2761話
「ようこそ、レイ様。正直なところ、ここまで早く再会するとは思いませんでしたが」
風雪のアジトである建物の中に入ると、そこには既にニナの姿があった。
レイの姿を見ると、即座にそう声を掛けてくる。
その視線はレイだけを見ている。
あるいは、ここにセトがいればニナの視線はセトに向けられたかもしれないが、セトはいつものように建物の中に入るのは不可能だったので、外で待っている。
……この建物の護衛として配置された暗殺者、普通のスラム街の住人の振りをしている者達は、自分のすぐ側にセトがいるのを気にしていたが。
なお、覆面の男はレイを建物まで案内したことで用件は終わったのか、レイに向かって短く頭を下げるとそのままどこかに消えていった。
アジトの中に入るのではなく、夜の闇の中に。
風雪の所属なのだから、一緒にアジトに入ってもいいのでは? と思わないでもなかったが、風雪には風雪のやるべきことがあるのだろうと判断し、特に声を掛けるような真似はしなかった。
そういう訳で、現在この風雪のアジト……ただし本当の意味でのアジトである地下ではなく、カモフラージュとして用意された廃屋の主役は、レイとニナの二人だった。
なお、レイと一緒にここまで来た者達の中でも男の多くはニナの美貌に目を奪われていたが。
ニナの美貌にはそれだけ異性の……場合によっては同性の視線すら惹き付ける魅力があった。
正確にはそのような美貌を持っているからこそ、風雪の交渉を担当しているのだろう。
ときには、その美貌を使った色仕掛けで相手に自分達の要望を飲ませる為に。
「そうだな。正直俺もここまで早く再会するとは思ってなかった。ただ……今この状態において、頼りになるのは風雪くらいしか思いつかなかったんだよ」
「それは嬉しいことだと、本来ならそう言いたいのですけど」
ニナの視線は、ここで初めてレイ以外の面々に向けられる。
そこにあるのは、困ったといった表情。
勿論ニナのことなので、それが本心からのものであるとはレイも思っていない。
恐らくは、交渉担当としてレイと一緒にいる者達に見せる為に、わざとそういう表情を浮かべているのだろう。
「俺の要望としては、この連中を匿って欲しいというものだ。この連中は、ドーラン工房の一件に関係してる。血の刃との一件とも無関係じゃない」
「そうでしょうね」
血の刃がドーラン工房と繋がっていたのは、契約書もあることから間違いなく、ニナはその契約書をレイに渡している。
それからそう時間が経っていない時にこのような騒動が起きたとなると、当然ながら今回の一件にドーラン工房が関わっていないとは、ニナにも到底思えなかった。
だが、そう思ってもニナとしては血の刃との一件はもう終わったことだと、そう判断している。
それだけに、今こうして改めてドーラン工房の一件を持ってこられると、それはそれで困るのだ。
「勿論、そういうのを頼むんだから無料だとは言わない。今回の一連の事件で入手した鉄のインゴットが大量にあるんだが、それを全部渡してもいい」
「鉄のインゴット……ですか」
レイの口から出て来た報酬に、少し戸惑った様子を見せるニナ。
当然だろう。まさか報酬としてレイが提案したのが、鉄のインゴットだったのだから。
「随分と予想外の報酬を渡すのですね」
「そっちが欲しがってる物として、思いついたうちの一つがそれだったしな。……暗殺者ギルドとして、お抱えの鍛冶師くらいはいるんだろう? その連中に武器を作らせるとなれば、鉄のインゴットは必要になると思ったんだが」
実際には余っている鉄のインゴットを押し付けようという考えしか持っていないレイだったが、それが風雪の役に立つのなら問題ないだろうとも思う。
「そうですね。必要かどうかと言われれば、必要ではありますが。それでも今回の件でそれを報酬として提示するとは思っていなかったので」
「他には……そうだな。血の刃から入手した各種魔法薬。あれがあっただろ? 風雪で調べて貰ってる奴。それを渡しても構わない」
そうレイが言った瞬間、ニナの表情が一瞬驚きに変わる。
風雪の中でも交渉担当として、今まで多数の交渉を纏めてきたニナが、今のように露骨に表情に驚きを露わにしたのだ。
それは見ている方にしてみれば、驚き以外のなにものでもない。
レイも当然そんなニナの様子に気が付きはしたものの、その件で特に何かを言うつもりはない。
(多分、俺には分からなかったけど何らかの特殊な……高価な魔法薬とかあったんだろうな。それが具体的にどういう薬品なのかは分からないけど)
若干その辺は気になるレイだったが、ここで無理にその薬について聞いて、結果としてその魔法薬を渡したくないといったようになるのはごめんだった。
だからこそ、その件についてレイは何も言わなかったのだ。
「そ、それは……本当によろしいのですか?」
「ああ、それでいい。どうだ? ニナの様子を見る限りではそう悪くない取引だと思うんだが」
「そうですね。それこそ、本当にそこまでして貰っていいのですか? と疑問に思うくらいにはこちらにとっての好条件です」
「なら、追加でもう一つ頼む。風雪の規模なら、奴隷の首輪を解除するといったような真似も出来るだろ? ここにいる連中は半ば、あるいは完全に違法な手段で奴隷にされた連中だ。これを何とかして欲しい」
「分かりました。お引き受けしましょう」
あっさりと、それこそ一瞬の躊躇もなくレイの要望にそう告げるニナ。
レイにしてみれば、まさかニナがそこまではっきりと言うとは思わなかっただけに、魔法薬は一体どういうのがあったんだ? と、先程気にしないと決めたばかりなのに、余計にそう思う。
「お、おう。そうか。……そういうことらしいぞ」
ニナの様子に驚きながらも、レイはアンヌを始めとした奴隷の首輪を巻いている者達に向かってそう告げる。
奴隷の首輪が外れるのは嬉しそうだったが、暗殺者ギルドに頼ってもいいのか? と若干気まずそうな様子を見せるアンヌ達。
「ありがとう、レイ。感謝するわ」
そんなアンヌ達に代わって感謝の言葉を口にしたのはリンディ。
冒険者として相応の荒事をこなしている分、まだそれなりに暗殺者という存在に対応出来たのだろう。
あるいは、それ以外にも同じ女であるからこそニナの美貌を前にしても男達のように動きが止まらなかった、という点もあるのかもしれないが。
「気にするな。お前はどうする? アンヌは助けたんだし、このままアンヌやイルナラ達と行動を共にしてもいいと思うんだが」
「いえ、レイと一緒に行くわ。幸い、アンヌさんの件はもう心配はいらなくなったもの。そうなると、後はゴライアスさんを見つけないと」
「……そうだな」
ゴライアスを捜すリンディの様子には、レイも色々と思うところがある。
もしゴライアスが本当にドーラン工房に捕まったのだとしたら、恐らく……いや、ほぼ間違いなく、既に魂を奪われていてもおかしくはなかった。
リンディも当然その可能性には気が付いているのだろうが、今となってはとにかくそれを信じたくないといったように思っているように見える。
そうである以上、もしここで自分が何か言っても……具体的には問題がないといった様子で告げたとしても、リンディがそれを素直に聞くとは思わなかった。
それどころか、ここで妙なことを言えば余計に意固地になってしまい、絶対にゴライアスを見つけるのを止めないと、そのように思ってもおかしくはない。
「レイ様、こちらの話に戻っても構いませんか? この方々を預かる……いえ、匿うのはいいのですが、それは具体的にいつくらいまでになる予定でしょう?」
リンディの言葉を遮るように、ニナがそうレイに声を掛ける。
ニナにしてみれば、アンヌやイルナラ達を預かるのは問題ないものの、だからといっていつまでも延々と預かるといったような真似は出来ない。
そうならないようにする為には、最初から具体的にいつまでと区切りをつけておく必要があった。
レイを敵に回すといった選択肢はニナにはないし、風雪にも存在しない。
しかし、だからといってレイの頼みとはいえ、レイの要請を無条件で聞くといったような真似が出来る筈もない。
だからこそ、今の状況でレイにこのような言葉を投げ掛けたのだ。
「いつまで、か。ドーラン工房の一件が片付くまでと言いたいところだけど、ニナが聞きたいのはそういうことじゃなくて、もっと別のことだろ?」
「はい。具体的には何日間なのかといったようなことでお願いします」
「……何日か、か。そうなると、それはそれで難しいな。取りあえず鉄のインゴットと魔法薬で引き受けられる最大の日数としてはどれくらいになる?」
鉄のインゴットはともかく、魔法薬の一件で交渉に慣れたニナであっても表情を変えたのだ。
だとすれば、時間的な余裕はかなりあるのではないかと、そう思っての問い。
「そうですね。最大限まで譲歩して……二十日といったところですか」
「……それはまた、随分と俺が予想していたよりも短いな。もう少し余裕があると思っていたんだが」
魔法薬の分も。
言葉にはしなかったが、レイの口から出た言葉はそう匂わされていた。
そんなレイに対し、ニナは首を横に振る。
「レイ様はドーラン工房という組織を甘く見ています。私達風雪は、エグジニスの中では最大規模の暗殺者ギルドであるのは事実ですが、それでもドーラン工房が本気を出した場合、その力には及びません。……勿論、風雪が全力で対抗するのなら、ある程度の時間を稼ぐことは出来るでしょう。ですが、生憎と先程の報酬ではとてもではないですがそんなことは出来ません」
純粋に報酬の額が足りないのだと、そうニナは言う。
かといって、レイとしても今回の一件で自分がそこまで報酬を支払うというのは、面白いことではない。
「お前達、何か報酬として支払える物はあるか?」
だからこそ、レイは自分と一緒に逃げてきた者達にそう尋ねる。……具体的には、奴隷とされていた者達ではなくイルナラ達に向かってだが。
奴隷にされた者達は、当然ながら私物の類は持っていない。
あるいは持っていたとしても奴隷とされた時に奪われているだろう。
しかし、イルナラ達は違う。
非主流派とはいえ、ドーラン工房の錬金術師であった以上、何か報酬として支払えるような物を持っていてもおかしくはない筈だったのだが……イルナラは首を横に振る。
「着の身着のままで逃げ出してきた私達に、一体どのような期待をされているのですか?」
「報酬として支払える何かだな。……物じゃなくて、いっそ知識の類でもいい……よな?」
一応といったように視線を向けるが、ニナは頷く。
「勿論、知識であっても構いません。ただし、それが本当に風雪にとって有益であればの話ですが」
「だ、そうだけど。どうだ? ゴーレムを作る錬金術師として、風雪に何らかの利益を提供出来るか?」
「それは……」
戸惑った様子を見せるイルナラ。
いや、それはイルナラだけではなく、他の錬金術師達も同様だった。
(この様子だと、今すぐ風雪に何らかの利益を与える知識を用意しろと言っても難しそうだな)
ドーラン工房で現在行われている不正をどうにかする為に、イルナラ達はレイ達と行動を共にしているのだ。
そんな自分達が暗殺者ギルドに錬金術師として協力するといったようなことをしてもいいのかどうか迷ってしまうのは、そうおかしな話ではない。
「取りあえず、最低二十日は匿ってくれるらしいから、その間にどうするかを決めればいい。あるいは、その二十日の間にドーラン工房の件が片付くといった可能性も否定は出来ないからな」
「……分かりました」
レイの言葉にたっぷり三十秒程黙り込んだ後、イルナラはそう答える。
イルナラにとっては、レイが言ってるように二十日の間にドーラン工房の件が片付くというのが最善の結果だろう。
レイもそのつもりではいるものの、今回の件は今まで接してきた事件とは少し性質が違う。
そうである以上、具体的にどのくらいでドーラン工房の一件が片付くのかは、分からないというのが正直なところだ。
エグジニスで冬越えをするつもりはないので、冬が始まる前には片付けたいと思っているが……それはあくまでもレイがそう思っているというだけの話であり、それが実現するのかどうかは実際に試してみなければ分からないことだった。
だからこそ、何かあった時は自分達でどうにかするようにとイルナラ達には言い聞かせ……そんなレイの言葉の全てを理解した訳ではないにしろ、イルナラ達はその言葉に頷くのだった。