2783話
レイとオルバンがローベルの屋敷で話をしている頃、セトはスラム街の中を自由に歩き回っていた。
本来なら、スラム街というのは危険な場所だ。
それこそ何も知らない者が興味本位でスラム街に入るといったようなことをした場合、最悪命すら落としてもおかしくはないくらいに。
そんなスラム街ではあるが、セトは特に気にした様子もなく歩き回る。
……とはいえ、それでもセトを襲撃するような者はいない。
セトがグリフォンであるというのが関係しているし、それ以外にも風雪によってレイやセトは現在風雪の客人であるという情報が広められていた為だ。
ドーラン工房に雇われている者にしてみれば、レイやセトのいる場所、そしてレイが連れ去った者達がどこにいるのかといったようなことを情報として広めていることになるのだが、風雪としてはそれでも問題ないと判断したのだろう。
「グルルルルゥ」
喉を鳴らしながら、セトはスラム街を走る。
街中とは違い、建物が崩れているような道は走るにしてもかなり走りにくい。
しかし、それはセトにしてみれば障害物といった認識にしかならず、セトとしては大差ない。
いや、それどころかセトにしてみれば障害物を回避しながら走るというのが楽しいのか、走り回りながらも全く苦にした様子はない。
そうして走り回っているセトをスラム街の住人が見ても、ちょっかいを出す様子はなかった。
当然ながら、セトも人のいるような場所は走っていない。
セトの五感や第六感があれば、自分の走る場所に人がいるかどうかを察知することは出来る。
だからこそ、セトはこうして自由に走り回ることが出来たのだ。
「グルルルルゥ、グルルゥ、グルルルルゥ!」
自由に走り回るセトが、嬉しそうに鳴き声を上げる。
レイがいないのは残念だったが、それでもこうしてある程度自由にスラム街の中を走り回ることが出来るというのは、セトにとって決して悪い話ではない。
とはいえ、それでも本当の意味で全速力という訳ではないのだが。
セトにとって今の状況は、少し物足りないものの、それでもある程度は許容出来るといった感じだ。
そうして走っていたセトだったが……当然ながら、スラム街でそんな風に自由に走り回るといったような真似をしていれば、目立つ。
「おい、あれ……レイの従魔っていうグリフォンじゃねえか?」
そしてレイを捜してやって来た者達にしてみれば、そんなセトの存在は見逃すような真似が出来る筈もなかった。
少し前にレイが倒した、ドーラン工房に雇われた冒険者達。
それとは別口――ドーラン工房に雇われたという意味では一緒だが――の者達だ。
ドーラン工房にしてみれば、自分達にとって大事な物……ネクロマンシーに使う祭壇や、それに使う生贄達を奪ったレイは許せる存在ではない。
いや、許せる許せない以前に、まずはレイが奪った祭壇を取り戻す必要があった。
そしてドーラン工房の名前を使えば、多数の冒険者を集めることは難しくはない。
……もっとも、レイの実力をしっかりと理解している者や慎重な者は、異名持ちの冒険者に挑むなどといったようなことはしたくないので、依頼を引き受けない者もいたが。
ともあれ、ここにいるのはドーラン工房からの報酬に惹かれて、レイやドーラン工房を裏切った錬金術師、あるいは連れ去られた奴隷を捕らえるという目的でやって来た者達。
それだけに、スラム街を走り回っているセトを見つけた自分達は運がいいと、そう思う。
実際にそれが本当に運がいいのかどうかは不明なのだが。
「って言っても……どうやって追い掛けるんだよ? とてもじゃないけど、俺達はあんな速度で走れないぞ?」
街中での依頼ではあるが、場所がスラム街で、戦う相手はレイの予定だったのだ。
当然のように最高の装備をしている冒険者達だが、金属製の鎧というのは重い。
そして重い金属鎧を装備した状態で走れば、足が遅くなるのもまた当然だった。
一応このパーティの中には盗賊もいたが、その盗賊にしたところでセトの走る速度にはとてもではないがついていけない。
「うーん……なら、どうすればいいんだ? これだと、折角グリフォンを見つけたのに、意味がないぞ?」
実際、こうして話している間にもスラム街を走るセトは次第に離れている。
とてもではないが、今から追い付くのは難しいだろう。
「取りあえず、グリフォンが走っていった方に向かってみないか? そっちに隠れ家があるかもしれない。……あるといいなぁ……」
パーティの一人がそう言うが、言葉には力がない。
出来るだけそうあって欲しいとは思っているものの、恐らくセトを追ってもそこに拠点の類はないと、そう考えているのだろう。
実際、その予想は正しい。
セトは別に風雪のアジトに向かっている訳ではなく、ただひたすらに走り続けているだけなのだから。
もし今のセトの進行方向に先回り出来たとしても、そこにあるのはスラム街の街並みだけだ。
……あるいは、エグジニスには多数の暗殺者ギルドが存在するので、その拠点がある可能性もあったが、少なくてもこの冒険者達が探している風雪の拠点はない。
それでもセトの走って行った先くらいしか手掛かりがないのは、間違いない。
あるいは風雪とレイの協力関係を知っていれば、また別の結論が出たかもしれなかったが。
ともあれ、折角の手掛かりが現れた以上、セトを追うという選択肢を捨てることは出来ない。
何の手掛かりもないままスラム街にやって来たのだから、もしここでセトを追わないといったような真似をすれば、それこそまずは手掛かりから探す必要がある。
スラム街の住人から情報を集めるという手段もある……というか、それが一番手っ取り早いのだが、スラム街の住人というのは基本的に金を得る為なら嘘も平気で言う。
レイの拠点がどこにあるのかと聞き、報酬を約束すれば多くの者が答えるだろう。
だが……その情報は人によって違っており、その情報のある場所に行っても全くのデタラメだったということになる可能性が高い。
それならば、確実にレイの従魔であるセトを追った方がいいのは間違いない。
そう判断し、セトを追い掛ける冒険者達だったが……走り初めてから数分も経たないうちに、先程走り去った筈のセトが自分達のいる方に走ってきたのを見て、驚く。
「ちょっ、何でこっちに戻ってくるのよ! さっき、向こうに走っていったばかりでしょ!?」
長剣を手にした女が、何故こちらにセトが戻ってくるのかと、納得出来ない様子で叫ぶ。
セトは好き勝手にスラム街を走り回っているので、偶然戻ってくることになっただけなのだが、セトを追おうとした冒険者達にしてみれば完全に予想外の話だった。
(どうする?)
パーティリーダーの男が一瞬迷うが、これは危機であるが同時に好機であるとも判断する。
走っているセトに追い付くのは難しいが、今は幸いなことに向こうから自分達のいる方に向かって走ってくるのだ。
であれば、ここでセトを捕らえる必要はある。
「グリフォンを捕らえるぞ! 用意はいいな!?」
当然だが、セトと戦って勝てるなどとは思っていない。
だが、戦って勝てない相手と正面から戦うのは、それこそ無謀でしかない。
今のこの状況で男達に出来るのは、戦うのではなく……
「あ、ああ。……言われた通りに持ってきたけど、まさか本当に使うことになるとは思わなかった」
盗賊が取り出したのは、干し肉。
ただし、当然ながらその干し肉はただの干し肉という訳ではなく、睡眠薬が仕込まれた干し肉だ。
ドーラン工房の依頼を受けた時、深紅の異名を持つレイと、その従魔であるランクAモンスターのグリフォンと敵対するという可能性は十分に考えた。
しかし、正面から戦った場合は勝てない以上、正面から戦う以外の方法を採る必要がある。
そしてパーティリーダーをしている男は、レイやセトが食事を好むという情報を聞き入れていた。
であれば、正面から戦わずとも眠らせてしまえばいい。
幾ら相手が強くても、眠ってしまえば手も足もでないのだから。
そうなれば、相手を殺すも捕らえるも好きに出来る。
特に相手はランクAモンスターのグリフォンだ。
もし殺すことが出来れば、その素材は一体どれだけの金額になるのかも分からない。
そう思えば、何故レイと敵対した者達がこのような手段を採らないのか、不思議でならない程だった。
そんな風に考えている間に、セトと冒険者達の距離は急速に縮まってくる。
当然ながら、セトも冒険者達の存在には気が付いている。
常人よりも圧倒的に鋭い五感が……具体的には、その中の聴覚、嗅覚、視覚といった感覚を使って、冒険者の存在を把握していたのだ。
そして同時に、冒険者の中の一人が干し肉を持ち、その干し肉からは普通の人間で気がつけないような薬品の臭いがすることにも気がついている。
具体的にその薬品が睡眠薬の類であるということまでは分からないが、それでも普通の干し肉ではないことは、すぐセトには分かった。
それでも冒険者達の近くでセトが足を止めたのは、自分達を狙ってやってきた相手は出来るだけ倒しておいた方がいいと、そう判断したからだろう。
「グルルルゥ」
冒険者達を見ながら、警戒……いや、威嚇に喉を鳴らすセト。
びくり、と。
セトの態度に冒険者達は思わず数歩後退る。
この冒険者達は、エグジニスで活動している。
つまり、敵というのは基本的に護衛している商人や貴族を襲ってくる盗賊達で、モンスターはゴブリンのような相手と戦うことが殆どだ。
たまに……本当にたまにオークや空を飛ぶハーピーと戦った経験もあったものの、その程度だ。
セトのような体長三メートルを超える巨体を持つモンスターと、正面から……それもこんな間近で接したことはない。
馬車を牽く馬や、騎兵が使っている馬の中には、セトと同じくらいの大きさの身体を持つ個体もいるのだが、馬とグリフォンとではその迫力が大きく違う。
馬は馬でも、エレーナの馬車を牽いているような馬なら、セトと間近で向かい合っても決して見劣りはしないのだが、そのような馬はそう簡単に見られるような馬ではない。
「お、おい。干し肉を……早く……」
セトを前にして、パーティリーダーは何とか声を出す。
この状況でそのような声を出せるのだから、パーティリーダーを務めているだけのことはあるのだろう。
そんなパーティリーダーの声に、盗賊はセトの存在に恐怖しながらも、何とか干し肉をセトに差し出す。
「ほ、ほら。干し肉だ。これ特別製で、美味いぞ」
睡眠薬を仕込んだ干し肉である以上、特別製というのはある意味で間違ってはいない。
とはいえ、問題なのはセトがその干し肉を食べるかどうかということだろうが。
ただでさえ、このパーティが用意した干し肉は保存性を重要視したもので、決して美味い訳でない。
元々レイがミスティリングを持っているので、食料の保存という意味では干し肉は必要ない。
それでもレイがある程度干し肉を所持しているのは、干し肉をそのまま食べるのではなく、料理の具材として使う為だ。
実際、干し肉はスープの具として使った場合はいい出汁が出るし、具材としても悪くはない。
しかし、そうしてレイが持っているのは香辛料の類も使われた、上質な干し肉だ。
セトが食べる機会があるのも、大抵はそういう干し肉だった。
といはえ、セトはギルムでは多くの者に愛されており、普通の干し肉も食べる機会はそれなりにあったのだが。
そんなセトではあったが、目の前の干し肉は食べない方がいいと判断し……差し出された干し肉をクチバシで咥えると、そのまま遠くに向かって放り投げる。
「あ……」
干し肉を差し出していた盗賊の男は、肉を奪われたことで驚きと絶望の声を出す。
セトを相手に、正面から戦って勝てるとはとうてい思っていなかったからだろう。
そうである以上、干し肉が効果を発揮しない場合は対処のしようがない。
「お、おい。その……どうしたんだ?」
喉を鳴らして自分を見るセトに対し、盗賊は恐る恐るといった様子で尋ねる。
「グルルルルゥ」
盗賊に対して、セトは威嚇の意味を込めて喉を鳴らす。
これを見て、セトが上機嫌であるという風にはとても思えないだろう。
(これ、もしかして……干し肉に眠り薬があるってのを、知ってるのか?)
そんなセトの様子を見ていたパーティリーダーの男は、そんな風に思う。
自分達の用意した奥の手が通用しないと悟ったパーティリーダーの男は、咄嗟に叫ぶ。
「逃げろ!」
そうして叫びながら、本人も急いでその場を後にし……他の者達もそんな指示に反射的に従ったものの、次の瞬間には逃げ出したパーティに向かってセトが襲い掛かるのだった。