2759話
スラム街に向かって走っているレイ達。
当然ながら、本来ならそんな集団が外を走っていれば……それも何かに追われるように走っていれば目立つのだが、夜ということで、この辺りにはドーラン工房以外の工房は少なく、人もあまりいないということもあってか、そこまで人目につくといったことはなかった。
とはいえ、当然ながらそれでも誰にも見つからないといった訳にはいかず、少数の者達は逃げていくレイ達の姿を見て、一体何だ? と疑問に思っている者も多かったが。
「一体何があったんだ?」
「さぁ? 俺達には関係ないだろ」
「そうだけど……でも、逃げてた奴の中にはグリフォンがいた。噂になってるのは知ってるだろ?」
「深紅か。それでもこんな場所で大きな騒動を起こしたりといったようなことはまずないと思うんだが。……あ」
走り去った一団を見送っていた二人は会話をしながら歩いていたが、やがてレイ達が逃げてきた方向……ドーラン工房の方から、十人以上の武装した集団が走っているのを見て、会話を止める。
先程の一件から考えると、間違いなくこの集団が追っているのはレイ達だと、そう断言出来た為だ。
そんな集団の先頭を走っている者が、二人に向かって叫ぶ。
「逃げてきた奴を見なかったか!」
その迫力は、それこそ嘘を言えば殺されると、もしくは殺されはしないものの、殴られたりするのでは? と思わせるような迫力を男達に教えて、半ば本能的に答える。
「あっちに行った! あっちだ!」
そう言い、レイ達の逃げた方を指さす男。
その指さしている方がスラム街であるというのを知ると、追っ手の中でも先頭を走る男はうんざりしながらも感謝の言葉を口にする。
「感謝する!」
そう言いながら、追っ手の集団は男達とすれ違う。
そして追っ手の集団が完全にいなくなったところで、男の一人が呟く。
「何があったんだと思う?」
「そう言われてもな。さっきの深紅……レイ達と関係してるのは明らかだと思うけど、それ以外で何かあったんだろうけど。本当に一体何が起きたんだろうな」
当然のように、何が起きたのかは分からないと男の友人が言ってくるものの、今の状況においてそこまで詳しい事情は分からない。
……あるいは、先程の集団を追えば一体何があったのかといったようなことも分かるのかもしれないが、わざわざそのような真似をしようとは思わない。
ここで下手にトラブルに関与した場合、最悪自分達が最悪の結末になる……といった可能性も、否定は出来ないのだから。
そうである以上、この件に関してはこれ以上自分達から関わるような真似はせず、酒場かどこかでこういう光景を見たといったように話のネタにするくらいのことしか思いつかない。
実際にはそこまで秘密にしなければならないとなれば、そのように酒場で話のネタにした場合、口封じをされる可能性も否定は出来なかったのが。
そこまでは考えが及ばなかったらしい。
そうして男達はこの場から少しでも早く離れるということを優先するのだった。
「レイ、後ろから追っ手が来てるわ!」
最後尾を走るリンディが、先頭を走るレイに向かって叫ぶ。
そんなリンディの隣では、セトが走っている。
レイに頼まれ、この集団の最後尾をリンディと共に守っているのだ。
リンディが後ろから追ってくる冒険者達……ドーラン工房に警備兵として雇われた者達の姿を確認しながらも、そこまで恐怖するといったようなことがないのは、セトの存在も大きいのだろう。
ちなみに何故こうも早く追い付かれたのかとなると、それは当然のようにレイやリンディ、セト以外の者達の走る速度が遅いからだ。
レイやセト、それに冒険者として活動しているリンディはともかくとして、それ以外の者達は決して日常的に運動している訳ではない。
アンヌは孤児院で働いていた以上、子供達と一緒に走り回ったりといった事もあるので多少は体力があるが、それだけだけでしかない。
特にイルナラを始めとする錬金術師達は、普段は研究ばかりを行っている以上、どうしても運動能力という点では劣ってしまう。
そんな者達の走る速度に合わせているのだから、当然のようにその速度は遅くなってしまう。
少なくても、背後から追ってきている追っ手達と比べれば、明らかに速度差があった。
「セト!」
リンディの言葉を聞いたレイは、即座にセトの名前を呼ぶ。
それだけで、セトはレイが何を希望しているのかを理解し、走っていた中で急に方向を変える。
真後ろという、正反対の方向に。
普通の人間がそのような真似をすれば、間違いなく足を挫く……場合によってはアキレス腱を切ったり、足首の骨が折れたりしてもおかしくはなかった。
しかし、それはあくまでも普通の人間の場合だ。
グリフォンという高ランクモンスターにしてみれば、今のような動きで怪我をしたりといったようなことは基本的にない。
隣を走っていたリンディは、いきなりセトがそのような動きをしたことで驚きの表情を浮かべていたが。
「グルルルルゥ!」
「ちょっ、レイ!?」
いきなりのセトの行動に驚いたリンディがレイにどうするのかといったように叫ぶが、レイは走りながらそれに答える。
「構うな、後方の敵はセトに任せておけばいい! 俺達は今は逃げるのを最優先にするぞ!」
レイの言葉に込められているのは、絶対的なまでの信頼感。
セトであれば、完全に安心してここを任せることが出来ると、そのように思えるだけの信頼を抱いていた。
今は敵を倒すよりも、とにかく一刻も早くスラム街に逃げ込むのが最優先なのだから。
そう決意して走るレイを、他の者達は必死になって追う。
レイと共に離れていく者達とは違い、この場をレイに託されたセトは逆走して自分達を追ってくる者達に向かって突っ込んでいく。
「うっ、うわあああああっ!」
追っ手の中で先頭を走っていた男の口から上がる悲鳴。
まさか自分達が追っている相手がこうして向かってくるというのは完全に予想外だったのだろう。
先頭を走っている者が混乱すれば、当然ながらその後を走っている者達も何かがあったのかと、そう考え……その瞬間、周囲に響き渡るようにセトが大きく鳴く。
「グルルルルルルルルゥ!」
セトの持つ王の威圧は発動し、先頭を走っていた冒険者は走りながら動きが止まる。
当然のように走っている状態でいきなり動きが止まると、その勢いのままに転び、地面に倒れ込むことになる。
最初に転んだ者の背後から走ってきている者達も同様に転び、先頭にいる者達にぶつかるのだ。
結果として、先頭を走っていた者やその周辺にいた者達は転ぶだけではなく仲間達が転んだのに巻き込まれ、決して小さくない怪我をした。
中には骨折をした者もいた。
「グルルルゥ」
全員が転んだ追っ手達を見て満足そうに喉を鳴らすと、セトはすぐにその場から踵を返す。
悠々としたその態度は、それこそ見ている者にモンスターの王といった印象を抱かせるには十分だった。
これ以上追えば、自分達は間違いなく死ぬ。
そう思わせるのに十分な態度。
だからこそ、追っ手の者達は黙って見送ることしか出来なかった。
……動こうにも、王の威圧の効果で動けなかったのだが。
「動ける奴、いるか?」
セトの姿がなくなったところで、転んでいる者の誰かが呟く。
しかし、その場にいる者の中でその言葉に反応する者はいなかった。
「きゃあっ!」
突然後ろから聞こえてきた雄叫びに悲鳴を上げるリンディ。
慌てて背後を確認するリンディだったが、そこで見た光景は追っ手の者達が全員転んでいるといったもの。
今の雄叫びが理由でそのようになったのは、間違いない事実。
一体何が起きたのかは分からなかったが、それでも雄叫びが理由であのような状況になっているのは間違いない。
(一体何があったの?)
そんな疑問を抱くが、今この状況でレイに尋ねる訳にはいかない。
そうして迷っていると、後ろにいたセトが追い付いてきた。
「グルゥ!」
リンディはセトの鳴き声の意味は理解出来ない。
それでも、今のセトがもう大丈夫! と言ってるように思えたのは間違いないし、そして事実それは当たっているように思えた。
「ありがとう、セト」
そんなセトの様子が分かったからこそ、リンディは素直にセトに感謝の言葉を口にしたのだろう。
リンディの言葉に、セトは嬉しそうに喉を鳴らす。
そうして走り続けたレイ達は、目指していたスラム街に到着する。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
スラム街に到着したことで走る速度を緩めるレイ。
背後からは大きな呼吸の音が聞こえてくる。
それこそ何人かは地面に倒れており、大の字になって激しい呼吸を行っていた。
「さて……取りあえずは大丈夫そうだな」
普通に考えれば、こうしてレイ達のような集団がここにいた場合、スラム街の住人ならすぐにでも襲撃してきてもおかしくはない。
しかし、スラム街の住人達にもレイ達がただの集団であるとは思えないのだろう。
実際、その判断は正しい。
もし襲撃をしようものなら、それこそレイやセトによってあっさりと倒されていたのは間違いないのだろうから。
あるいは、少しでも情報に詳しい者がいれば、数日前にレイとセトがスラム街に入ってきた時、それを狙った……いや、狙おうとした者達がレイに捕まって消されたという話を知っているだろう。
実際には風雪のアジトのある場所を聞いて、その情報料として斧を渡し、レイに情報を提供した二人は斧を持ってスラム街から逃げ出したというだけの話なのだが。
「出来れば前もって風雪に話を通して起きたいんだが……それはそれで難しいんだよな」
何しろ、戦力が足りなすぎる。
レイとセト、そしてかなり落ちてリンディ。
この二人と一匹でこれだけの人数を守りつつ、スラム街を移動する必要があるのだ。
また、追っ手はセトの王の威圧によって追撃が出来ないようにしたが、追加で送られてきた第二陣の追っ手がいた場合、当然王の威圧の効果を受けてはいないので、スラム街まで到着する可能性は否定出来ない。
そうなると、リンディも一人や二人を相手にするのならともかく、それ以上を相手にするのは難しいだろう。
だからといって、風雪と繋がりのないリンディを風雪のアジトに派遣する訳にもいかない。
セトはといえば、それこそ風雪側にセトの言葉を理解出来る者がいないのが大きかった。
あるいはセトが行ったことでレイとの繋がりを理解し、レイが自分達を呼んでいると判断して行動を起こしてくれる可能性もあったが、レイとしてはそんな不確実なことに頼りたいとは思わない。
そうなると結局レイが行くしかないのだが、レイがいなくなればいなくなったで、こっちが微妙なことになる。
セトがいるので戦力的には問題ないのだが、セトの言葉をしっかりと理解出来るのはここにいる中だとレイだけだ。
そんな状況で何か面倒なことになった場合、間違いなくそれが余計に拗れてしまう。
かといって、何人か体力に余裕のある者を風雪のアジトに向かわせるというのは論外となる。
風雪のアジトを知らず、戦闘力という点でも一般人でしかない者達なのだから。
「結局、このまま全員で移動するのが最善な訳だ。……そろそろ起きろ、立ち上がれ、行くぞ」
結論づけて告げるレイに、地面に倒れていた者達は何とか起き上がる。
本来なら文句の一つも言いたいのかもしれないが、自分達がこの状況でここにいるのが危険だというのは考えるまでもなく明らかだ。
どうせ休むのなら、もっとしっかりとした場所で休みたいという思いもある。
だからこそ、今はどんなに辛くても立ち上がり、進む必要があった。
……離れた場所から様子を見ていたスラム街の住人は、そんな者達の姿を見てどこか不気味なものを感じ、関わってはいけない相手だと判断してその場から離れる者も多い。
スラム街の住人達の動きにはレイも気が付いていたが、今はとにかくこの場にいる全員を連れて風雪のアジトまで行く必要があった。
出来れば金で雇って自分達の手伝いをさせるといったようなことも考えたのだが……生憎と、それをする前にスラム街の住人の大半が消えてしまっている。
そうして先頭を進むレイは、錬金術師や奴隷達を率いてスラム街を進む。
目指すのは、風雪のアジト。
そこまで行けば、取りあえずここにいる自分とセト以外の面々は預けることが出来るだろうと、そのように思っての行動。
そんなレイ達の様子に、スラム街の入り口だけではなく奥にいるスラム街の住人達も特に何らかのちょっかいを出してくることもなく……そう思っていると、道の向こうから顔を覆面で覆った一人の男が姿を現すのだった。