2813話
当然の話だが、レイは風雪のアジトについて詳しくはない。
何度か通った道なら分かるが、侵入口が作られたのはレイが初めて来た場所だ。
そうである以上、レイがリンディ達のいる部屋に戻りたいと思っても自分だけで移動出来る訳がない。
それを抜きにしても、風雪にしてみれば部外者のレイを好き勝手に動き回らせる訳にはいかなかった。
先程までは侵入者がいて、レイがそれに対処するということで好き勝手に動いていたのだが、騒動も一段落した今となっては案内役という名の監視役が必須となる。
実際にはレイが自由に動くのは風雪の上層部が許可をしたことである以上、自由に動いてもいいのだが……レイもリンディ達のいる部屋に戻るには案内役が必要である以上、風雪の対応に不満はない。
「レイ、今回は本当に助かった。感謝する」
リンディ達のいる部屋に向かいながら、クロウはレイに感謝の言葉を口にする。
そう、レイの案内役として選ばれたのはクロウだった。
それ自体は、そこまでおかしな話ではない。
今回の一件において、レイはクロウと行動を共にしていたのだから。
そしてレイとクロウの相性は決して悪くはない。
元々はクロウも決してレイに好意的だった訳ではなかった。
しかしレイとリンディの模擬戦を見て感心し、そして今回の騒動で一緒に行動したことによってレイに対する印象は好意的なものに変わっている。
それだけに、クロウをレイの案内役にするというのは風雪の者達にしてみれば当然のことだった。
ここで下手にレイと敵対的な者を案内役にして、それによって問題が起きてレイとの関係が悪くなってしまえば意味がない。
そういう意味ではクロウを案内役にするのは最善の選択だったのだろう。
「それで、ここから俺が戻る部屋までどのくらい掛かるんだ?」
「どのくらいと言われてもな。そこまで離れていないといったところか」
具体的にどのくらいの時間が掛かるのかを口にしないのは、風雪のアジトの広さを知られたくないからか、もしくはクロウも正確な時間が分からないからか。
(多分、後者だな)
レイに風雪のアジトの広さを知られたくない場合であっても、レイは今回の一件で風雪のアジトを好き放題に走り回っている。
勿論蟻の巣状……というのは少し大袈裟だが、それを模したかのように複雑な構造のアジトの全てをレイが理解した訳ではない。
だが、それでも既にある程度は走り回っているのだから、この状況でアジトの詳細を知られないように……というのは少し疑問だ。
もっとも、だからといってクロウが時間について予想出来ないというのも、また疑問ではあったが。
「今回の一件で風雪側にどれくらいの被害が出たか聞いたか?」
「いや、まだ詳細は聞いていない。ただ、それなりに死んだり怪我をした奴はいる筈だ」
風雪も、まさかエグジニスの中で最大規模の暗殺者ギルドである自分達のアジトに奇襲をしてくるというのは予想外だったのだろう。
相手の予想しないことをするからこそ、奇襲なのだが。
(とはいえ、ドーラン工房は冒険者を雇ってジャーリス工房を襲撃させたり、買収しているだろう警備兵を使って俺を捕らえようとしたり、商品の筈のゴーレムをスラム街に投入したりといったような真似をしている。そう考えれば、風雪のアジトを奇襲するのは有り得るか)
ドーラン工房は現在エグジニスの中でも最高のゴーレムを作る工房ということで、強い影響力を持つ。
それだけではなく、エグジニスを動かしている実力者とも繋がりがあり、多少の無茶は揉み消すことが出来た。
そう考えると、風雪のアジトを奇襲するといったようなことはおかしなことでもないのだろう。
(それに襲撃したのは雇われた暗殺者達だ。地中を掘るゴーレムを用意したのはドーラン工房だろうが、結局のところそれくらい……いや、暗殺者を雇うのに金を使ってるか。ただ、ドーラン工房ならゴーレムを売れば幾らでも金は入ってくる。今夜はともかく、明日はどんな手段を取るのやら)
明日のことを考えている間にもレイとクロウは道を歩き続け……不意に漂ってきた鉄錆臭にレイは足を止める。
「クロウ」
「どうした? ……なるほど」
最初は何故レイが足を止めたのかが分からなかったクロウだったが、レイに数秒遅れて鉄錆臭を嗅ぎ取る。
それが一体何を意味してるのか、レイに分からない筈もない。
クロウを一瞥すると、すぐに鉄錆臭が……血の臭いがしてくる方に向かって走り出す。
レイが本気で走っただけに、その速度はクロウを置いていくには十分なものだった。
そうして見覚えのある場所を通りすぎ、やがてリンディ達がいる部屋の前に到着すると……
「ちっ!」
床に広がっている大量の血を一瞥すると、そのまま扉を開けようとし……ガチャ、と扉の向こうに何かがあって扉が開かない。
だが、部屋の中に人がいるのは気配で分かったし、何よりレイが扉を開けようとした時に中から小さな悲鳴が聞こえ、同時に部屋の外にあるのとはまた違う血の臭いが部屋の中から嗅ぎ取れた。
ガッ、ガッ、と。何度か扉の向こう側にある何か……いや、扉の隙間から見る限りソファが置かれているのだろうが、そのソファに扉をぶつけるも扉が開く様子はない。
レイが本気で中に入るなら、幾らでも手段はある。
多少の無茶はこの際仕方がないと思ったところで、扉の隙間からリンディの顔が見えた。
「レイ!?」
「リンディか。無事だな? 他の連中に怪我は?」
部屋の中から血の臭いがしてくる以上、中に怪我人がいるのは間違いないだろう。
しかし、冒険者として他の面々の護衛を行うだろうリンディが無傷な様子を見れば、誰が怪我をしたのかが分からない。
「これは……」
この時、ようやく追い付いてきたクロウが床に広がる血を見て、驚きの声を上げた。
「レイ、その人は風雪の人……よね?」
「ああ。俺と一緒にいるのを見れば分かるだろ。それで、一体何が……いや、その前にソファを退けてくれ。このままだと部屋の中に入ることが出来ない」
その言葉にリンディは少し躊躇したものの、レイがいるということで心配はないと判断したのだろう。
中にいる他の面々と一緒に扉を塞いでいたソファを動かし、部屋の中に入れるようにする。
ようやく部屋の中に入ったレイだったが、部屋の中……他の個室に繋がっているリビングには結構な人数が集まっていた。
個室ではなくこうやって皆が集まっているのは、現在のアジトの状況が不安だったからだろう。
それでもリビングにいるのは全員という訳ではなく、何人かは自分の部屋に籠もっているようにレイには思えた。
しかし、部屋の中に入ったレイとクロウの視線が最終的に向けられたのは、扉を塞ぐのとは別のソファに寝かされている二人の男。
その男達の顔は当然のようにレイにも見覚えがあった。
この扉の前にいた、護衛兼見張りの男達。
(やっぱりか)
その男達が怪我を……それも結構な重傷を負っているのを見て、扉の前にあった血はこの男達のものかと納得する。
「治療はどうした?」
「部屋の中にある物だけだから、ろくな治療は……傷も深くて、血もなかなか止まらないし……」
「これを使え」
そう言い、レイは即座にミスティリングからポーションを取り出してリンディに渡す。
男達の治療をするのなら、本来はレイではなく風雪が所有しているポーションを使うべきだろう。
だが、この男達はリンディを……アンヌやカミラ、イルナラやそれ以外の面々を守る為に怪我をしたのだ。
扉の前にある血から考えると、そのようにしか思えない。
そうである以上、レイとしてはここで自分のポーションを使うのに躊躇しなかった。
リンディも、自分達を守る為に怪我をした者達に対してポーションを使うのを躊躇する筈もなく、レイから渡されたポーションをすぐに男達に振り掛ける。
レイの模擬戦の影響でろくに身体を動かすことは出来ないのだが、それでもポーションを使うといったような真似くらいは出来た。
「これは……随分と高価なポーションだ」
ポーションを掛けられた男達の傷口から流れていた血が止まったのを見ながら、イルナラが驚いたように言う。
怪我をした場所がすぐに回復した訳ではなく、あくまでもそこから流れる血が止まった程度ではあるが、怪我の度合いから考えるとイルナラが口にしたようにかなり効力の高いポーションなのは間違いなかった。
ポーションというのは、基本的に値段によってその効果が変わってくる。
そういう意味では、今回レイが使ったのは最高級のポーション……とまではいかないものの、それでもかなり高価なポーションなのは間違いない。
「ああ。けど、別に俺の懐は痛くないから心配はいらない」
これだけ効果のあるポーションなのに? と不思議そうな表情を浮かべるイルナラだったが、実際にこのポーションはレイが金を出して購入した物ではなく、血の刃が持っていたポーションなのだから、懐は痛くない。
ポーションがなくなったという意味では懐が痛くなったのは間違いなかったが、金銭的な意味では何も問題はないのだ。
レイの隣で事態を見ていたクロウはその言葉の意味を理解したものの、素直に感謝の言葉を口にする。
「レイ、悪い。助かった」
「気にするな。それに、この二人が怪我をしたということは、当然だがこの部屋に侵入しようとした奴と戦った結果だろう。そういう意味では、俺にとってもこの二人には感謝の気持ちがあるしな。……それで、一応確認するけど俺の認識で間違ってないよな?」
クロウと話していた内容に間違いがないかと、レイはリンディに尋ねる。
そんな風に尋ねられたリンディは、ソファの上の二人を見ながら頷く。
「ええ。レイの予想で間違ってないと思うわ。……私達は部屋の中にいたから、絶対にそうだとは言えないけど」
「そうか。その辺の詳しい話については、後でこの連中から聞けばいいが……それにしても、よく無事だったな。この二人がこの様子ってことは、戦いに負けたからだろう? なのに、部屋の中が無事だったのは何でだ?」
この部屋を守っていた二人が倒された以上、当然ながら部屋の中にいる者達を守るといったことは出来ない。
唯一の戦力であるリンディも、レイとの模擬戦で身体中が筋肉痛になっており、戦うのは無理だった。
寧ろそのような状況で今のように動き回れていることが驚きではあるだろう。
レイが扉を開けようとした時にソファによって開かないようにしていたものの、それもまた暗殺者が本気になれば対処するのは難しくはない。
だが、レイが見たところでは扉を無理に開けようとした様子はなかった。
それはつまり、侵入者達がこの部屋を守っていた二人を倒しはしたものの、それ以上は特に何もしなかったということを意味している。
一体何故そのように中途半端な真似をしたのか、レイが疑問に思うのは当然だろう。
「それは……ちょっと分からないわ。ただ、表でこの二人と戦っていた相手が突然撤退したのは間違いないわ」
「突然撤退? それは……」
「多分、俺達が侵入口の付近に迫っているという情報が届いたんだろうな」
クロウがレイの言葉に続けるように言う。
レイもまたクロウが考えていたのと同じことを考えていたので、その予想は間違いではないだろうと思えた。
「そうなると、リンディ達が助かったのは偶然か。……危ないところだったな」
リンディを……というよりも、アンヌやイルナラ達を見て、レイはしみじみと危険だったのだと理解出来た。
もし侵入者達がこの部屋の中に誰がいるのかを知っていれば、どのような手段を使ってもこの中にいる者達を連れ去っただろう。
レイに対する人質として……あるいはイルナラ達の場合は余計なことを知ってしまったので口封じの対象として。
その件が知られる前にレイ達が侵入口付近に攻めて来たという情報が伝わり、このままでは置いていかれると思ったのか、部屋の前にいた護衛兼見張りの男達を倒した侵入者達は撤退していったというのがレイの予想だった。
まさに間一髪だったのは間違いない。
「こういうのって俺の日頃の行いがいいからなのか?」
「レイの日頃の行いが? ……とてもではないけど、その意見には賛成出来ないわね」
レイの呟きを聞いたリンディが、呆れた様子でそう言ってくる。
リンディにしてみれば、レイがエグジニスに来てからの様々な行動……ロジャーがセトにちょっかいを出したのを許した代わりに食事を奢らせたり、山賊狩りをしたり、ドーラン工房に侵入したりといったような真似をしているので、とてもではないが日頃の行いがいいという言葉に納得は出来ない。
「そう言っても、最終的には何とかなったのは間違いないだろう?」
そう言われると、リンディも黙るしかなかったが。