2760話
覆面の男……男と分かったのは、その身体が女らしい曲線を描いていなかったからというのが理由だ。
とはいえ、もしかしたら……本当にもしかしたらの話だが、実はスレンダーな体型の女であるといった可能性も否定は出来なかったのだが。
「レイ様ですね。スラム街にやって来た……それもこれだけの人数を引き連れてきたということは、私達風雪に用件があってやって来た、と考えてもいいのでしょうか?」
覆面の男のその言葉に、レイは風雪の使いかと納得する。
敵意や殺気の類はなかったのであまり警戒はしていなかったものの、それでもこうしてきちんと自分の所属を明らかにしてくれるというのは助かる。
……勿論ここがスラム街である以上、もしかしたら風雪以外の所属で、風雪を騙っているだけという可能性も否定は出来ないのだが。
ドーラン工房の手の者が自分に接触してきたという可能性を考えれば、それを完全に否定するようなことも出来ない。出来ないのだが……それでも、レイは目の前にいる覆面の男は恐らく風雪の者であると予想していた。
以前接触してきたソレイユと、どこか似た気配を発していたから、というのが大きい。
「ああ、ちょっと風雪に頼みたいことがあってな」
「……そちらの方々の関係で? 察するところ、ドーラン工房の方達とお見受けしますが」
風雪にして見れば、血の刃がレイを暗殺するように頼んだ契約書を渡したのは自分達だ。
そうである以上、レイがドーラン工房を襲撃するというのは予想していたし、エグジニスの中でも最大規模の暗殺者ギルドともなれば、当然だがドーラン工房についての情報も集めており、イルナラ達の顔も非主流派の錬金術師として知っていた。
そんな者達とレイが何故一緒にいるのかとなると、それには答えるのが難しかったが。
「そうだ。ちょっとドーラン工房でやらかしてな。向こうにとって都合の悪い……それこそ知られたら絶対に殺すしかないといったようなことを知ってしまったから、連れて来た」
連れて来たと普通に言うレイだったが、風雪の男にしてみれば、それに自分達が巻き込まれるのはどうかと、そんな風に思ってしまう。
とはいえ、レイとドーラン工房のどちらを敵に回すのが恐ろしいのかと言われれば、レイの実力を知っている者なら全員がレイだと答えるだろうが。
「それで……その方達をこちらで受け入れろと、そういうことでしょうか?」
「そうなるな。勿論永久的に受け入れろと言ってる訳じゃない。今回の件が片付くまでの臨時でいい」
レイの言葉に、覆面の男は少し考え……やがて頷く。
「その辺りの判断は、残念ながら私には出来そうもありません。申し訳ありませんが、そちらについては交渉担当のニナ様と話して貰えますか?」
「分かってる。こっちも元々そのつもりだった。そういう訳で、これから風雪のアジトに向かおうと思ってるんだが、問題はないか?」
「問題ありません。とはいえ、このままの人数で移動するとなると、妙な騒動になったりしかねません。私がアジトまで案内しましょう」
「頼む」
正直なところ、覆面の男のその言葉はレイにとって願ったり叶ったりといったところだった。
以前スラム街に来た時とは別の場所から入った為、風雪のアジトに無事到着出来るかどうか、微妙だったのだから。
スラム街の中でも中央付近に向かえばいいということまでは覚えていたものの、正確な場所に関しては、レイも探しながら向かうしかなかった。
しかし、風雪の人間がいるのならきちんと案内してくれるだろう。
一瞬……本当に一瞬だけだったが、レイの中に実は風雪ではなく、血の刃の代わりにレイの暗殺を引き受けた者の手先ではないか? といったようなことを思ったのだが、レイはすぐにそれを却下する。
そこまで疑えば、それこそ誰も信じることは出来なくなるだろうと、そう理解しているのだ。
「ええ、お任せを。風雪から何人か連れて来たので、護衛については心配いらないかと」
覆面の男の言葉は、レイにとって助かるものだったのは間違いない。
レイとセト、リンディだけでここにいる全員を守るというのは、かなり難易度の高い話だったのだから。
とはいえ、暗殺者ギルドから派遣されたということは、当然のように派遣された者達も暗殺者となる。
そんな相手が本当に護衛を出来るのか? と若干疑問に思わないでもなかったが……覆面の男はここまで自信満々なのだから、取りあえず問題はないのだろうと、そうレイは判断する。
「そんな訳で、こいつについていくぞ」
他の面々にそう告げるレイだったが、何人かは微妙な様子を見せていた。
冒険者であったり、商人であったり、もしくはスラム街の住人であったりすれば、暗殺者と接する機会もない訳ではない。
しかし、一般人が多数となっている一行にしてみれば、暗殺者というのは恐怖を抱く相手でしかないのだ。
だからこそ、暗殺者と言われれて微妙な反応を示したのだろう。
……なお、イルナラ達錬金術師も暗殺者ギルドとの関わりは低い。
血の刃と関わりがあったのは、現在の主流派の錬金術師達なのだから当然の話だ。
それでも、ここで一緒に行動しないという選択肢はない。
ここで暗殺者のような不気味な存在と関わるのは嫌だと言ってレイ達から離れた場合、それこそいずれやってくるだろうドーラン工房の追っ手に捕まるか、それ以前にスラム街の住人によって襲撃される可能性も否定は出来なかったのだから。
そうして一行は、覆面の男に案内されるようにスラム街を進む。
入り口付近にいたスラム街の住人とは違い、もっと深い場所にいるスラム街の住人は覚悟の決まっている者も多い。
場合によっては、レイやセトがいても襲撃してきた者もいたかもしれないが、今は風雪の男が一緒にいる。
覆面の男や、密かに護衛をしている暗殺者達。
そのような存在がいると知れば、スラム街で暮らしているだけにエグジニスの中でも最大勢力の風雪を敵に回そうと考えるような者はいない。
あるいはいても、仲間が止める。
結果として、スラム街に入った割には特に誰かに襲撃されたりといったようなこともないまま、歩き続けることが出来ていた。
「な、何だ。スラム街っていうからどんなに怖い場所かと思ってたけど……そこまで怖い場所でもないんだな」
「そうよね。私、てっきりスラム街ってもっと怖い場所だと思ってたわ」
「えー? あれ? 俺が以前スラム街に来た時は、もっと怖かったんだけど」
「その時は偶然そんな感じになったんだろ」
そんな風に言葉を交わす者達を見て、レイはこのままでいいのか? と迷う。
今回スラム街を安全に移動出来ているのは、あくまでもレイやセト、そして風雪から派遣されてきた覆面の男がいるからこそだ。
もしそのような者達がいない状況でスラム街に来た場合、間違いなく絡まれるだろう。
いや、絡まれる程度ならともかく、襲撃されて殺されるといったようなことになる可能性も決して否定出来なかった。
そう思えば、やはりこのままスラム街という場所を誤解したままいるのは問題だろうと思い、レイは口を開く。
「言っておくが、今回何の問題もなくここまで来ることが出来たのは、俺とセトがいて、途中からは風雪からきた案内人がいたからだぞ。もし俺達がいない状況でお前達がスラム街に来たら……どうなる?」
「食い物にされますね。最悪の場合は物理的な意味で」
「……え?」
気楽にスラム街について語っていた者の一人が、覆面の男の言葉に間の抜けた声を上げる。
食い物にされるというのは、それこそ奴隷として売り払われたり、騙して何らかの罠を仕掛けるといったようなことをするという意味で理解出来るものの、それが物理的な意味で食われるとなると、また話が違ってくる。
それはつまり、文字通りの意味で食べられる……人肉を食べるといったような意味にしか思えないのだから。
最初は冗談か何かではないかと思うも、覆面の男の雰囲気にはそんな様子は一切ない。
覆面で男の顔は見えないが、それが尚更に本気で言っていると理解してしまう。
そうである以上、先程まではスラム街はそこまで怖い場所ではないと言っていた者達も、口を噤まざるをえなかった。
「分かったみたいだな。なら、あまり喋ってスラム街の住人を刺激するような真似はするな。お前達は、あくまでもここではお客さんでしかないんだからな」
レイの言葉に、皆が……それこそ、冒険者のリンディまでもが、素早く頷いてみせる。
そうして一行は、先程までの和気藹々とした雰囲気とは一変し、スラム街を進む。
静かになった移動に安堵しながら、レイは自分の隣に来たセトを撫でる。
セトが後ろからレイの横に来たのは、風雪の暗殺者達が護衛についたのを理解したからこそだろう。
同時に、もしこの状況で背後が襲撃されても、事前にそれを察知出来る能力があると、そう理解しているから、という点も大きい。
「セト、お前だけを外で待たせて悪かったな。……大丈夫だったか?」
「グルルルルゥ!」
レイの言葉に、大丈夫! と喉を鳴らすセト。
そんなセトだったが、やはり長時間自分だけが外で待ってるというのは寂しいものがあったのか、レイに顔を擦りつけてくる。
ギルムにあるマリーナの家はともかく、エグジニスにおいてレイが泊まっている星の川亭は当然ながら厩舎がある。
そして夜はレイが部屋で眠り、セトは厩舎で寝るのだから、ドーラン工房の外で待っていた時間はそこまで長くないと、そう思う者がいてもおかしくはなかった。
しかし、セトにしてみればそれとこれとは大きく違うという認識なのだろう。
だからこそ、セトはレイに思い切り甘えていた。
……先程の、スラム街の危険云々といった話は、とてもではないが想像出来ないような、そんな光景。
そんな一人と一匹を見れば、覆面の男の言葉は脅しだったのではないかと思う者もいる。
しかし、先程会話をした限りでは、到底そのように思えなかったのも事実。
取りあえずここは黙っていた方がいいと皆が理解し、それは正しい選択だったのは事実だ。
そのような状況で暫く歩き続け……体力のない何人かが、さすがに疲れを覚えて足がふらつき始めた頃、ようやくレイの視線の先には見覚えのある建物が現れた。
以前来た時と比べると別の方面からの移動だったので最初は少し違和感があったが、それでもこうしてある程度近付けば、風雪のアジトだと納得出来た。
「あそこだ」
短く呟くレイ。
それを聞き、スラム街を歩いていた者達は緊張した様子を見せる。
自分達を案内しているのが暗殺者ギルドの人物であるというのは、レイとの会話から予想出来ていた。
出来てはいたものの、それでも改めて暗殺者ギルドのアジトが見えてきたと言われれば、一般人であれば緊張するなという方が難しいだろう。
「すぐにニナに会えるのか?」
「はい。ニナ様もレイ様に会えるのを楽しみにしていたようです」
そう言う覆面の男の言葉には、隠そうとはしているものの隠しきれない羨ましさが存在していた。
覆面の男にとっても、希に見る美貌を持つニナという人物は憧れの存在なのだろう。
その気持ちはレイにも分かるが。
「そうか。なら、すぐに交渉をする必要があるか。……さて、そうなると問題となるのは報酬として何を渡すべきか、か」
当初は鉄のインゴットの残りを全部押し付けてしまえばいいと思っていたレイだったが、それで本当に引き受けるか? という疑問もある。
とはいえ、強気に出れば恐らくニナは引き受けるだろう。
ニナにとって……いや、風雪にとって重要なのは、可能な限りレイと敵対しないことなのだから。
しかし、レイとすれはそこまで強引に力でどうこうしたいとは思わない。
もしそのようなことをした場合、間違いなく後々面倒になるだろうから。
そうならない為には、やはり鉄のインゴット以外にも何か風雪にとって欲しがるような代物を渡す必要がある。
(斧? まぁ、武器としては使い道があるけど。そうなると……槍? いやいや、俺が持ってる槍は、大半が半分以上壊れてる奴だし)
そのような槍を渡せば、報酬どころか喧嘩を売っていると思われてもおかしくはない。
(となると……血の刃から入手したポーションとかの類を報酬にするか? 他にも色々と効果を調べて貰っている薬の類とかはあったし)
レイにしてみれば、取りあえず何か風雪が満足するような報酬を支払う必要があるだろうと判断しながら、風雪のアジトとなっている建物に向かって進む。
以前来た時と同様、何人かの護衛と思しき者達はいたが、今回はレイが来るという話を聞かされていた為だろう。特に何か妨害をするといったようなことはなかった。