2797話
リンディがレイに模擬戦を希望したのには、幾つかの理由がある。
まず第一に、当然だがアンヌ達を守る為には強くなければならない。
自分の弱さによって、アンヌが再びドーラン工房の手の者に連れ去られ、奴隷にされるといったようなことは絶対に避けたい。
とはいえ、それ以外にも打算的な目的があるのも事実だった。
リンディはエグジニスにおいて冒険者として活動しており、それなりの実績を残してもいる。
だが、それはあくまでもそれなりでしかなく、エグジニスにいる冒険者の中でも突出した実力は持っていない。
具体的には、エグジニスにいる冒険者の中ではどんなに贔屓目に見ても中の上といった程度の実力だろう。
エグジニスにおける冒険者全体のレベルは、それこそ自治都市で多くの貴族や商人が集まってくるので、その護衛として盗賊と戦うことも多く、決して低くはない。
護衛という点においては、レイよりも評価の高い冒険者は多数いるだろう。
また、ここ最近の話ではあるがエグジニスからそう離れていない山には多数の盗賊が集まるようになっており、その討伐依頼も相応に出ている。
しかし……その程度では、リンディの実力は足りない。
あるいはリンディに戦いの才能があれば、その程度の敵であっても実力は上がっていくのかもしれないが、生憎とリンディには才能はあっても、それはあくまでもそれなりの才能でしかない。
一を聞いて十を知るといったようなことは出来ず、だからこそ強くなる為にはもっと別の手段を探す必要があった。
それこそ、恋する相手のゴライアスを見つけ、その横に立つ為にも。
そういう意味ではレイという存在はリンディにとって非常にありがたい。
異名持ちのランクA冒険者。
普通であれば、有象無象と評してもいいようなリンディが知り合える相手ではない。
しかし、アンヌのおかげで……ゴライアスの件があったので若干複雑な思いはあるが、とにかくリンディはレイと知り合うことが出来た。
そして盗賊との戦いやゴーレムとの戦いを見て、レイの実力に関する噂が大袈裟なものではない……どころか、寧ろ噂の方が実際の実力よりも低く見積もられているのではないかとすら思ってしまう。
そんな相手との模擬戦は、間違いなくリンディの実力を上げてくれる筈だった。
そうしてレイと模擬戦をすることになったリンディだったが、そうなると問題なのはどこで模擬戦をやるのかということだ。
冒険者はいつどこで戦いになるのか分からない以上、現在いるリビングで模擬戦をやるといった手段もあったが……現在リビングで寛いでいる者にしてみれば、止めて欲しい。
そもそも全身筋肉痛の錬金術師達がいる以上、ここでそのような真似をしたらどのような被害が出るか分からない。
かといって、アジトの外……スラム街でも模擬戦をやるとなると、色々と面倒が予想される。
結果として、レイはまず扉の前にいる護衛兼見張りに話を通すことにしたのだが……
「模擬戦ですか? 俺達が訓練をする場所なら使えると思いますけど、どうします?」
「いいのか? そんなに簡単に」
「レイさんの要望は出来る限り聞くようにと言われてますので」
風雪にしてみれば、レイという存在は色々と厄介な相手であるのは間違いないが、何かあった時に頼れる相手であるというのも間違いない。
そのような状況でドーラン工房が大々的に動いている今、レイと友好的な関係を築くというのは当然の話だった。
これでもっと別の難しいこと……具体的には、風雪のアジトの中でも部外者には見せられないような場所に案内しろといったようなことを言われたりすれば、その要望を受け入れるような真似も出来なかっただろう。
だが、今回のように戦闘訓練をしたいからどこか広い場所を貸して欲しいと言われたのなら、話は別だ。
そのくらいのことであれば、それこそすぐにでも了承することが出来た。
男の内心はレイにも分からなかったものの、取りあえず問題がないのなら自分の要望を頼んでみてもいだろうと判断すると、レイは男の言葉に甘えることにした。
「分かった。じゃあ、案内を頼む」
こうして、レイはリンディと共に護衛兼見張りの男の一人に案内されて、風雪に所属する者達が訓練をする場所に向かう。
実は案内をする男も、レイの模擬戦を楽しみにしていた一面があったのだが……それが表情に出るようなことはなかった。
「ここが……よくもまぁ、地下にこんな空間を作れたな」
案内された場所は、地下に広がる巨大な空間といった感じの場所だった。
ちょっとした体育館くらいの大きさがあるだろう空間は、それだけに作るのには苦労したのでは? と思ったものの、考えてみれば風雪のアジトそのものが地下に作られているのだから、このような空間を作るのも不可能ではなかったのだろうと判断する。
レイの隣では、リンディもまたこの空間を見て驚きの表情を浮かべていた。
(アンヌと一緒に掃除とかをしていたらしいけど、ここには来なかったのか?)
掃除をするという意味では、このように広い場所は当然のように掃除の対象になってもおかしくないのだがと思うレイだったが、すぐに納得する。
ここは風雪に所属する暗殺者達が戦闘訓練を行う場所だ。
そうである以上、ここは一応部外秘の場所という風に認識されてもおかしくはない。
アンヌ達が掃除を任されている場所は、あくまでもアンヌ達が立ち入ってもいい場所だけである以上、ここでの掃除に関してはやらないように言われていてもおかしくはなかった。
あるいはアンヌはレイの仲間という風に見られている以上、この場所で掃除しようとした場合、戦闘訓練を行っている者達がいれば危険だと判断して掃除をしないように言われたのか。
事実、レイの視線の先には数人の暗殺者達が戦闘訓練を行っている。
……ただし、その戦闘訓練は普通とは少し違う。
具体的には、正面から相手を攻撃して倒すといったようなレイにとってもやり慣れている戦い方ではなく、あくまでも相手の隙を突いて攻撃をし、その一撃で相手を仕留めるようにするといったような内容。
この辺が冒険者と違って暗殺者が行う戦闘訓練といった感じなのだろう。
(とはいえ、こうして見た感じではここは特に何かがある訳じゃない。ただ広い空間が広がっているだけだ。暗殺者の訓練なら、それこそ街中を模していたり、あるいは建物の中を模していたりとか、そんな風にした方がいいと思うんだが。それとも、そういう場所は別なのか?)
ちょっとした体育館くらいの広さを持つ地下空間を用意している風雪だ。似たような場所が他に幾つかあってもおかしくはない……いや、レイにしてみれば寧ろ納得出来ることだった。
そう考えれば、今ここで訓練をしている暗殺者の数が少ないのも、納得は出来てしまう。
レイの視線に気が付いた……いや、それ以前にレイ達がこの空間に入ってきた時から気が付いていたのだろう。暗殺者達が戦闘訓練を止め、レイ達に視線を向けてくる。
その表情には嫌悪の類も歓迎の類も浮かんでいない。
何の表情も浮かべず、ただじっとレイ達の姿を見ているだけだ。
ある意味ではもっとも暗殺者らしい姿ではある。
そんな暗殺者達に、レイとリンディをここまで案内してきた男が近づき、事情を説明する。
すると暗殺者達は特に何か不満を言うでもなく頷き……そして話していた男は暗殺者達と少し話をすると、レイの方に戻ってくる。
「この場所を譲るのはいいですけど、代わりにレイさん達の戦闘訓練を見学してもいいかと言ってますが……どうします?」
「俺達の戦闘訓練を? 俺は別に構わないが。リンディはどうだ?」
レイの場合は、人前で模擬戦をするのは特に珍しいことでもない。
異名持ちということもあり、レイの実力を少しでも知りたいと思う者は多いのだから。
……中には、深紅の異名はセトのおかげ、もしくは偶然に偶然が重なったおかげでレイの実力ではないといったように考える者もおり、そのような相手にレイの実力を見せるという意味でも模擬戦を行うといったようなこともある。
そういう意味で、レイとしては暗殺者達の前で模擬戦をやるのは特に不満はない。
だが、それはあくまでもレイの視点での話だ。
これからレイと模擬戦を行うリンディにしてみれば、暗殺者の前で模擬戦をやるのはごめんだと、そのように言ってもおかしくはなかったのだが……
「構わないわ。やりましょう」
レイの予想に反して、意外な程にあっさりとレイの言葉を受け入れる。
「いいのか?」
レイの口から出たその言葉は、色々な意味を持つ。
例えば、暗殺者達に自分の戦闘スタイルを見せるということであったり、自分がレイと一緒に行動しているにも関わらず、そこまで強くないというのを見せるという意味でもある。
他にも幾つかの意味があったが、リンディはその全てを理解している……という訳ではないのだろうが、それでもレイの言葉を聞いて素直に頷く。
「ええ、構わないわ。ここにいる人達は暗殺者かもしれない。けど、今回の一件に限っては私達の仲間でもあるでしょう? なら、問題ないわ」
そう言い切るリンディの言葉が聞こえたのか、今まで無表情だった暗殺者達の表情に少しだけ驚きの色が宿る。
暗殺者達にしてみれば、まさかリンディからそのように言われるとは思ってもいなかったのだろう。
風雪にとって、リンディ達は仲間というよりは庇護すべき相手という認識の方が強い。
中には足を引っ張る邪魔者と認識している者も多い。
ここで訓練をしていた暗殺者達は、どちらかといえば前者よりだった。
庇護とまではいかないが、自分達が守ってやる相手だと、そのように認識していたのだが……それだけに、リンディの言葉には驚いてしまったのだろう。
なお、リンディをそのように思っているのに模擬戦を見学したいと言ったのは、その目当てがリンディではなくレイだったからか。
リンディは自分達が守るべき相手と認識していても、レイは違う。
何しろ風雪の上層部はレイと正面から敵対するのが嫌で、血の刃を滅ぼすといった選択をしたのだから。
そんなレイの実力は、それこそ噂では知っているものの、実際に自分の目でしっかりと見た事はない。
そのレイが模擬戦をやるのだから、見学しない訳にはいかなかった。
「よし、来い」
「はああぁっ!」
向かい合ってすぐにレイがデスサイズと黄昏の槍……ではなく、いつ壊れてもいいような投擲用の槍を手にすると、リンディは一瞬の躊躇もなくレイに向かって襲い掛かる。
レイがデスサイズを持っていないことや、黄昏の槍ではなく普通の槍を手にしていることで自分を侮っている……といったように感じるような余裕もない程の、素早い一撃。
とはいえ、それはあくまでもリンディにしてみれば相手の意表を突けたと思った一撃でしかなく……
「甘い」
その一言と共に、レイは槍で長剣の一撃を受け流す。
レイの持っている槍は、武器屋で使い物にならなくなった槍を纏めて購入した物だ。
それこそ投擲した場合は一度で破壊されてしまうような、そんな槍。
だというのに、レイの持つ槍は全く壊れるようなことはなくリンディの長剣を受け流したのだ。
それはつまり、レイの持つ槍にはリンディの振るった長剣の一撃の衝撃が全く通らなかったということを意味している。
お互いの実力差が大きいからこそ、可能なことだった
だが、リンディはそのようなことになっても全く気にした様子はない。
自分とレイの間にある実力差は、しっかりと理解している。
そうである以上、この程度のことは予想通りでしかない。
だからこそ、今のような状況を見せてもリンディは屈することなく、再びレイに向かって攻撃していく。
「はあああああああっ!」
気合いの声と共に、連続して放つ斬撃。
本来なら模擬戦である以上は刃を潰した武器を使うなり、あるいは寸止めをするなりといったような真似をする必要があるのだが、リンディはその辺を全く気にした様子もなく攻撃を続けていた。
それこそ、もし命中したらレイに怪我をさせてしまうということを考えつつも、その行動を止める様子はない。
レイとの間にある実力差をしっかりと理解しており、自分が本気で攻撃をしてもとてもではないがレイにはダメージを与えることが出来ないと、そう理解しているからか。
それともレイに攻撃を当てるということに集中しており、その辺については何も考えていないのか。
その辺りの事情はともかく、壊れかけの槍を手にしたレイと長剣を手にしたリンディの模擬戦は、双方が真剣なまま、暗殺者達に見学されつつも続くのだった。