2774話
「グルルルルゥ」
「嬉しそうだな、セト。……でも、出来ればもっと別の場所を移動したかったんじゃないか?」
レイはそう言いながら、自分の隣を進むセトを撫でる。
現在レイがセトと共に歩いてるのは、スラム街。
街中を歩けば、レイを捕らえようとするドーラン工房の者達や、あるいは警備兵によって騒動が起きる可能性がある。
だが、ここはスラム街だ。
ここでは絶対に襲われない……といった訳ではないが、それでも襲われる可能性は街中よりも低いし、何よりスラム街である以上、もし襲撃されても周囲の建物の被害を気にしたりといったようなことはあまりしなくてもいい。
とはいえ、このような真似が出来るのは、あくまでもレイが相応の実力を持っているからだ。
だからこそ、実力的にはそこまで高くないリンディや、戦闘能力には自信のない他の者達は未だに風雪のアジトにいる。
アンヌを始めとした何人かは、炊事や掃除の類を手伝ったりして働いているが。
「平和だな」
「グルゥ」
本来ならレイやセトの現状は、とてもではないが平和と呼べるような状況ではない。
だが、それでもレイやセトにとってスラム街で散歩をするだけの余裕はあった。
本来なら、スラム街で暢気に歩いているような者はすぐにでも襲撃されてもおかしくはない。
しかしレイはセトを連れているし、またどこからともなく風雪の客人であるという噂が流れていることもあり、襲ってくるような者はいない。
(ニナもやり手だよな。このくらいなら構わないけど)
風雪に色々と無理を言ってるレイとしては、自分の名前を使って風雪の影響力を今以上に高めるといったような真似をしているニナに不満を言うつもりはない。
勿論、レイが許容出来る範囲を超えれば、相応の態度は取るつもりだが。
ニナも当然その辺りについては理解しており、越えてはならない一線を越える様子はない。
「グルルルルゥ?」
と、スラム街を歩いていたセトは、不意に少し離れた場所を見て喉を鳴らす。
そんなセトの視線を追ったレイは、何故セトがそのような反応をしたのかを理解した。
視線の先に存在したのは、恐る恐ると自分達の方を見ている二人の子供。
双方共に十歳になるかどうかといったような年齢の相手だ。
ただし、見るからに痩せている子供達は、スラム街の住人らしさを見せていた。
(どうする?)
そんな子供達を見て、可哀想と思ったのは事実。
しかし、ここで自分が何か食料を渡したところで偽善でしかない。
一食分の食料を貰っても、それで解決するのは今の空腹だけで、この子供達がこれからどうするのかといったようなことには、到底責任を持てないのだから。
そう理解しながら……それでもレイは子供達をこのままスルーすることは出来なかった。
あるいはレイだけならそうしたかもしれない。
しかし、子供好きのセトが子供達を見てしまったのだ。
そのような状況である以上、セトが子供達をそのまま見捨てる……といったような真似はない。
セトにとって、子供達というのは自分と遊んでくれる相手という認識なのだから。
「グルゥ」
「分かったよ」
セトが喉を鳴らしてレイにお願いすると、レイは仕方がないと諦めて子供達のいる方に向かう。
あるいはこれが大人であれば、セトもそこまで興味を示すといったような真似はしなかっただろう。
だが、相手は子供だ。
だからこそセトは興味を示し、レイもまたそんなセトのお願いを断れない。
……とはいえ、それはあくまでもレイ側の事情だ。
いきなりレイが近づいて来たのを見ると、二人の子供は明らかに警戒の視線をレイに向ける。
スラム街で生きている以上、当然ながら子供達の警戒心は強い。
より正確には、警戒心が強くない子供は余程の幸運でもない限り、生き残ることは難しい。
だからこそ、二人の子供はいきなり近付いてきたレイを警戒する。
それでも逃げなかったのは、逃げた方が危険だと判断した為か。
あるいは、グリフォンのセトを初めて見たことで圧倒されており、逃げるに逃げられなかったのか。
ともあれ、二人の子供はレイが近付いて来るのをただ見ているような真似しか出来なかった。
「ちょっといいか?」
「っ!? ……な、何……?」
子供の中でも、気の強そうな方がレイの言葉にそう返す。
何かあっても自分がもう一人を守ると、そう態度で示している。
そんな子供に対し、レイはミスティリングから取り出したパンを差し出す。
それも、焼きたてのパンを購入してミスティリングに入れていたので、外はサクッと、中はふんわりと柔らかい、そんな白パンだ。
「……え?」
何故自分達にこんなパンを渡すのか。
それが全く理解出来ず、子供は二人揃ってレイを見るが……周囲に漂う焼きたてのパンの香りは、子供達の視線をレイからパンに向けさせるには十分だった。
そんなパンを見て、レイを見て、パンを見て、レイを見る。
何度かそんなことを繰り返した後で、レイは改めてパンを子供達に受け取るように差し出す。
「これ……俺達が食べてもいいの?」
いいの? と尋ねてはいるものの、既に自分の手に渡ったパンは何があっても渡さない。
そんな覚悟を込めた視線でレイを見る子供。
もう一人の子供も、大人しい様子ではあるがレイが渡したパンを放そうというつもりはない。
警戒している二人の子供に、レイは頷く。
「ああ、セト……あそこにいるグリフォンがお前達のことを気に入ったらしくてな。ただ……そうだな。昨夜から今日に掛けて、スラム街に見知らぬ奴が大量に入ってきてるって話はないか?」
情報屋に聞いた方が正確な情報は貰えるのかもしれない。
だが、何の打算もないままにパンを……それも焼きたてのパンを渡すといったような真似をした場合、相手が自分の言葉を素直に信じるかどうかは分からない。
だからこそ、今回に限っては情報を聞くという名目でパンを渡したのだが……
「うん、二十人近い人達が入ってきてるよ」
だからこそ、片方の子供からそのようなことを説明され、レイは驚く。
「本当か?」
「うん。何か危なそうな人達だから、近付かない方がいいって言われてる」
この場合、誰にそのように言われてるのかというのが若干気になるものの、恐らくは子供達の纏め役をしているような者がいるのだろう。
その纏め役が、スラム街にいる子供達を可哀想だと思って纏め役をしているのか、それとも自分の利益になるからそのような真似をしてるのか。
その辺りについてはレイには分からないが、危険な相手の情報を流して子供達の安全に気を配っているのは間違いのない事実。
そうである以上、この子供達にとっては必要な相手なのだろう。
(とはいえ、二十人くらいか。そのくらいなら俺とセトなら何とでもなる)
普通なら二十人を相手にどうにかなるといったように言い切るのは難しい。
しかし、この世界においては質が量を凌駕することは珍しくなく、レイとセトがいれば二十人程度の相手はどうとでもなるのは間違いなかった。
「具体的にどこにその二十人がいるのか、分かるか?」
「え? それは……大体の位置は分かるけど。でも、そこには近付かないように言われてるし」
「なら、場所を教えてくれるだけでもいい」
「教えても、この場所はスラム街なんだから、説明だけでそこに到着するようなことは出来ないよ?」
「なら、そうだな。その場所の近くまで案内してくれたら、パン……いや、サンドイッチを二十個やろう。食べきれない分は、仲間にやればいいし……どうだ?」
既に季節は晩夏というよりは、初秋と呼ぶのが相応しくなっている。
それでも夜や朝はともかく、日中はまだかなり気温が高い。
そうなると、サンドイッチを二十個も貰っても食べきる前に悪くなる可能性は高かった。
それでも子供達は子供達同士で助け合ってスラム街で生きてるのだから、そちらにサンドイッチを分ければいいと、そうレイは言う。
「えっと、でも……うーん……」
レイの誘いに、悩んだ様子を見せる子供。
もう一人の方は、判断を悩んでいる方に任せているのか、ただじっと待っている。
一押しが必要だな。
そう判断したレイは、ミスティリングからサンドイッチを一つ取り出す。
サンドイッチと一口に言っても、薄いハムを挟んでいるようなのもあれば、しっかりとした肉の塊を挟んでいる物もある。
スラム街に住む子供達が食べられるサンドイッチといえば、前者。
それですらご馳走に近い。
そんな中でレイが出したのは、後者に分類されるサンドイッチだった。
オーク肉を焼いて外側はパリッと、中は柔らか仕上げ、煮詰めてとろみのついたソースと新鮮な葉野菜が挟まったサンドイッチ。
ギルムではオーク肉がかなり出回っているものの、辺境以外でオーク肉というのはない訳ではないが、それなりに高額だ。
基本的にモンスターの肉はランクが上がれば上がる程に美味くなるのだが、それはあくまでも基本であって、中には例外もある。
オーク肉はその例外で、ランク以上の美味さを持つ肉だった。
そんな肉を高い技術を持つ料理人が調理して作ったサンドイッチ。
スラム街にいては、一生食べられなくても不思議ではない、そんなサンドイッチだった。
「やる」
そのサンドイッチを見た瞬間、子供は即座にそう答える。
子供達にしてみれば、レイの持つサンドイッチは是非とも食べたかった。
「よし、契約成立だな。なら、その連中がいる場所まで案内してくれ」
「分かった。じゃあ、行こう」
サンドイッチを逃してしたまるかといった様子で子供がそう言い、レイとセトを案内する。
「スラム街で暮らすのは、今はいいけど冬になると厳しくなるんじゃないか?」
「そうだね。この辺りも冬は寒いし、雪も降るから何人も凍死する人が出て来るよ」
それはギルムのスラム街も変わらない。
しかし、ギルムのスラム街の場合、去年はレイがギガントタートルの解体要員として人を雇っているので、それで冬を乗り越える者は多い。
勿論、それはあくまでもレイが個人でやっていることだ。
ギルドやダスカーが協力をしているとはいえ、ギガントタートルの解体が終わってしまえば、それ以上の仕事はなくなる。
それでも数年……場合によってはもう少しの期間スラム街の住人が以前よりも多く冬を越せるというのは間違いなく、そういう意味ではスラム街の住人にとってレイは恩人だろう。
だが、それはあくまでもレイだからこそ出来たことであるし、ギガントタートルの死体というのがあってこその仕事だ。
エグジニスにおいてそのような行為が出来る筈もない。
つまり、このエグジニスにおいて冬を乗り越えるのは非常に厳しいということになる。
とはいえ、まさかここにいる子供達に対し、レイもギルムに来いなどといったようなことが言える筈もない。
そもそもエグジニスからギルムまで、普通に旅をするだけでもかなりの時間が掛かる。
セトに乗って移動出来るレイだからこそ、ギルムとエグジニスを簡単に行ったり来たりといったような真似が出来るのだ。
それこそカミラがブルダンからエグジニスに来るのですら、幸運に幸運が重なった結果でようやくといったところなのだ。
そうである以上、エグジニスからギルムまで子供達だけで移動しろというのは、それこそ死ねと言ってるようなものでしかない。
(セト籠を使えば何とかなるけど……それはそれで、また問題があるだろうしな)
それこそ、ギルムに連れて行くと言った場合、このスラム街にいる者達がどう反応するのか分からない。
ギルムは辺境として有名である以上、そのような危険な場所には絶対に行きたくないと言う者もいるだろう。
現在ギルムが拡大しており、仕事は幾らでもあると聞けばスラム街から脱出する為に行くと言う者もいるだろう。
あるいはスラム街の権力争いで負け、新天地で活動したいと思って行くと言う者もいるかもしれない。
そうなると、一体どれだけの者がギルムに行こうとするのか、その辺りはレイにも全く想像出来なかった。
いっそ子供達だけを連れて行くのはありか? と思わないでもなかったが、それはそれで子供を連れ去ったということで問題になりそうではある。
「ほら、兄ちゃん。早く早く。こっちだよ!」
サンドイッチが余程魅力的だったのだろう。
レイを案内する子供は、急かすように声を掛ける。
……レイの側にいるセトを怖がる様子がないのは、無理をしているからか、それとも本能的にセトは敵ではないと判断したのか。
その辺りはレイにも分からなかったものの、とにかくレイは子供に案内されながらスラム街を進むのだった。