言ってみるか? いや、けどそれが本当かどうかは分からないしな)
そろそろ秋が本格化しつつある頃合いだ。
レイもいつまでもエグジニスにいる訳にはいかなかった。
……とはいえ、ギルムで未知のドラゴンについてや魔の森で倒したモンスターの素材を求めての騒動がそう簡単に収まる筈もないので、今回の騒動が解決したからといってギルムに戻っても……それはそれで面倒に巻き込まれるような気がしないでもなかったが。
(本格的に冬になれば、あの騒動も一段落すると思うんだが)
去年もそうだったが、冬になれば多くの者が一時的にギルムからいなくなる。
春まで自分の故郷で休む者であったり、他の場所で商売をする者であったり、それ以外にも色々とした理由で。
それを思えば、冬になれば今のギルムでの騒動も一段落するのは間違いないというのがレイの予想だった。
あるいは完全に一段落はしなくても、ある程度収まるのは間違いない。
それにレイには冬だからこそやるべきことがあるのも事実。
現在ミスティリングに中にあるギガントタートルの解体は、それこそ冬だからこそ出来ることなのだ。
ギルムにとっても、仕事を求めている者やスラム街の住人を社会復帰させる切っ掛けになるということで、かなり期待していた。
事実、去年はスラム街の者達が何人も仕事をし、それを元手にしてスラム街を抜け出したのだから。
正直なところ、レイには慈善事業をやっているというつもりはない。
自分に利益があるからこそ、やっているだけなのだ。
とはいえ、自分に利益があって他の者達が助かるのなら、それはそれでいいと思っていたが。
(とにかく、ギルムに戻るにしてもエグジニスでの一件が解決してからだな。その為にも、今日はしっかりと頑張る必要があるか)
そんな風に思いつつ、レイはカミラの言葉にもう少しだけだと言うと、夕食を食べに行くのだった。