2806話
「やったか?」
「いや」
クロウが短剣を手にレイの近くまでやってきて尋ねるが、レイはその問いに対して首を横に振る。
そう断言出来たのは、黄昏の槍を横薙ぎに振るって女を吹き飛ばした時の感触がまるで金属鎧を着ている相手に対するようなものだったからだ。
「あの女、何か妙なスキルかマジックアイテムか、あるいはそれ以外の何かは分からないが、とにかく普通じゃないぞ」
「そうなのか?」
「あら、残念。油断してくれれば不意を突けたんですけどね」
レイとクロウの会話に割り込むように、強烈な勢いで壁に叩きつけられ、その衝撃で床に倒れていた筈の女が立ち上がる。
それなりにダメージはあるようだったが、それはあくまでもそれなりといった程度でしかない。
そんな女を見て、最初に黄昏の槍で突きを放ち斬り裂かれた場所と、胴体……正確には脇腹の辺りを確認したレイは、女の防御力の高さに納得して口を開く。
「その血か。てっきり趣味で血塗れになってるのかと思ったんだが、どうやら違ったらしいな」
趣味で血塗れというのもどうなんだ? と思わないでもなかったが、それでも暗殺者……それも先程の言動から考えると、そんな猟奇的な趣味を持っていてもおかしくないと思える。
「正解よ」
レイの目に確信の色を見たのか、女はそれ以上隠すようなこともせずに認める。
「血だと? ……くそが」
レイと女の会話を聞いていたクロウは、不愉快そうに吐き捨てる。
女の身体に付着している大量の血は、恐らく女が今まで戦ってきた風雪の暗殺者の血だろうと、容易に想像出来た為だ。
仲間思いのクロウにしてみれば、仲間の血に塗れた女に不愉快な思いを抱くなという方が無理だろう。
「どういう理屈かは分からないが、血で濡れた場所の防御力を高くする……あるいは硬化、もしくは金属化かをするのか。とはいえ、初見殺しではあるかもしれないけど、結局一発芸でしかない。そういうのだと分かれば、対処のしようは幾らでもある」
女の身体の血が付着している部分の防御力が高くなっているのなら、単純に血の付着していない場所を狙えばいいだけだ。
あくまでも女のスキルは血を媒介にして発動する以上、そこに攻撃するのは難しい話ではない。
相応の技術が必要になるが、レイであればその程度は何の問題もなく実行可能だった。
「ふふっ、なら……こうしたらどうかしら?」
そう言った女は、短剣で自分の腕を斬り裂く。
暗殺者が使う短剣だけに、その刃は鋭い。
皮一枚だけではあるが、あっさりと斬り裂き……女はそこから流れた血を、自分の身体の中でも血のついていない場所に塗る。
「なるほど。他人の血じゃなくて、自分の血でも効果はある訳か」
「正解。さて、そろそろ姉さんの仇を取らせて貰うわ。そうすれば姉さんも喜んでくれる筈だもの」
そう言い、ボロボロになったメイド服に手を触れる女。
そんな女の様子を見たレイは、まさかと思う。
「そのメイド服、俺を殺しに星の川亭に侵入してきた女が着ていたメイド服か?」
「そうよ。姉さんの形見ね」
当然のようにそう言う女。
どうやってそのメイド服を手に入れたのかとか、もしくはメイドに変装していたのは星の川亭に侵入する為で普段は違う服を着ていたのではないかとか、色々と……本当に色々と言いたいことはあったのだが、仇討ちだけを考えている今の女に何かを聞いてもまともな答えが返ってくるとは思わない。
そうである以上、今はここで何を言っても意味はないと判断して、それ以上は特に何を聞くでもなく黄昏の槍を構える。
「そうか。なら、せめて姉と同じ服装のまま逝け。それが俺に出来るせめてもの救いだ」
「そんなことはないわ。本当に私を救ってくれるのなら……ここで死んでよ!」
その言葉を共に女が一気に前に出る。
「俺を無視するな!」
レイとの間合いを一気に縮めようとした女の前に飛び出したのは、クロウ。
最初に遭遇した時に自分の存在を無視されたのも面白くなかったが、それ以上に許せなかったのは、やはり女が身に纏っている血の大半が風雪の暗殺者……クロウの仲間のものだということだろう。
クロウとしては、そんな女を自由に行動させるような真似は絶対に許容出来ない。
女が自分の姉の仇討ちをする為にレイを狙うのなら、クロウは仲間の仇討ちの為に女を狙う。
許せないという思いに突き動かされたクロウは、女の好きにさせてたまるかといった様子で、女に近付く。
女はレイとの間合いを詰めようとしていたので、そういう意味でもクロウが女との間合いを詰めるのは楽だった。
「邪魔をしないでよぉっ!」
自分の前に立ち塞がってレイに対する攻撃を邪魔するクロウに、女は苛立ち……半ば狂気を滲ませた声で叫び、短剣を振るう。
女の放つ一撃は暗殺者としての技量といったものは全く関係なく、それこそ自分の前にいる邪魔者を排除する為に放たれたような、そんな一撃。
そんな一撃ではあったが、身体を覆っている血は防御だけではなく攻撃にも影響するのか、鋭い一撃だったのは間違いない。
だが、クロウもその辺の素人ではない。
スキルかマジックアイテムか、あるいはそれ以外の何かかは不明だが、女が血を操っているのは理解している。
そうである以上、最初からそのような存在として認識して攻撃すればいい。
クロウは女の一撃を危なげもなく回避すると、カウンターの一撃を放つ。
女は先程自分の血を使って更に身体を覆い、防御力を高めている。
そうである以上は短剣の一撃が血に命中しても弾かれるか、受け流されるだろう。
レイの放つ黄昏の槍を使った一撃であっても、血やその下にある皮膚を斬り裂くことは出来ても、肉や骨を断つといった真似が出来なかったのだ。
それが女が身に纏っている血が非常に高い防御力を有しているということを示していた。
しかし、クロウは腕利きの暗殺者であって戦士ではない。
馬鹿正直に真っ正面から女に挑むような真似はせず、短剣によって女の身体の血に覆われていない部分をピンポイントで狙う。
その一撃の鋭さは、クロウが高い技量を持っているということを意味していた。
女はそんなクロウの様子を見ても特に動揺することなく、冷静に身体を動かす。
クロウの短剣が迫っている場所に、自分の身体の中でも血の付着している場所……高い防御力を期待出来るその部分を移動させたのだ。
言ってみれば、鎧や盾を使って敵の攻撃を防ごうとしているようなもので、女にとってはそこまで難しい行動ではない。
「けどなぁっ!」
クロウもそんな相手の様子に一瞬戸惑ったものの、すぐ短剣の向かう先を変更する。
身体の重心をずらし、肩、肘、手首の関節をコントロールし、短剣の向かう先を血が付着した場所から生身の部分へと。
「ぐっ!」
「なぁっ!?」
短剣の切っ先が女の血に塗れていない部分……かなりメイド服が傷んでいるせいで、左肩に突き刺さったその瞬間、女の口から痛みに呻く声が聞こえてクロウはやったといった笑みを浮かべるも、即座にその顔は会心の笑みから驚きへと変わる。
何故なら、クロウの放った一撃は皮膚を斬り裂いたもの、肉や骨に届かなかったのだ。
皮膚を破って血が出ると、その血が短剣の刃を受けて止めているのだから、それに驚くなという方が無理だろう。
そんなクロウに向かい、女は一瞥する。
先程までは姉の仇のレイを前にした為に路傍の石といった程度の認識しか抱いていなかったのだが、今のやり取りで十分脅威に値すると判断されたらしい。
殺気の込められた視線が向けられ、短剣を持っていない方の手……クロウによって傷つけられた左肩を何の問題もなく動かし、爪による一撃を放つ。
当然の話だが暗殺者がこの状況で放つ爪の一撃がただの爪である筈もない。
クロウもその危険を察したのか、半ば無理矢理にではあったが身体を動かしてその一撃を回避しようとする。
「ぐ!」
しかし女の放つ一撃はクロウが予想した以上に伸び、爪によって顔を傷付けられてしまう。
その一撃がどのような意味を持っているのかは、クロウにも分からない。
分からないが、それでも半ば反射的に女から距離を取ってしまう。
そうして邪魔者を排除した女が本命のレイに視線を向けた瞬間、女の顔が驚愕に歪む。
何故なら、レイの放つ黄昏の槍の一撃が女の胴体に突き刺さったのだ。
しっかりと魔力を込められて放たれた突きは、先程と違い女の身に纏っている血に滑るのではなく、その血すらも貫き、その下にある皮膚を貫き、皮膚から出た血を操ろうとした女の予想を裏切ってその血まで貫き、肉を裂き、内臓を傷つけて肉を裂き、皮膚を破り、胴体を貫く。
「げふっ……」
女にしてみれば、その一撃は完全に予想外の威力を持っていた。
胴体を貫かれた衝撃により、血を吐きながら動きを止める。
黄昏の槍で胴体を貫かれて動きを止めたその様子は、まさにモズのはやにえと呼ぶに相応しい光景。
「な……何故……」
女の口から何が起きたのか全く理解出来ない、信じられないといったような声が漏れる。
女にしてみれば、血を使った防御には強い自信を抱いていたのだろう。
レイにとっては、魔力を十分に込めていない状況でも血の防御は突破出来たのだ。
そうである以上、最初の攻撃よりも魔力を込めて威力を上げた黄昏の槍であれば、女の持つ血の鎧とでも呼ぶべき防御を突破するのはそう難しいことではない。
ましてや女はクロウの行動に気を取られ、先程まではレイの一挙手一投足に反応していたのが、それも疎かになってしまった。
そのような状況で、ただでさえ格上のレイに勝つというのが不可能なのは当然だろう。
クロウにしてみれば、自分で仲間の仇を討つことは出来なかったものの、女の行動を邪魔して姉の仇討ちを失敗させたという点で大きな意味を持つ。
「死ね」
その言葉と共に、レイは片手で女が突き刺さったままの黄昏の槍を持ち上げ、大きく振るう。
ゼパイル一門の技術力を結集して生み出されたレイの身体だからこそ、可能なことだ。
……実際には、同じような真似を出来る者はそれなりにレイも知っているのだが。
ともあれ、女とはいえ大人を……それも暗殺者として鍛えられた人物を貫いた状態であっても全く重さを感じさせないままに振るわれた黄昏の槍から、胴体を貫かれた女は吹き飛ばされて壁にぶつかる。
ぐしゃり、という音が周囲に響くと同時に女の口から苦痛の声が漏れ出た。
「ぎゃ……」
単純に壁にぶつかるという程度なら、先程と同じ光景ではあるだろう。
しかし、先程と決定的に違うのは女が胴体を貫かれていたことだった。
胴体を貫かれた状態で、レイの持つ人外の力によって吹き飛ばされて壁に当たったのだ。
先程黄昏の槍に押されるようにして吹き飛ばされた時とは、受ける衝撃が全く違う。それでも……
「まだ生きてるのか」
思い切り壁に叩きつけられた影響で身体中の骨が折れている女だったが、それでもまだ生きていた。
幸か不幸か気絶しており、もう動けそうな様子ではなかったが。
「どうする? 殺すのか?」
クロウが気絶している女を睨み付けながら、レイに尋ねる。
そんなクロウに何かを答えようとし……その前に、先程の一連の出来事を思い出す。
「そう言えば、さっきこの女の爪に引っ掻かれていたよな? 何か影響はないのか? 考えられるのは毒とかだけど」
「あ? ああ、そういうのは……特にないな。今は戦闘が終わった直後で興奮してるから、まだ自覚がないだけかもしれないが。念の為に飲んでおくか」
そう言い、クロウは腰のポシェットから何らかの丸薬を取り出して口に運ぶ。
毒消しの類か、あるいは傷薬の類か。
その辺はレイにも分からなかったが、クロウはその丸薬を飲んでおけば大丈夫だと判断したのだろう。
もっとも、女の爪の正体が分からない以上、絶対に大丈夫とは言えないのかもしれないが。
そうして一段落したところで、改めてクロウはレイに尋ねる。
「で? この女はどうするんだ? 殺すのか?」
言葉では殺すのかと尋ねてはいるが、実際には殺せと言ってるに等しい。
仲間を殺されただろうクロウの気持ちも分からないではないレイだったが、この女についての処分は悩む。
「この女から情報を引き出せると思うか?」
「無理だろ」
レイの問いに、考えるまでもなく即座にクロウは言葉を返す。
「この女のイカれ具合は見ただろ? あんな状態で情報を引き出せるとは思わない」
「風雪には尋問の専門家もいるだろ? その連中でも無理か?」
「多分無理だ。この女は復讐に狂っている。レイを殺せば多少は落ち着くかもしれないが……どうする?」
「却下だな。しょうがない、殺すか」
自分を狙ってる以上、見逃すという選択肢はない。
ましてや、この女はクロウとやり合えるくらいの実力の持ち主なのだから、生かしておくのは危険すぎる。
また、胴体を貫かれた以上、放っておいてもいずれ死ぬだろうが……
「せめて、一思いに殺してやるよ」
そう言い、レイは黄昏の槍の穂先で女の頭部を貫くのだった。