2758話
「よし、やっぱりまだ誰もいないな」
地下室を出て通路を歩き、階段を上がって部屋に出たレイは周囲の様子を窺ってそう告げる。
正直なところ、もしかしたら今ここに敵がいるのではないかと、そんな可能性も考えていた為だ。
しかし、実際のところはこうして部屋にやってきてもそれらしい相手はおらず、特に何の問題らしい問題もなく全員が部屋に出ることに成功する。
(そろそろ向こうの援軍がやって来てもおかしくはないんだけどな。一体、何でそんなに遅いんだ? いやまぁ、それはこっちにとっては楽なことなのは間違いないけど)
本来なら、レイを含めて現在ドーラン工房で暴れている者達がここに揃っている。
そうである以上、援軍を求められればすぐにでもここに人を送ってきてもおかしくはない。
レイはそう思っていたのだが、幸か不幸かその援軍が新たにやって来る様子はなかった。
これは一体何故そのようなことになっているのか……そうレイが疑問に思っても、おかしくはない。
とはいえ、ここで全員を守りながら戦うのが難しいのも、また事実。
そういう意味では、今回こうしてまだ援軍が来ていないというのは、運がいい事態なのは間違いなかった。
「アンヌ、問題ないな?」
敢えてここでアンヌにそう尋ねたのは、奴隷の首輪の効果が本当に無効化されているのかの確認の為だ。
実際には無効化というより、自由に行動してもいいというイルナラ達によって行われた命令の上書きがきちんと機能しているかどうかを確認する為の言葉というのが正しい。
「ええ、特に問題らしい問題はないわ」
そう告げるアンヌの表情には、奴隷の首輪が締まる痛みや苦しさを隠しているようには見えない。
他の奴隷達も同様であるというのを考えると、その言葉は決して嘘ではないのだろう。
そんなアンヌ達を見て頷いたレイは、リンディとイルナラ達非主流派の錬金術師を見る。
「じゃあ、いつまでもここでこうしてゆっくりとはしていられない。そろそろ、脱出するぞ。方法とこれからの行動は地下室で話した通りだ。何か異論は?」
ここで疑問は? と聞けば、あるいは何人かが色々と尋ねてきた可能性も否定は出来ない。
だが、異論はといったようなことを聞かれれば、それに対して反応することは難しい。
本音を言えば、レイの出した提案……ここを脱出して風雪に匿って貰うといった行動に、色々と思うところがある者はいるのだろう。
だが、今この状況で一番正しい行動をしているのはレイだと、そう理解は出来ているのだろう。
そうして皆が何も異論がないというのを確認すると、レイは再び口を開く。
「よし、なら行動開始だ。ここからはかなり急ぎになる。足を止めるような真似はするなよ。リンディ。一応お前が最後尾だ。何かあったら自分で対処するんじゃなくて、すぐ俺に知らせろ」
戦力的には完全に安心出来る相手という訳ではないが、現在の状況で頼れるのがリンディしかいないのは間違いない。
本来なら、一番危険なのは最後尾だ。
ドーラン工房からの追っ手が来た場合、それに対処するのは最後尾となるのだから。
レイとしては、自分が最後尾に行きたいという思いがあるのは事実。
しかし、脱出するには建物を破壊する必要があり、それを行うのは先頭に立つ者なのだ。
だからこそ、レイとしてはセトがいれば……という思いがあった。
それでも外に出ればセトを呼べるだろうと、そう自分に言い聞かせる。
とはいえ、セトが暴れるともの凄く目立つことになる以上、出来ればそのような真似はしたくないというのが、レイの正直なところだが。
ともあれ、その場にいる全員が頷いたところでレイは壁に対してデスサイズを振る。
斬っ!
そんな音と共に、壁はあっさりと切断される。
当然の話だが、ここは地下室の改修に際してしっかりと強化されている筈だった。
そうなると当然のように壁もしっかりと強化されているのだが、そんな強化は関係ないとばかりにレイが振るったデスサイズの刃は壁を切断したのだ。
おおっ、と。
それを見ていた者の何人もが驚きの声を上げる。
イルナラ達のように、ゴーレムと戦った場所の壁を切断したのを見ていたような者達も、そんなレイの様子に驚かされていた。
純粋な難易度としては、ゴーレムと戦った場所の壁を切断した方が難易度は高いのだが……レイが実際に壁を斬るのを自分の目で直接見たからこその驚き、というのも大きかったのだろう。
レイはそんな風に驚いている者達に向かって声を掛ける。
「何をぼけっとしてるんだ。行くぞ! 今はここでじっとしていられるような余裕はない筈だろ!」
そんなレイの言葉に、今の一撃に目を奪われていた者達の全員が我に返る。
「そうよ、皆、行くわよ。私が最後尾を守るから、後ろについては安心して進んでちょうだい」
リンディの叫びに頷きつつ、空いた穴から外に出る。
当然のように先頭を進むのはレイだ。
いつの間にか右手にデスサイズを持ちながら、左手には黄昏の槍を持つという、いつもの二槍流でのスタイル。
先程までは部屋の中だったこともあって黄昏の槍は持っていなかったのだが、外に出てしまえばそんなのは関係ない。
そうして外に飛び出たレイだったが、幸いなことに周囲に誰かの気配の類はないし、最初に遭遇したようなウォーターゴーレムが見回りをしているといった様子もない。
運がいいという思いがない訳でもなかったが、同時にレイにしてみれば今この状況になったことそのものが決して運がいい訳ではないという思いもある。
そもそもの話、レイそのものがトラブル誘引体質とでも呼ぶべき存在なのだ。
何故そのようなことになってるのかは、正直なところレイも分からない。
分からないものの、今はそんなことを考えていられるような余裕はないと、そう理解していた。
そんなことを考えながら走っていると、やがてドーラン工房の建物全体を覆っている壁が見えてくる。
中に入る時はスレイプニルの靴を使って跳び越えたものの、今のこの状況ではそのような真似が出来る筈もない。
レイだけではなく、何人もの護衛対象を連れているのだから。
もしレイだけ、もしくはリンディだけなら、再びお米様抱っこをして壁を乗り越えることも出来たのだが、この人数になるとそんなことをする訳にもいかない。
だからこそ、レイは前もってイルナラに出来るだけ建物は壊さないようにするといったように言っておいたのだから。
「はぁっ!」
壁が間近まで迫ったところで、鋭い気合いの声と共に振るわれるデスサイズ。
その一撃であっさりと壁は切断され、次の瞬間には黄昏の槍を使った一撃が切断した壁を破壊する。
ざわり、と。先程建物の壁を破壊した時よりは小さいが、レイの背後を走っている者達がざわめくのを感じるレイだったが、今はそれを無視して攻撃によって出来た道――もしくは穴――を進む。
「セト!」
壁を飛び出した後で、レイは不意に叫ぶ。
いきなりのことだったので、レイの後ろを走っていた者達は驚いたようだったが、それよりも今はもう逃げ出すという行動を行ってしまった以上、そちらを優先する方が先だと判断したのか、今は走るのに集中していた。
そして、数秒後……やがて、レイが何をしたのかの結果が現れる。
「グルルルルルゥ!」
空から響いたその鳴き声に、レイの後ろを走っていた者達の動きが一瞬鈍くなる。
それを気配で察したレイは、背後にいる者達に向かって鋭く叫ぶ。
「これは援軍だ! 援軍だから、気にするな! 味方だからお前達に危害を加えたりはしない!」
その言葉をどこまで信じたのかというのは、レイにも分からない。
この状況でいきなり上空から聞こえてきた鳴き声に、反応するなという方が無理なのだから。
これは、明確にレイのミスだった。
セトの存在をリンディ以外の他の者達に知らせていなかったのだから。
……正確には、アンヌもセトの存在については知っていたのだが、ここで姿を現すというのは驚きだろう。
「グルルルルゥ!」
レイの味方だという言葉を聞いたセトが、そうだよと喉を鳴らす。
とはいえ、それはあくまでもセトと親しい者であれば、それが友好的なものだとは分からない。
レイの後ろを進む者達にしてみれば、セトはどこからともなく突然姿を現した脅威的なモンスターという認識にしかならないのだ。
「ちょっ、イルナラさん! グリフォンですよ、グリフォン! 羽根の一枚でも貰えれば!」
中にはそんな風に言ってる錬金術師もいたが。
そんな錬金術師に対し、イルナラは走りながらも鋭く叫ぶ。
「今はそれよりも、とにかく走ることを優先しなさい! 今この状況で、グリフォンに注意を抱いている暇があると思いますか!」
その叫びに、セトに意識を向けていた錬金術師も黙り込む。
実際、錬金術師達は体力的に心許ない者も多い。
今はまだドーラン工房から脱出したという緊張感や、まだ殆ど走っていないということから余裕がある。
だが、恐らくそう遠くないうちに体力が限界を迎える者が出て来るだろうというのは、自分も錬金術師だからこそイルナラにも理解出来た。
(へぇ、自分達の状況はしっかり理解してるんだな。非主流派の錬金術師達を纏めてると考えれば、それも当然かもしれないけど)
先頭を走るレイは、背後から聞こえてくる会話からイルナラの様子に感心する。
とはいえ、今はまず感心するよりもここを離れてスラム街に行くのを優先する必要がある。
「セト、最後尾に回ってリンディと一緒に後ろの護衛を頼む」
「グルゥ!」
任せて! とレイの言葉に喉を鳴らしたセトは、そのまま走る速度を落として後方に向かう。
そんなセトの様子を錬金術師達が興味深そうに、そして奴隷達は怖々とみていたものの、特に騒動らしい騒動はないまま、セトはリンディと共に最後尾を守ることになる。
(それにしても、追っ手は遅いな。一体何でだ? 普通に考えれば、すぐにでも追っ手を出す……いや、出せない? そうか、祭壇の間の関係か?)
ドーラン工房にしてみれば、まさに秘中の秘といった祭壇の間。
レイ達が侵入したその場所にあった魔法陣を刻み、最も重要と思われる祭壇を破壊している。
それどころか、破壊した祭壇をレイはミスティリングに収納して奪ってすらいた。
ドーラン工房の者達……主流派の錬金術師達にしてみれば、一体何が起きたのかすら分からないと、そう思ってしまうだろう。
それによって、追撃の命令を出すのが遅れているのではないかというのが、レイの予想だった。
とはいえ、そのような状況の場合、祭壇の間で具体的に何かがあったと知れば、それこそすぐにでも追っ手を放つだろう。
そして当然ながら、放たれる追っ手は腕利きが揃っており、何が何でも逃げている者達を捕らえるようにと、そう命じられている筈だ。
レイ達にとって不幸中の幸いなのは、何らかの手段で祭壇を持ち去られている以上、それを取り返す手段をどうにかして聞き出す必要があり、出来るだけ殺すなといったような命令がされる可能性が高いということか。
とはいえ、それはあくまでも出来るだけであり、全員を確実にといったようには言われないと思うが。
(それに、祭壇に予備があったりしたら、俺達を生け捕りにする必要はないけどな)
レイとしては、グリムとの会話から祭壇がかなり貴重なマジックアイテムの一種だと理解している。
そんな物がそう簡単に複数あるかと言われれば、素直に頷くような真似は出来ないが……それでも、ドーラン工房であると考えれば、必ずしも否定は出来ない。
何しろドーラン工房にしてみれば、祭壇と魔法陣がなければ魂を使ったゴーレムの核は作れないのだ。
そうなると、当然ながらこのエグジニスにおけるドーラン工房の影響力は落ちてしまう。
今の状況において、そのような状況に主流派の錬金術師達が耐えられるかと言われれば、正直なところ微妙だろう。
人というのは、一度上の生活を体験してしまえば、それを以前の水準に戻すのに大きな抵抗を感じるのだから。
ましてや、ドーラン工房の錬金術師ということでもてはやされていたのも、これ以降はなくなってしまう。
そのようなことを許容出来るか。
レイは恐らく無理だろうなと、そう思ってしまう。
そうである以上、今この場でどうにかして祭壇を取り戻すといったような手段に出るのはおかしな話ではない。
何よりも自分達のゴーレムの秘密が暴露されるといったようなことになれば、それはドーラン工房の主流派の錬金術師達にとっては最悪の未来しか待っていないと確信出来るのだから。
だからこそ、このままということはまずないと、そうレイは思いながらスラム街まで走るのだった。