2773話
「アンヌ姉ちゃん!」
「カミラ!? 本当にカミラなのね!」
アンヌとカミラがお互いに近付き、抱き合う。
ここがブルダンの孤児院であれば、この光景は非常に感動的なものだっただろう。
だが、ここはブルダンの孤児院ではなく、エグジニスのスラム街にある風雪のアジトの一室だ。
そのような場所でこうして抱き合っているというのは、正直なところ見ているレイとしては感動的なのかどうかと言われても素直に頷けるものではない。
それでも、カミラはアンヌが奴隷にされてから必死になってエグジニスまでやって来て、リンディに……そして偶然リンディの側にいたレイに助けを求めたのだ。
そういう意味では、カミラの努力や執念が実ったのは間違いのない事実だった。
「じゃあ、カミラはここに預けていくぞ。ここにいれば安全だろ」
「安全? それってやっぱり危なかったの?」
安全という言葉を聞いたリンディが、レイに尋ねる。
リンディにしてみれば、星の川亭はエグジニスの中でも最高級の宿だ。
今は血の刃の暗殺者が侵入した一件で若干評価が落ちているものの、それでもエグジニスにおいて大きな影響力を持つのは間違いない。
そんな星の川亭に預けていたにも関わらず、レイが安全という言葉を使ったのだ。
それを気にするなという方が無理だろう。
「ああ。ドーラン工房の手の者が星の川亭の周辺に集まっていた。もっとも、実際には攻撃をしていなかったし、攻撃をする前に出て来たから星の川亭に被害は出ないだろうけどな」
レイの説明に、リンディは安堵した様子を見せる。
リンディにとって、星の川亭にいる者達の大半は殆ど話したことがないような相手だ。
エグジニスにおいて、冒険者……それも突出した実力を持つ訳でもなく、それなりに腕は立つものの、その他大勢といった存在でしかない以上、星の川亭に泊まるような相手との接触というのは、基本的にない。
それでも自分達の持ち込んだ一件で被害が出るようなことになった場合、罪悪感の類を抱くなという方が無理な話だ。
「そう。よかったわ。なら、これからどうするかね。レイはどうするの? 私達は暫くここで匿って貰うことになるけど」
「今日は俺もここで休むことになるな。明日になったら、また街中に出てみる。それで一体どうなっているのかを試してみたいし。それにロジャーが大丈夫かどうかも気になるしな」
ロジャーは護衛がいるから、そしてレイが頼んだゴーレムの試作品としての防御装置があるから大丈夫だと、そう言ってはいた。
しかし、それでも本当に大丈夫なのかどうか。
護衛をしている者達がドーラン工房の追っ手をどうにか出来るのかといったようなことは、まだしっかりと把握は出来ていない。
この先の一件を考えると、やはりここは自分の目でしっかりと見ておいた方がいいのも事実。
そのような訳で、ここはやはり明日になったら自分の目で見ておきたい。
そうレイが考えるのは当然のことだった。
出会いこそ最悪に近かったが、今となってはロジャーもまた十分にレイの知人、あるいは友人なのだから。
他にも、ロジャーに何らかの被害が出た場合、レイが頼んだゴーレムがどうなるのかといった件もある。
ドーラン工房で作られているゴーレムが人の魂を使った存在であるというのが知られれば、当然その地位は落ちるだろう。
そうなった場合、ドーラン工房に代わってエグジニスにおける最高性能のゴーレムを作るのは、やはりロジャーということになる。
……実際には、ドーラン工房が覇権を握っていた間に他の工房でも技術を高めていたのだから、必ずしもロジャーが選ばれるとは限らないのだが。
「そう。じゃあ、気をつけてね。それと、可能性は低いと思うけど、もしゴライアスさんを見つけることがあったら、保護して貰える?」
「見つけたらな」
一縷の希望に縋るリンディだったが、レイから見れば恐らくゴライアスと遭遇する可能性は低いという認識だった。
もし本当にゴライアスがドーラン工房に捕まっているとすれば、それこそもう魂を素材として使われていて、死んでしまってもおかしくはない。
実際、アンヌ達が閉じ込められていた地下室にゴライアスの姿はなかったのだから。
そう考えれば、やはりゴライアスの生存は絶望的だった。
しかし、それでも恋する乙女としては死体を見つけている訳でもない以上、ゴライアスの生存を信じているのだろう。
(そう言えば、あの祭壇で魂を素材として使った後、死体ってどうしてるんだろうな。盗賊達の分も考えると、結構な量になると思うんだが)
ドーラン工房が今まで一体どのくらいの盗賊達を犠牲にしたのかは、レイにも分からない。
しかし、それでもレイが初めてエグジニスに来る前に遭遇した盗賊から聞いた話によれば、結構な数の盗賊がドーラン工房――当時は分からなかったが――によって捕らえられていた筈だ。
そのような者達は当然のようにネクロマンシーの技術を使った魔法陣と祭壇によって、魂を奪われている。
しかし、ドーラン工房にとって必要なのは魂だけである以上、その身体は邪魔でしかない。
人間一人分の身体ともなれば、それは結構な量となる。
それが一人や二人分ならどうにか出来るかもしれないが、数十人分、もしくは百人以上ともなれば、その死体を処理するのはかなりの労力が必要なる筈だ。
「取りあえず、あの二人はそのままにしておくとして、さすがにそろそろ眠りたいんだが、眠ってもいいような場所はあるか?」
「部屋は、あまり余裕がないわ。個室じゃなくてここなら寝てもいいと思うけど」
「だろうな。まぁ、俺はここで別に構わないよ」
本来なら個室しかないのだが、そこに二人、もしくは三人で使っているのだ。
であれば、レイが眠れるような余裕は当然のようにない。
それでもレイは冒険者だ。
床の上で眠るといったような真似も、やろうと思えば出来る。
(マジックテントを展開する場所があれば、そっちで眠ってもいいんだけどな。いや、そうなるとここの人数が多い分だけ、マジックテントにも何人か引き受ける必要があったか?)
狭い場所で寝る者達には申し訳ないが、レイとしては出来ればここでマジックテントを使いたくはなかった。
「なら、俺はその辺で眠らせて貰うよ。……ちなみに食事はどうなるか知ってるか?」
「一応出してくれるそうよ。その辺はある程度しっかりとしているみたい。レイのおかげだと思うけど」
「そう言われてもな。報酬として支払った鉄のインゴットは、別に俺が自分で買ったものじゃないし」
盗賊から奪った代物である以上。その鉄のインゴットを支払ったことに対して、レイは特に惜しいとは思わない。
同様に、血の刃のアジトから接収した毒の類も惜しいとは思わない。
元々レイの物という訳ではなかったし、それでアンヌやリンディ、イルナラ達の安全が確保されるのなら、レイにとっては何の問題もない。
あるいはレイが何らかの理由で鉄のインゴットや毒を必要とするといったことでもあるのなら、また話は別だったかもしれないが。
「……ありがとう」
リンディの口から、そんな感謝の言葉が出る。
リンディにとって、本来ならレイという異名持ちのランクA冒険者というのは話すことすら難しいような、雲の上の存在だ。
しかし、レイはそんなリンディの考えなど知ったものかといったように、今回の一件を手伝ってくれている。
そんなレイに対し、リンディは感謝していた。
「気にするな。今回の件は俺も色々と関わってるしな。……最悪、俺もドーラン工房のゴーレムを買ってたかもしれないんだ。それを思えば、この程度の手伝いは何も問題ない」
勿論、実際にレイがドーラン工房のゴーレムを購入出来たかどうかは分からない。
クリスタルドラゴンという未知のドラゴンの素材を渡してもいいという条件は出したものの、ドーラン工房がそれを欲するかどうかは、また別の話なのだから。
ゴーレムを製造する以上、未知のモンスターの素材というのは、あれば大きな意味を持つ。
ましてや、それが未知のドラゴンの素材ともなれば尚更だろう。
しかし、それでもネクロマンシーの技術を応用しているドーラン工房にしてみれば、レイという特異点的な存在とは出来るだけ関わり合いたいとは思わない筈だ。
……それでもドラゴンの素材が欲しかったり、あるいは盗賊の消失について調べていることから、血の刃に対して暗殺の依頼をすることになったのだろうが。
「ともあれ、もう夜も遅い。今はとにかく寝るぞ。明日は多分朝から色々と動きがあるだろうし」
そう言うと、レイはミスティリングから取り出した布を床に敷き、その上に寝転がる。
靴を脱いで建物の中に入るといった文化のないこの世界において、床は当然のように汚い。
レイとしては、そんな場所にドラゴンローブを着たままで寝ようとは思わなかった。
だからこそ、レイは布を敷いたのだ。
……ソファか何かで寝てもよかったのだが、その辺は誰か他の者が使うかもしれないという思いからの行動。
そんなレイの様子を見て、アンヌとカミラも話は自分の部屋ですることにしようと考え、そちらに向かうのだった。
意識が急速に覚醒していき、レイはあっさりと目を覚ます。
「朝か」
普段であれば、寝起きは結構な時間……場合によっては二十分近くも寝惚けた様子を見せるレイだが、依頼を受けていたり、何らかの危険のある場所であったりした場合、その目覚めは普段とは違って即座に行動に移れる。
窓も何もない部屋で、眠ったのは真夜中。それこそ必ずしも時間の確認は出来ていないものの、体感時間的には午前二時くらいだった。
そのように睡眠時間が短くてもすぐに起きることが出来る辺り、高ランク冒険者というだけのことはあるのだろう。
事実、レイが眠っていた巨大なリビング――というのは大袈裟だが――は勿論のこと、リビングから繋がっている他の部屋でも、まだ誰も起きている様子はない。
(無理もないか)
冒険者で、更には日本で生まれ育ったレイだからこそ、夜中でも起きているというのはそう珍しい話ではない。
だが、この世界は基本的に夜は早く寝て、朝は早く起きるといった生活をする者は多い。
勿論、中には貴族や大商人といったように金に余裕のある者なら夜中まで起きている者もいるのだが、風雪に匿われている者の中にそのような者はいなかった。
(あ、でもイルナラ達なら、錬金術……というか、ゴーレムの研究で夜遅くまで起きていても……それでも夜中の二時近くまでってのは、ないんだろうな)
そんな風に考えながら、レイはミスティリングの中から果実水を取りだして喉を潤す。
周囲を見てみると、レイ以外にも数人がこの部屋で眠っていたらしい。
部屋割りで余ったのか、あるいは狭い部屋に複数人で眠るよりは、この広いリビングで眠った方がいいと判断したのか。
その辺はレイにも分からなかったが、取り合えず備え付けの水場を使って簡単に身支度をすませる。
「さて、問題は今日をどうするか、か」
出来れば昨夜オルバンと話したように、エグジニスを動かしている者の中でも穏健派と呼ぶべき者に会って、協力を取り付けたい。
しかし、今の状況を思えばそう簡単に出来る訳ではないというのも、理解している。
エグジニスの中でも最大手の暗殺者ギルドとはいえ、実際にエグジニスを動かしている者達の一人と面会の約束を取り付けるというのは、それなりに手間暇が掛かるのだから。
(そうなると、今日はやることがないんだよな。今この状況で街中に出るのは……まぁ、それはそれでありかとも思うけど)
昨夜とは違い、日中ともなれば街中には多数の人がいる。
ましてや、ここはゴーレム産業の盛んなエグジニスである以上、街中を移動している者の中には貴族や大商人といったような者達がいてもおかしくはない。
だからこそ、ドーラン工房の追っ手や警備兵としても街中で好き勝手な真似をするようなことは出来ない筈だった。
(中にはそういうのを全く気にせず、攻撃してくる奴とかがいる可能性もあるから、何とも言えないけど)
少しでも早く手柄を挙げたい。
もしくは目立ちたい。
そのようなことを考え、あるいは何の根拠もなく自分なら上手く出来るといったように判断し、街中にレイがいるのを見た瞬間、攻撃してくる者がいてもおかしくはなかった。
当然そのようなことになれば、レイも反撃するし、それによって周囲に被害が出る可能性も否定は出来ない。
(うん、その辺の事情を考えると、やっぱり迂闊に街中を出歩くのは不味いな)
そう判断するのだった。