2772話
星の川亭から出たレイとセト、そしてセトの背の上で眠っているカミラは、無事にスラム街に到着していた。
スラム街に無事到着するという時点で表現としてはおかしな気がするレイだったが、それでも今の状況を思えばそれは間違っていない筈だった。
現在のレイにしてみれば、ドーラン工房の手の者がいる街中よりもスラム街の方が安心出来る場所なのだから。
(もっとも、今となってはスラム街にもドーラン工房の追っ手は来ている可能性が高いけど。ただ警備兵の方はスラム街に来ることはあまりない……と思う)
それは一種の希望的な予想ではあったものの、それでも何の意味もなくそのように思っている訳ではない。
スラム街の住人にしてみれば、警備兵というのは決して好まれる存在ではない。
警備兵もそれを知っている以上、迂闊にスラム街に行って余計な騒動を起こしたいとは思わないだろう。
警備兵の中にはスラム街の住人と繋がりのある者もいるので、その辺は絶対という訳ではないのだが。
「ん……んん……あれ……?」
スラム街に入って数分。
セトの背の上で眠っていたカミラが目を覚ます。
最初は自分が一体どこにいるのかも分からないといった様子だったのだが、それでも周囲の様子を見て、そして自分の下にある何かが勝手に動いているのを見て、そして何よりもセトの隣を歩くレイの姿を見ると、すぐに状況を理解したのか口を開く。
「あれ? ここどこ!?」
「スラム街だ。今、アンヌやリンディ達のいる場所に向かっている。……覚えてないか? マルカの部屋で待っている間に寝てしまったんだよ」
「あ……」
そこまで言われ、カミラも自分が何故このような状況になっているのかを理解し、納得したような、それでいて動揺したような、何よりもここまで運ばれたのに気が付かなかったことに恥ずかしそうな様子を見せる。
「別にそこまで気にすることはないと思うぞ? お前はまだ子供なんだ。夜になったら眠くなるのは当然だし、そうして眠らないと大きくはなれないしな」
「うー……でも……」
レイの慰め――という程ではないが――を聞いたカミラは最初こそ恥ずかしそうにしていたものの、改めて周囲の様子を眺める。
夜目の利くレイやセトとは違い、カミラは普通の人間だ。
夜の闇の中では大まかな外見くらいしか見えないものの、月明かりが多少なりともその手助けをしていた。
「ここ……どこ? アンヌ姉ちゃん達のいる場所に行くんじゃなかったの?」
「正解だ。で、今はそこに向かってる最中ってところだな」
「え? こんな場所にアンヌ姉ちゃん達がいるの?」
しっかりと周囲の様子を把握は出来なくても、ここが荒れ果てている場所であるということくらいは何となく理解出来る。
そうである以上、アンヌが本当にこのような場所にいるのか……そうカミラが疑問に思うのも当然だろう。
だが、レイはそんなカミラの言葉に対して素直に頷く。
「ああ。スラム街にいる。俺の知り合い……という表現が正しいのかどうかは分からないが、とにかく知っている組織に匿って貰ってるんだよ」
「スラム街にある組織って……」
カミラもそれなりの年齢である以上、ある程度の常識は知っている。
ブルダンにもスラム街は小さいながらも存在し、そこにある組織は関わってはいけない組織なのだから。
カミラも孤児になった時に孤児院に拾われなければ、最終的にはスラム街に行き着き、生きる為に裏の組織に関わるようなことになっていてもおかしくはなかった。
「正解だ。エグジニスの中でも最大規模の暗殺者ギルド、風雪。そこがアンヌやリンディ達を匿って貰っている組織だ」
「暗殺者ギルドって……本気なの!?」
驚きの声を発するカミラ。
まさかここでそのような組織に匿って貰うとは思ってもいなかったのだろう。
カミラにしてみれば、暗殺者ギルドなどというのは恐怖の象徴でしかない。
だからこそ、レイの言葉に思わずといった様子で叫んだのだろう。
しかし、レイはそんなカミラの言葉に躊躇する様子もなく頷く。
「風雪は義理堅い組織だ。きちんとした依頼なら、それを受けてくれる。ドーラン工房の追っ手が来た場合でも、依頼を受けた以上は最大限の努力をしてアンヌ達を守ってくれる筈だ」
風雪の中には、レイを気にくわないと思っている者も多い。
だが、それでも仕事は仕事と割り切れるだろうというのがレイの予想だった。
もしレイの仕事だからと手を抜くような者がいた場合、その者は恐らく最悪の結末になるだろうというのは、レイにも容易に予想出来る。
そんなレイの顔を見て、カミラも取りあえずは信じてもいいと判断したのか、それ以上不満は口にしない。
代わりにカミラが喋ったのは、周囲の様子を見ての疑問だった。
「ここ、スラム街なのに平和なんだね。夜だから?」
「そうかもしれないな」
実際には、レイやセトに関わると間違いなく不幸になると思っているからこそ、レイやセトにちょっかいを出してこないのだろう。
スラム街で生きる為には、情報が非常に重要となる。
だからこそ、レイ達はこうして何の問題もなく道を進んでいた。
(とはいえ、中には妙な考えを起こす奴もいたりするんだが。……いないな)
元冒険者で自分の実力に自信のある者。
暗殺者崩れで、殺しなら誰にも負けないと思っている者。
あるいは最近スラム街に来たばかりで情報の重要さすら理解していない者。
他にも様々な理由で、レイ達にちょっかいを出すような者がいてもおかしくはない。
にも関わらず、カミラが言うように本当に何の騒動もないままレイ達はスラム街を進める。
(これは……もしかして風雪の方で手を回したのか? 俺の為というよりは、スラム街の為といった理由なんだろうが)
風雪にしてみれば、スラム街というのは自分達の組織の構成員を集める為の場所というのもあるし、外との防壁的な役割も期待出来る場所だ。
そのようなスラム街の住人が、下手にレイに絡んで被害を受けるのは面白くないと、そう考えてもおかしくはなかった。
そうして結局特に誰にも絡まれるといったようなことがないまま、レイ達は風雪のアジトに到着する。
先程出ていったばかりのレイが戻ってきたことに驚きの様子を見せた見張り達だったが、それでもレイ達を止めるといった真似はしなかった。
恐らくニナ辺りから、レイが戻ってくるかもしれないと言われていたのだろう。
それだけではなく、レイの側にはセトがいる。
風雪のアジトの門番――門はないが――を任されている者達だけに、相応の実力を持つ。
だからこそ、セトを前にした時に自分達では勝ち目がないというのは、十分に理解出来たのだろう。
「悪いけど、入るぞ」
「好きにしてくれ」
短く返されたその言葉に、レイはカミラをセトの背から下ろすとカミラと共にアジト……正確にはカモフラージュ用に廃屋となっているアジトに入る。
「え? ここ?」
カミラはここが本当に風雪のアジトなのかと、戸惑いの声を出す。
実際、何も知らない状況でこの廃屋にやって来れば、とてもではないがここが風雪のアジトだとは思えないだろう。
……もっとも、中に入ろうとしても門番達に止められるだろうが。
「そうだ。こっちに来い。ある意味、ここは男のロマンだぞ。秘密基地や隠し部屋的な意味で」
レイが日本にいた頃、そして小学生くらいの時は、山の中に秘密基地を作ったこともある。
そういう意味では、カミラも秘密基地や隠し部屋に興味を持つのかと思っての言葉だったが……
「え? 本当に!?」
レイが予想していた以上に、カミラは秘密基地や隠し部屋という言葉に反応した。
アンヌやリンディの件はいいのか? と思わないでもなかったものの、カミラにとってはレイが大丈夫だと言ってるのだから心配はしていないというのが正直なところだ。
「ああ、そうだ。……ほら、行くぞ」
興奮したカミラを連れて、地下に続く隠し階段のある場所まで移動する。
カミラにしてみれば、隠し階段などというのは、本当に初めて見る代物であり、それだけで非常に興奮していた。
だからこそレイが隠し階段を見せると、驚きと興奮で先程まで眠っていたとは思えない程に騒ぎ出す。……いや、先程まで眠っていたからこそこうして元気なのかもしれないが。
とはいえ、このテンションで地下に……風雪のアジトに向かうのは、少し不味い。
カミラがこのテンションのまま誰にでも話し掛けるといったような真似をした結果、それによって風雪の暗殺者達を刺激して妙なことになりかねないのだから。
風雪の暗殺者を刺激するという意味では、それこそレイの存在そのものが最大の理由となるのだが。
「落ち着け。ここから先は風雪のアジトだ。この先にいるのは暗殺者達だから、あまり騒ぐなよ。セトもいないんだから、迂闊に騒動を起こした場合、カミラが無事かどうかは分からないんだぞ」
アジトの外で待っているセトがいて、そのセトの背の上にカミラが乗っていれば、カミラに危害を加えられるといったような心配をする必要はない。
だが、レイだけである以上、何らかの問題が起きた場合にカミラを守り切れるかどうかは微妙だった。
そんなレイの考え、カミラは理解した訳ではない。
ただ、レイの言葉から今は静かにしていた方がいいと、そう判断して騒ぐのを止める。
黙ったカミラを率いて、レイは風雪のアジト……カモフラージュ用の廃屋ではなく、地下に存在する本当の意味でのアジトに入っていく。
「これは、レイさん。一体どうしたんですか?」
地下に入ったレイに真っ先に声を掛けてきたのは、レイも初めて見る顔だ。
風雪に所属している全員の顔を知ってる訳ではない以上、レイが相手の顔を知らないのは当然の話ではあったが。
「カミラ……この子供をアンヌやリンディ達に預けに来た。ニナから聞いてないか?」
「あ、はい。レイさんがまた来るかもしれないとは聞いてましたけど」
「そうか。なら案内を頼む」
「分かりました」
レイの言葉に素直に頷くと、話していた男はレイとカミラを案内する。
そんな男の後ろを歩いていたレイだったが、不意にカミラがドラゴンローブの裾を引っ張る。
「どうした?」
「あの人、本当に暗殺者ギルドの人なの?」
カミラの目から見れば、自分達の前を進んでいる人物が暗殺者のようには思えない。
レイはカミラの言葉に納得すると同時に頭を軽く撫でる。
「ああいう奴の方が、実は怖いんだよ」
以前レイが風雪に血の刃を襲撃して貰おうと思ってきた時、スラム街で見るからに戦士といった血の刃の暗殺者に襲われたことがある。
しかし、レイにしてみればそのような相手より、一般人にしか見えない暗殺者の方が厄介な存在だ。
見るからに攻撃性の強い相手であれば、それこそレイなら容易に対処出来る。
それに比べて殺気を見せずに近寄って来るような相手というのは、対処が難しい。
そのような場合、半ば反射的な動きで対処するしかない。
……普通に考えれば、そのように反射の動きで対処出来る時点でおかしいのだが。
そんな訳で、レイとしてはこのような見るからに一般人といった相手の方が厄介な相手だった。
とはいえ、セトの警戒を掻い潜ってレイに近付くのは、それだけでかなりの難易度なのだが。
しかし、そんな風に思えるのはレイが何度も暗殺者と戦っており、それ以外にも様々な実戦を潜り抜けてきているからだ。
暗殺者などという存在は、それこそ噂で聞いたか、もしくは物語でしか聞いたことがないカミラにしてみれば、レイの言葉には疑問しかない。
「どうかしましたか?」
特徴がないのが特徴といった、平凡な顔つきの男の言葉に、レイは首を横に振る。
「いや、何でもない。カミラは子供だからな。初めて暗殺者ギルドのアジトに来ただけに、周囲の様子に興味津々なんだよ」
「ああ、なるほど。それはそうかもしれませんね。ただ、見てはいけない物も色々とありますので、そういう場所は見ないように気をつけて下さい。その時は、色々と面倒なことになるでしょうから」
この場合の面倒というのは、余計な物を見たカミラを殺すという意味か、もしくは手打ちをする為に条件を詰めるということか。
それはレイにも分からなかったが、本来なら必要のない行動を今ここでする訳にもいかないだろうと判断する。
「分かった。カミラにはその辺を気をつけさせるよ。アンヌ達……匿って貰っている連中のいる場所まで連れて行けばカミラのことは任せられるから、そっちはあまり気にしないでいい」
そう告げるレイの言葉に、納得したかしてないのか。
その辺は分からなかったが、男はそれ以上追及するような真似はせず、案内を続けるのだった。