2816話
「ん……ふぁ……」
ソファの上で眠っていたレイは、部屋のリビングに誰かが入ってきた気配を感じて目が覚める。
普段宿やマリーナの家で眠っている時は、このくらいで目が覚めることはない。
それでもこうしてすぐに目が覚めたのは、やはり現在が危険な状況だからだろう。
いつもなら寝起きは最低でも五分くらいは寝惚けたままなのだが、今は誰かが自分のいる部屋の中に新たに入ってきたというのを察知した瞬間目が覚め、軽く欠伸をしながらその人物に目を向ける。
「あ、ごめん。もしかして起こしちゃった?」
「気にするな。こっちもそろそろ起きようかと思っていたから。それよりお前はまだ寝てなくていいのか、カミラ?」
自分の部屋からリビングにやって来たカミラに、レイはそう声を掛ける。
昨夜の騒動の時は一応起きていた筈だったが、レイが戻ってきた時には既に部屋の中にカミラの姿はなかった。
恐らく最初は起きていたものの、疲れて寝てしまったのだろうと思っていたのだが……そのおかげで、こうしてまだ他の大人達が眠っているのにカミラだけが一足早く起きたのだろう。
そのようなものは関係なく、子供だからこそ早起きした可能性もあったが。
「うん。だってアンヌ姉ちゃん達もまだ寝てて暇だったんだよ」
「だからって何でこっちに……おい、まさか部屋の外に出ようとか思ってないよな?」
「う……」
言葉に詰まったところから、恐らく図星だったのだろう。
これが普段であれば、レイも特に何かを言うようなことはない。
だが、昨夜の騒動で侵入者達が完全に排除されたのかどうか、まだ分からないのだ。
カミラの好奇心が強いのは分かるし、高い行動力を持つのも知っている。
……そうでなければ、アンヌを助ける為にわざわざエグジニスまで来るようなことはしないだろう。
だが、今回は幾ら行動力があってもカミラを自由にさせる訳にもいかない。
「今は部屋から出るのは止めておけ。……そもそも出られないだろうけど」
レイはクロウが自分の寝ているソファを持ってきた四人が、二人ずつ交代で護衛をしてくれると言っていたことを思い出す。
当然ながらこの部屋にいる者達の護衛をするということは、既に扉の外にいるのだろう。
事実レイが気配を探ってみれば、扉の外には二人分の気配がある。
昨日の今日なので、いつ暗殺者が姿を現すのか分からない以上、何かあったら即座に行動出来るようにしているのが分かった。
「えー……何でだよ。……って、あれ? レイ兄ちゃんのソファ、昨日の奴と違ってないか?」
レイの言葉に不満そうな様子を見せたカミラだったが、それでもすぐに興味が他の場所に移るのは子供らしいところなのだろう。
「昨日まで使っていたソファはもう使えなくなってな。代わりを用意して貰った」
そう言い、レイはソファの背もたれを軽く叩く。
昨日レイが使っていたソファよりも高級品であるのは予想していたが、実際にこのソファはかなり寝心地のいいソファだった。
「ずるい!」
「いや、何がだよ」
「レイ兄ちゃんだけ新しいのを使ってるし!」
「お前はベッドで寝てるんだろ?」
ソファとベッド、どちらで眠った方が熟睡出来るのかと言われれば、大半がベッドと答えるだろう。
ベッドでは寝返り出来るが、ソファで寝返りをしようものなら、下手をすれば床に落ちかねない。
そういう意味で、カミラの言葉はレイにしてみれば半ば理不尽なものだった。
(あ、でもカミラの身体の小ささなら、ソファでも寝返りが出来たりするか? ……だから何だって話だけど)
レイにとってソファで眠るのはそこまで快適という訳ではない。
しかしカミラにとっては、自分は絶対にベッドで眠るように言われているのに、レイはソファで眠っているのが羨ましいのだろう。
普段自分が出来ないことをレイがやっているので、自分もやってみたいといったところか。
「俺のソファの件はともかく、今日は絶対に部屋から出るなよ。万が一があると危ないしな」
「えー……」
そんなカミラの様子を見て、レイはちょっと危険だなと思う。
エグジニスまで一人でやって来たことが、変な自信となってしまっているのだ。
実際に秘めた資質のようなものは持っているのかもしれないが、秘めた資質というのは結局今はまだ秘めているものでしかない。
もし昨夜風雪のアジトに取り残された暗殺者と遭遇した場合、下手をすれば殺されてしまう。
どんなに運がよくても、人質にされるといったところだろう。
「部屋を出れば死ぬぞ。そしてお前が死ねばアンヌが悲しむ。それを承知の上で部屋の外に出たいのなら好きにしろ。……もっとも、俺はともかく部屋の外にいる護衛が黙って通してくれるとは思わないけどな」
そこまで言われると、カミラもこれ以上自分が何を言っても意味はないと判断したのだろう。
退屈そうに近くにある、レイが使っているのとは違うソファに座る。
「でも、一日中こんな部屋に閉じ込められているのはつまらないよ」
カミラのような子供にしてみれば、部屋の中にいるのは我慢出来ないのだろう。
それでも昨日はアンヌと一緒に行動しており、多少は掃除の類を手伝ったりもしてたのだが。
「そう言われてもな。もしカミラが一人で歩き回っていて、敵に遭遇したらどうする?」
「それは……」
「言っておくが、逃げるというのはなしだぞ」
カミラが何かを言うよりも前に、レイはそう告げる。
実際にカミラは子供としては機転が利くのは間違いない。
しかし昨日侵入してきた侵入者の生き残りと遭遇するようなことがあった場合、それで逃げ切れるのかとなると無理だろう。
ましてや、もし取り残された侵入者がいた場合、風雪の暗殺者に見つからないように逃げている以上、当然のように気が立っている。
どのように行動しようとも、カミラがそのような相手に遭遇してしまえばどうしようもないのは間違いなかった。
「それは……」
レイの問いに不満そうにしながらも、カミラは何も言えなくなる。
実際にもし自分が敵と遭遇したら、どうしようもないというのは理解しているのだろう。
カミラは行動力があっても、結局のところ子供でしかないのだから。
勿論、世の中には大人より強い子供も存在している。
しかし当然ながらそのような子供は少数で、カミラはそのような子供ではない。
「分かっただろ? なら、今日は大人しくしておけ。明日……はまだちょっと難しいかもしれないが、もう少し安全になったらアンヌと一緒に出歩けるようにはなるだろうし」
そう言いながらも、もしかしたらアンヌは予想よりも早く出歩くようなことになるかもしれないなとレイは予想する。
レイが聞いた話によると、孤児院で働いている時に鍛えられたのかアンヌの掃除の技術はかなり高いらしい。
そうである以上、昨日の騒動で汚れた場所の掃除をする為にアンヌに協力を要請する可能性は十分にあった。
そしてアンヌに掃除を要請する場合、当然ながら護衛が必要となる。
護衛を使ってでもアンヌの掃除の技術を欲する……といった可能性は高いとレイには思えた。
掃除をする為に風雪の暗殺者が護衛につくのは、ただでさえ足りないだろう風雪の人手が更に少なくなるということを意味していたが、アンヌの掃除の技術はそれ以上に有益であると判断されてもおかしくはない。
「ねぇ、レイ兄ちゃん。なら何かないの?」
「何かと言われてもな。特に何か玩具の類は持ってないし」
レイのミスティリングには色々な物が大量に入っているものの、その中に子供の玩具というのは存在しない。
敢えて何か暇潰しの道具がないかと言われて思いつくのは、モンスター図鑑くらいだろう。
だが、これはレイにとっても暇潰しの道具という訳ではなく――そのように使っている一面があることは否定しないが――冒険者として倒したモンスターのどの部位が素材となるのか、討伐証明部位になるのか、あるいは食用可能なのかどうか……そんなことを調べる為に必須のものだ。
間違ってもカミラのような腕白な子供に貸して、それで破かれたり汚されてたりしてはたまらない。
ただでさえ、このエルジィンにおいて本というのは高い。
印刷技術が発達していないので、全て手書きである為だ。
それこそ図書館に入る為にはそれなりに金が必要になるくらいには、本というのは高価なのだ。
本を売ってる店もあるが、日本の本屋のように立ち読みなどといった真似は基本的に出来ない。
そんな本だけに、レイも気軽にカミラに貸すといったような真似は出来なかった。
「えー……何かあるでしょ。ほら、レイ兄ちゃんは結構有名な人らしいし」
「そう言われてもな」
武器を渡してみるか? と思ったものの、すぐに却下する。
カミラは武器を貰えば嬉しくなるだろうが、それだけに武器を持って行動すると色々と危ない。
自分や、あるいは周囲にいる他の者達を傷つけないとも限らないのだから。
レイとしては、もしカミラやあるいは他の者達が傷つくようなことになったら色々と気まずいものがある。
そうである以上、迂闊に武器を渡すのは躊躇われた。
(あ、鉄のインゴット……は、もうないんだったな)
盗賊から奪った大量の鉄のインゴットについて思い浮かべたレイだったが、それは既にアンヌ達を匿って貰う報酬として風雪に渡している。
インゴットを渡してもそれをカミラがどう使うのかはレイにも分からなかったが、何か遊ぶようなものに使おうと思えばつかえるのではないかと思ったのだ。
もっとも、鉄のインゴットはそれなりの重量があるので、それを持って遊ぶというのはあまり面白くないのかもしれないが。
「取りあえず……リンディ辺りに遊んで貰えばいいんじゃないか?」
もしリンディがレイのこの言葉を聞いたら、鬼か! 突っ込んでいただろう。
リンディにしてみれば、昨日のレイとの模擬戦で身体中が筋肉痛なのは間違いない。
侵入者の件があって夜中に起きた時、既にもう身体は筋肉痛に襲われていた。
中途半端に起きたその時間が、今回の場合一体どう影響するのか。
それはレイにも分からなかったが、筋肉痛で一歩も動けない状態になっていてもおかしくはないと思う。
あるいは、動けてもロボットのようにぎこちない動きになるという可能性もあるだろう。
そんなリンディの姿を予想して、レイは小さく笑みを浮かべる。
カミラに触られたリンディがどんな悲鳴を上げるのやらと。
「リンディ姉ちゃんに? でも、リンディ姉ちゃんって怒ると怖いんだけど」
「そうだな。怒ると怖いのは間違いない。けど、今日はそこまで強く出たりは出来ないと思うぞ」
「え? 本当?」
レイの言葉に信じられないといった様子を見せるカミラ。
それだけカミラにとってリンディは怒らせると怖い相手という認識なのだろう。
そんなカミラの様子にレイは素直に頷く。
「ああ、その通りだ。……ただし、やりすぎると後から怒られてしまうかもしれないから、程々にな」
「うん、分かった!」
元気に返事をし、カミラは部屋のある方に戻っていく。
その言葉が本当に信じられるのかといったような思いもあったものの、レイはリンディにカミラの暇潰しの犠牲になって貰おうと考える。
後々面倒なことになるかもしれなかったが、カミラが部屋の外に出ようとするよりはいいだろうと判断し……そのタイミングで扉がノックされる。
誰だ? と疑問を抱きつつも、レイは扉の方に向かう。
実はリビングには他にも何人か眠っている者がいるのだが、やはり昨夜の件で疲れているのだろう。
レイとカミラが話している間も全く起きる様子はなく、ぐっすりと眠っていた。
今更ながらにそんな周囲の様子を気にしつつ移動し、扉を開ける。
するとそこにいたのは護衛兼監視の男達……ではなく、風雪の交渉を担当しているニナの姿だった。
「ニナ? どうしたんだ?」
「おはようございます。実はオルバン様がレイ様をお連れするようにと」
「オルバンが? 分かった」
ここで、何故オルバンが自分を呼ぶのかといったようなことはレイも聞かない。
聞かなくても、何となく理由は理解出来たからだ。
昨夜の件か、あるいはドーラン工房の裏にいる者の件か、そのどちらかの話だろうと。
オルバンが呼んでいる以上、レイに会いに行かないという選択肢はない。
何か手が離せないようなことでもあれば話は別だが、今は特に何もやるべきことはないのだから。
誰かに声を掛けた方がいいのか? と思ったものの、まだカミラと自分以外の全員が眠っている以上、それは止めておいた方がいいだろうと判断する。
そうしてレイはオルバンに会いに行く為に部屋を出たのだが……扉を閉める直前に聞こえてきた『ぎにゃああああ』というリンディの悲鳴は聞こえない振りをするのだった。




